それで、いいですね?
あらすじ
還暦を越えた主人公の〝私〟。30代の頃は中堅の音楽マネジメントオフィスで、マネージメントしていた女性アーティストとの不倫をきっかけに、家庭を崩壊させたばかりか、恩のあった会社に対して、これでもか! というほどの迷惑をかけてしまいました。
女性アーティストを守るためとはいえ、オフィスは、〝私〟が一方的に女性アーティストにストーカー的につきまとっていたという偽りのストーリーを捏造することでことを納めようとしたのです。
トホホな自殺未遂の後、そのストーリーを知った〝私〟は、事実をしたためた文章を流布しようと試みたのですが……。
「アジール ー自分軸の拠点ー」では、中堅音楽マネジメントオフィスの社長が主人公でやはり離婚を経験しておりますが、こちらでは一般社員が主人公で、どうしようもないジコチューで、トホホな行動にイライラするかもしれません。
ここまでのダメ人間ぶり。執筆前、あまり気乗りしなかったのですが、書き始めたら、いつのまにか書き上がってしまいました。
*400字詰め原稿用紙換算で、60枚弱のボリュームです。
1.プロローグ(夢の中で)
40歳になったばかりだった。
まだ21世紀に入ったばかりの頃、私は南青山にあった音楽情報サイト運営会社のオフィスで働いていた。
マーケティングセクションのリーダーだった私は、不思議なことに、共用スペースでユニマットのコーヒーを入れるのにやたらと手間取っていた。濃い茶色のプラスチック製のホルダーと白いインサートカップが、普段より一回り大きくなっていたからだ。
コーヒーを持って戻った私のセクションには誰もいなかった。私はランチタイムに入っていたことを忘れていた。この日が初出社の中途採用の新入社員を歓迎しようと、上司・同僚・部下たちは、私を待たずにランチに出かけたようだ。
私は独り、昼食を摂るためにオフィスを後にした。
当時の私が住んでいたのは、東京都中野区。といっても中央線沿いではなく、青梅街道の地下を走る東京メトロ丸の内線沿いだった。
青山墓地から北方向に徒歩数分のオフィスを出た私は、まもなく、私の住居に近い中野区の青梅街道から入った昭和の風景を残す路地裏を歩いていた。そこは現実の世界ではなく、還暦を越えた私が、それまで何度か夢の中で体験したことのある〝仮想〟の街並みだった。
そこで、会社の別セクションの30代の男性社員2人と会ったので、2、3分、立ち話をした私は、いつの間にか、令和になった今、私の住んでいる杉並区松庵の最寄りの、井の頭線久我山駅に近づいていたことに驚いた。
駅周辺の景色は、この夢の中で初めて観た景色で、現実とは異なり建物はまばらで殺伐としていた。というより、景色ではなく観念としての街並みと言ったほうがいいだろう。
ひたすら歩き続けた私は、昼食を食べるどころではなく、昼休み休憩の1時間内にオフィスに戻らなければならないと焦り始めた。
杉並区松庵から港区南青山のオフィスまで歩く途中の景色も、それまでの夢の中で観たことのない景色だった。しかも、現実世界では杉並区から港区は東方向だが、この世界では北西の方向だった。
川幅が三メートルほどの小川に架かる橋を渡ったものの、私には進むべき道がわからない。
(こちらのほうが近道だろう……)という直感に従おうか? と思ったものの、(いや、後になって取り返しのつかないことになるかもしれない……)と思うと怖くなる。
タクシーに乗るしかない、と思ったところで、タクシーなど走っていない。そこは田圃の中の畦道だったからだ。
そんな夢から醒めた私は、ベッドの中で(またか)と呆れた。
夢の中では、現実世界の〝時間と空間〟の制約から自由になる。
睡眠中に体験する夢の世界は、支離滅裂というのが常識だが、私はそれほど支離滅裂だとは思わない。時間と空間から自由になれば、因果関係という制約からも自由になれるだけのことだ。
我々は現実世界で整合性をもって生きているつもりでいるが、実は、意識・態度・言動・行動の前後関係は必ずしも整っているとは限らない。
その矛盾に気づかないまま、整合性のある生活を送っていると自分に言い聞かせ、無理に自身を歪めていることもあるのではないだろうか?
これは余談だが、整合性の齟齬が、夫婦喧嘩からビジネス・アライアンスの決裂に至るまでの様々なトラブルの原因となることもあろう。
夢の世界では、現実の生活のなかで自動的に排除され、削ぎ落とされてきた〝本質〟が顕わになることもある。還暦を越えた今、私はそう思うようになってきた。
私のネガティブな本質の一つ、それは孤立感だ。
集団に属している自分が、いつの間にか独りになってしまうことに唖然とする、微妙な孤立感。孤立は孤独とは異なる。
孤独とは文字通り、独りでいることだが、孤立とは複数の人間によって構成される組織・集団の中でこそ感じるものだ。
さらに、円満な自己完結が可能な孤独に対し、孤立には、自己憐憫と被害者意識という厄介な奴がセッでまとわりついてくる。
そして痛恨。(こっちのほうがいいだろう)と思っていたのは大間違いで、見込み違いの景色を見て、方角がわからなくなって唖然とし、予定通りに移動できないことに絶望する。
孤立感と痛恨。それは今朝、私が体験した夢のモチーフであり、同時に私の人生を彩ってきたネガティブな本質の一部なのだ。
令和になり、還暦を過ぎてから始めた夜のランニングは、あっという間に4年目に入っていた。松庵と久我山の住宅街のほぼ2㎞のルートを、息が切れない程度の低速で走る。普段は意識などしていない呼吸を意識して走るので、運動といっても半分は瞑想のようなものだ。
そのランニングコース沿いのとある一軒家に、小さな葡萄棚がある。
暗めの裸電球に照らされたその葡萄棚を眼にするたび、理由はわからないが、何となく心が落ち着き、まだ大学を卒業する前、母とともに昭和の街の蕎麦屋でムジナそばを食したことを連想する。
ムジナそばとは、たぬきそばときつねそばのハイブリッドで、天かすと油揚げが入っている。令和の今、私の知る限り、近場の蕎麦屋でムジナそばというメニューを見ることはなくなった。
ノスタルジックな暖色系の明かりに照らされた葡萄棚が、昭和の蕎麦屋のムジナそば、それも母と一緒に食した記憶と結びつく。そこに嗅覚も蘇ってくる。蕎麦屋特有の油の臭い、いや匂いだ。プルースト効果の例を持ち出すまでもなく、嗅覚は視覚、聴覚、味覚、触覚よりも強烈だ。
暖かな明りに照らされた葡萄棚、ムジナそば、母との外食。
それら三つの要素から発した矢印は、一本の矢印となってある目的地へ辿り着く。
それは、死だ。死こそ、究極の安息だ。
2.リセットしようと思うの
私が30代の中頃、1990年代半ばのことだった。
当時、私は中堅の音楽マネジメントオフィスで、アーティストマネジメントの仕事をしていた。中堅とはいっても、当時のオリコンの左ページ(ランキング50位以内)に載っていたオルタナ系男性ロックバンドを抱えていた。
他にもやはりメジャーデビューしていた女性ソロシンガーが2人いて、そのうちの1人、Rの担当が私だった。
私がRのチーフマネージャーに就任したのは、私の結婚から3年目のこと。
その3年前に、特に強く惹かれたわけでもなかった私は、ただ何となくという気持ちと、両親に早く孫の顔を見せたいという気持ちから、3歳年下のYという女性と結婚していた。
結婚から3年目、私たち夫婦は世間並に倦怠期を迎えていた。
それほど結婚に乗り気ではなかった私よりも、Yのほうの倦怠感が強かった、と思ったのは、私の自分勝手な解釈かもしれなかったが。私たちに子供はいなかった。
そして、私より一回り年下のRのマネジメントを始めて間もなく、私とRの不倫が始まった。
Rとの不倫は約1年続いた。私自身は、家庭を持ったまま不倫関係を続けられるような器用な人間ではなかったし、小心者だと自覚していたが、いつの間にやら、そんなセルフイメージから解放されたような錯覚の中、Rとの不倫を堪能していた。
最初はツアー先での火遊びのつもりだったが、気がついたら日常化していたのだ。オフィスにも家庭にもその事実が漏れることはなかったが、呆気ない破局を招いてしまったのは、私の嫉妬だった。
離婚する気など皆無で、家庭を持つ男の自分勝手な不倫なんだから、Rとの距離感に細心の注意を払え、という私の自我(エゴ・左脳)の声は、爬虫類の脳の感情の暴発を抑えられなかった。
まだ20代後半だったR、しかもディーヴァ系ソロシンガーのRの周りには、スタディな恋人候補たちを含め、多くの異性たちが群がっていた。
たまたまその異性たちの中に、私と敵対関係にあり、私が強い嫌悪感を抱いていた数名がいたことが、私から理性を奪い去った。
不倫を始めてから1年後の5月のある日、そのことをRに問い詰めた私に、電話でRが放った一言。
「リセットしようと思うの」
リセットするのは私との不倫関係だ。
Rからの通告に愕然としたのは言うまでもない。それから魂の抜けたような私は、鬱になりそうな精神状態ながら、半年は業務を続けてきた。
しかし、悪いことは続くもので、そんな私の様子を不審に思った妻のYは、たまたま彼女の友人が勤めていた興信所に私の身辺調査を依頼した。
オフィスにも家庭にもバレることなく不倫関係を続けていたものの、プロの興信所員の手にかかれば、それまでの一年間の私の行状の全ては、あっという間に暴かれてしまった。
興信所の報告書を私に突き付けたYは、数日後、離婚届の書類も私に突き付けた。
「子供がいなかったのは不幸中の幸いね……」
Yの捨て台詞だった。貯金を切り崩して慰謝料を払うことにはなったものの、子供がいなかったのは私にとっても不幸中の幸いだった。養育費の負担がないだけではない。もし子供がいれば、おそらくYが養育することになり、私から引き離されることで、孫の誕生を喜んでいただろう両親を悲しませることになったからだ。
Yとの離婚後、オフィスに無断欠勤し、当時、住んでいた浜田山のマンションに引き籠った私だったが、多忙なオフィスが1日たりとも私を放っておくわけがなかった。
引き籠った初日、ボスのTさんが私の携帯に電話をかけてきた。そんな普通のことでさえ、意外に感じてしまった私の精神状態は、かなり常軌を逸していた。
Tさんからの着信履歴を見つつも、そのまま放置していたら、案の定、怒るよりも心配してくれたTさんからのメッセージが留守電に記録されていた。Tさんはそういう人だった。
Tさんは私より4歳年上で、この業界では珍しい、いや希少種と言っていいほど物静かな人だった。共通の知人の紹介をきっかけに、再就職に苦戦していた私を拾ってくれただけでなく、海千山千の魑魅魍魎が跋扈する社内と業界の中で、いつでも私を擁護してくれた、親兄弟に次ぐ恩人だった。
3.頼むからもうこんな心配をかけないと約束してくれ……
Tさんの留守電メッセージを無視した私が衝動的に向かったのは、北陸のある自殺の名所で、日本海に面した断崖絶壁の上だった。
北陸新幹線などなかった当時、少しでも早く日本海側へ行くため、私は飛行機を使って移動した。
現地に到着後、すぐに死ねばよかったものを、海に飛び込む前に旅館に飛び込んだ私は、今生最後の夜と、夕食時、地酒を呑みに呑みまくった。後になってよくわかったのだが、心の底から、100パーセント死ぬ気ではなかったようだ。ただ思いつく限りの衝動的な行動をとっていただけだったのだ。
翌朝、日本海に面した断崖の上で私は震えていた。観光シーズンではなかった5月のことで、人影は少なかった。と思ったら、現地の人が現われた。私の姿と表情を見て、すぐに私が何をしようとしているのか察したようだ。50過ぎだっただろうか、灰色の上下の作業服を着た漁師のような男は私にこう言った。
「とにかくな、俺の眼の前で死なれちゃ、気分悪りぃんだよ」
そう声を掛けられた私は、何と答えていいのかわからず、ただ黙ることしかできなかった。
「あんた、こんなところで長い間、こうしてるから、誰かが通報しちまったようだ……」
漁師風の男に声を掛けられて、ただ恐怖に呑まれて佇んでいた私は、男に礼を言うこともできず、パトカーに乗せられ、地元の警察署で事情聴取を受けた。
翌日、身元引受人として警察署まで来てくれたのは、埼玉県内の実家に住んでいた父だった。70歳を越えていた父に、まるで補導された中学生か高校生のような私のため、警察、しかも北陸にまで足を運んでもらうとは、恥ずかしくてこの上ないことだったが、当時の私にそれを恥じる余裕さえなかった。
都市銀行を定年退職し、65歳までの5年間、その銀行のある支店でパート勤務していた父は、まさか古希を過ぎてから、こんな体験をするとは夢にも思っていなかったはずだ。そりゃそうだろう。私自身もそうだった。
海外旅行には何度も行っていた父だったが、自ら想定外の緊急事態に対応しなければならず、埼玉県内の実家から、長野新幹線と在来線の特急を乗り継いで北陸まで来てくれた。
そして、私たちは鉄道で帰ることになった。父は怒ってはおらず、ただうろたえていた。車中でも私にどんな言葉をかけていいのか、よくわからないようで戸惑っていた。
私は埼玉県内の実家に数日、滞在することになった。
疲れ果てていたのであろう、父は帰宅した翌日から寝込んでしまった。
それまで私が見たことのなかったほど憔悴しきった父は、掛布団から右の掌を出し、私に掌を握るように求めた。
「頼むから、もうこんな心配をかけないと約束してくれ……」
私にそう懇願した父の右の掌には、力が入っていなかった。
1週間近く実家で休養した私は、浜田山の自宅マンションに帰ることになった。その1週間の間、父より55歳若い母は、この何とも情けない私の自殺未遂について、一言も触れることはなかった。心配していなかったはずなどなかったとは思うが、ただ私の顔を眺めるだけだった。もし一言でもその件について語ると、何かとんでもないことにでもなってしまうのでは? というのが母の表情を見て私が感じたことだった。
実家休養の最終日、私が実家の玄関から去るときも、何も言わずにただ私を見つめるだけで、ひとことも言葉を発することはなかった。
令和6年に91歳で逝去するまでの間、母はこのときのことを周囲に語ったことはあったようだが、私に対してはひとことも触れることはなかった。
4.どんなストーリーなの?
10日以上も欠勤した私は、懲戒解雇になってもおかしくはなかった。そんな業界だったし。ところがボスのTさんの温情から、私は自ら退職願いを出すようにとのメッセージを携帯で告げられた。
北陸の警察署からオフィスに連絡があったわけではなかったが、私の静養中、Tさんが実家の父と連絡を取っていたことを知ったのは後になってからだった。
そう言えば父から、私が今までの仕事を続けるわけにはいかないと言われた記憶もあった。記憶もあった、と、そんな曖昧なことを言うのは、まだ私の精神が混乱の真っ只中にあったからだ。
JR恵比寿駅の東口にあったオフィスに顔を出せる立場でなかった私は、駅近くのカフェでTさんと待ち合わせをして、Tさんから直々に自主退職の手続きについての説明を受けた。
「再就職先を見つけて、身の回りが落ち着いてきたらさ、連絡しておいで」
別れ際にTさんは、優しくそう声を掛けてくれた。
そしてTさんとカフェのエントランスで別れた私を、もう一人の女性アーティストのサブマネージャのHが待ち受けていた。
「先輩! 大変でしたね。何と申し上げたらいいのか……」
「H君じゃないか。俺はもうオフィスに顔なんか出せない。皆には申し訳ないやら情けないやら……」
情けないのは本音だったが、申し訳ないのは社交辞令だった。まだ反省するどころではなかったのだ。
「いえ、お気になされずに。それよりも、お耳に入れておきたいことがあるんですが……」
私とH君は、駒沢通りから目黒方向の路地を入ったところにあった、洋風居酒屋に入った。ハイネケンで乾杯して間もなく、H君は、いきなり本題に入った。
「さすがに、先輩とRさんとの間に何かがあったことは、ほとんどの社員も感づいていますよ」
「そうだろうね……」
「先輩が離婚しちゃったこともですよ」
あらかじめ想像していたことでも、こうしてH君から直に伝えられると、さすがに私は恥ずかしさと、何だかよくわからない痛恨の念で、ラッパ飲みしていたハイネケンを一気に飲み干し、ウェイターに2本目をオーダーした。
「結論から申し上げますが、社内ではこんなストーリーで一件落着ということになっています」
「どんなストーリーなの?」
「先輩が、ご自身の立場を利用して、嫌がるRに自分と不倫をするよう強要していた。つまり、ストーカー的行為を働いていた、というストーリーです。先輩は一方的な加害者、Rは一方的な被害者ということです」
今度は恥ずかしさと痛恨ではなく、驚きの念が湧いて、いや、噴出した。
「誰が、そんな、デタラメなストーリーを創作したんだ?」
ためらうことなく、H君は答えた。
「ボスのTさん。ううん、そうですね、Tさんと顧問弁護士のWさんが示し合わせたのかもしれません……」
とにかくRを守る、Rのイメージだけは死守するのは、会社にとって当然の常識で、私も100%理解できる。
ところが、当時の私の精神状態は、常態を逸していたのだ。
Rのことなどどうでもよかった。常識的にはあり得ない失態を犯してしまったのにもかかわらず、私には最後に残された自分の矜持を、何としてでも守りたい気持ちしかなかった。
自分の矜持とは、誇りのような崇高なことはなく、たとえ世間的には弾劾されるような行為だったとしても、惨めにも自らが捨てられても、さらに、妻からも捨てられて、自ら死を試みたものの、果たす勇気もなく生き延びた、そんな自分であっても、ストーカー的な行為などしなかったし、事実は事実として認めてほしいという気持ちだった。
もう、未練などないオフィスの社員たち、そして、いずれRと私の関係に気づくかもしれない業界人達に、何と思われても構わないはずなのに、そう割り切ることができない。
たとえ自分とは関係がなくなってしまう人達の間であっても、事実ではなく、捻じ曲げられたストーリーが共有されることに耐えられなくなったのだ。
「それで、Rにストーカー的行為を繰り返して拒絶された私は、その〝事実〟を妻にバレて衝動的に自殺を図ったものの、死にきれず、ということか……」
「はい、でもそのストーリーはマスコミに流れることはありません。あくまでも社内と業界関係者のみのストーリー、それも〝タブー〟です。〝タブー〟なんですから、数ヶ月もすれば風化するのは間違いないでしょう。そういう業界ですし……」
5.やはり、無理に引き止めるんじゃなかった……
H君と別れ、また独り、浜田山の自宅に引き籠った私の脳内でグルグルと回っていた意識。それは、この世で生きている自身の?履歴?が改ざんされてしまったことへの強烈過ぎる違和感と怒りだった。
自身の行動が世間の常識から外れたこと、Rや妻のYをはじめ多くの人々の心を傷つけてしまったことを反省する余裕は、まだこのときの私にはなかった。大いなる自分勝手、自己チューの権化と化していたのだ。
当然、会社にとってはRのイメージが、1ミリたりとも棄損しないことが至上命題だ。そのためには、私がRにストーカー的行為を繰り返していたと、改ざんした〝事実〟をでっち上げる。
よろしい。それなら私は、自らの身を捨て、自らの肉を斬らせながら、改ざんされた〝事実〟を〝真実〟に転換させてやろう。
Rも会社もどうにでもなれだ。会社が私に牙をむこうとも、命まではとるまい。いや、このときの私は、命をとるなら、この俺の命などとらせてやろうまで思っていた。それが武士なのだ。それまで、自分は武士だなんて思ったことなどなかったが、なぜかそんな矜持が湧いてきたのだから、我ながら不思議なものだ。
自分でも意外だった、というか、まるでこの世よりも次元の高いどこかからのシナリオに従っているかのように、TさんとH君と会ってから2日後、私は行動を開始した。
Rの関係者を名乗った匿名の手記を、私の知人だったフリーの芸能ジャーナリストのM氏に送ったのだ。履歴を探られないよう、メールは使わす、文面も宛名ラベルもワードで印刷した封書を郵送した。
SNSが普及する以前のことだ。たとえ普及していたとしても、当時の私が求めていたのは他者とのインタラクションではなかった。大型匿名掲示板で炎上することを望んでいたわけでもない。ただ、リアルで私を知っている人達の間だけで?真実?が通ればそれでよかった。
たとえM氏が私の流した情報に心動かされたとしても、Rのファンを含めた業界外の広い世界で情報が拡散することはあるまい——そんな甘すぎる見通しがあった。
尋常ではない精神状態だった私の拙い〝真実暴露〟作戦。それはあっけなく不発に終わった。M氏は私の送った手記に興味を示し、裏をとろうとするどころか、Tさんに会って手記を見せてしまったのだ。Tさんは即、この手記を書いたのも、M氏に送ったのも私に違いないと判断した。当然だろう。手記の内容は、この私しか知り得ないことだったから。
M氏がTさんとも、そうとう昵懇の仲だったことを知らなかった私の凡ミスだった。H君からの連絡で全てを知った私の精神状態は、まだ被害者意識にまみれて?孤立?したままだった。
〝孤立〟は〝孤独〟ではない。〝孤立〟は〝孤独〟のように独りでいる状態ではなく、むしろ集団の中にしか生じない精神状態だ。そして、それは自らの罪に無頓着なまま、どうしようもない被害者意識に苛まれる、タチの悪い精神の地獄である。私もしつこいが……。
後になって冷静に考えたらゾッとした。もし、私の作戦が成功していたら……。想像するのさえ怖ろしい地獄絵の様相を呈してたことだろう。
もう二度と会わないと思っていたTさんから、意外にも電話で呼び出されるとは、思いもよらなかった。あまりに激しい憎悪のため、私の顔など二度と見る気はないだろうと想像していたのだが、Tさんとしては、直接、私を殴りたいのか、𠮟責したいのか、とにかく私に会うことを求めてきたのだ。
待ち合わせ場所は渋谷だった。
カフェで向かい合って座ったTさんは、強烈な怒りを内に秘めながら、私への怨嗟の言葉をポツリ、ポツリと呟くと、最後はこの言葉で締めくくった。
「3年前、君が退職願いを出してきたとき、やはり、無理に引き止めるんじゃなかった……」
別れ際、JR渋谷駅南口改札前で私はTさんに最後の挨拶をした。
「もうお会いすることはないと思います。あわせる顔などないからです。御恩は一生忘れません。さようなら、お元気で」
6.あなたに賭けよう
それから2ヶ月後。梅雨入りした7月のある平日。たまたま私は、実家のあるさいたま市内の大型書店にいた。そのときの目的は思い出せない。再就職に向けた資料収集のためだったか? いや気分転換で目的もなくただぼんやりと入店しただけだったのか? とにかく昇りのエスカレータを降りた途端、眼の前に平積みされた文庫本のタイトルが眼に入った。
その文庫本のタイトルは忘れたし、著者名も知らなかった。後になってわかったのだが、著者はスピリチュアル・カウンセラーという、聞いたことのない職業の人で、その後になって知ったのだが、地上波の民放番組で人気の出ていた人だった。チラリと立ち読みして購入したその本に対して、特に興味が湧いたわけではなかったし、実際、貪るように読んだわけではなかった。
(自殺はしないほうがいいですよ、というメッセージ、何だか出来過ぎてるような気もするけど、こういうのも縁なんだろうから、読んでみようか……)
それから半年経っても、被害者意識と?孤立?に彩られた精神状態は改善しなかった。
だが、被害者意識に苛まれていても、それをバネにして再起するという方法があることを、私は知ることになった。
そのきっかけも大型書店、今度は都内千代田区の大型書店でのことだった。
何階だったか覚えていないが、下りのエスカレーターに乗って下のフロアに着く直前、平積みにされたビジネス書、というか自己啓発書のタイトルが眼に入ってきた。ピンとくるものがあり、そのフロアで降りて、その本を立ち読みした。
著者はマーケティング・コンサルタントだったので、通常、その著作はマーケティングかコンサルティングのコーナーに置かれるはずが、タイトルと内容はどう見ても自己啓発系だったので、自己啓発コーナー、しかもたまたま、下りのエスカレータからよく見える位置に平積みされていたのだ。
目次と本章の数ページに眼を通した私は、一瞬で(これだ!)と直感した。そこには、人間の負のパワー、つまりネガティブのマイナスエネルギーは、ポジティブのプラスエネルギーの数倍、数十倍のパワーがあると書かれていた。
今度は失敗しないよう、確実に死ぬための未来図を頭の中に描き始めていた〝死のプランニング〟は、一瞬にして頭の中から吹き飛んでしまった。
後になって思えば、当時の私の死への誘惑なんて、その程度だったと思ったのだが。
卒業した大学では経営学の専攻だったこともあって私は、なけなしの貯金をはたいて出身校の経営学部の社会人向け大学院に入学した。そこでデジタルマーケティングを履修し3年で卒業した後、指導教官の伝手で、南青山にあった音楽情報サイト運営会社に就職した。
私の引き起こしてしまった〝騒動〟は、爆発寸前に鎮火されてしまったので、業界の片隅の企業に再就職する上での支障にはならなかった。
だが、入社してから1年も経つと、ネガティブパワーにより社会生活に〝復活〟した後、今度はポジティブの方向に舵を切らなければならないという、マーケティング・コンサルタントの著者が強調していた〝約束ごと〟を、私は見事に忘れてしまった。
マーケティングセクションのリーダーとなった頃、会社の規模は小さいながらも、派閥争いの激しさは、以前のマネジメントオフィスの比ではなかった社内で、私は水を得た魚のように対立と軋轢の中に身を投じてしまった。
さらに私が入社してから3年目、親会社からの援助が打ち切られてしまったことで、会社は存亡の危機を迎えることとなった。
私は会社再生に向けての事業計画を作成したものの、正直、自信と確信はなかった。それでも銀行の融資だけでは足りず、自らの資産さえ切り崩してまで会社の再生をあきらめなかった、65歳になったばかりの社長は、私にこう言った。
「あなたに賭けよう」
結果は惨憺たるものだった。それでも、事業計画とは別に、私の個人的な人脈構築の結果、ある情報系の会社に買収してもらい、会社は存続させる、という方向性が見えてきてはいた。自分では何の努力もしていなかったが、あれよあれよという間に話が進むかのように見えた。?かのように見えた?と言ったのは、直前に、その情報系の会社で社内で〝抜き差しならない事態〟が発生し、私のいた会社の買収どころではなくなってしまったのだ。
会社を去る日、私は社長に頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
私に顔を向けることなく、視線を下に落としたまま社長は答えた。
「私も悪かった」
(君なんかに賭けてしまった自分が悪かった)
社長の胸の内は痛いほど伝わってきて、その感情の刃が、まるで私の心臓を突き刺すかのように鋭く感じられた。
今度もまた、恩人に対して、恩を返すどころか、失望のどん底に落としてしまった。
いったい俺は、何なんだろう? そう自問したのも、ずっと後になってからのことで、当時は生き延びることに精一杯だった。
7.夢分析
それから7年間、私はいくつかのマーケティング企業で、正社員・契約社員として仕事をして生きてきた。
私は特に眠りが浅いということはない、とは思うのだが、夜、就寝すると毎晩、夢を見るし、そのほとんどの内容は起きてからも覚えている。
私の記憶では、最も多く登場してきたのは、間違いなくマネジメントオフィスのボスのTさんだ。
夢の中では、現実世界のような言葉による会話はない。全てテレパシーでのコミュニケーションだ。それでも、夢の中のTさんは、何度私と出会っても、その意思を伝えてくることはなかった。現実世界では二度と会うことのない人と、こうも夢の中で会うなんて、別離から20数年経った今でも不思議な気分だ。
このまま、死ぬまでの間、夢の中でTさんと会い続けるのだろうか? 悪夢でも何でもないわけで、ましてや、現実世界で生きていく上での障害などない。だから、特に気にはしていない。それでも、やはり私がこの世を去るまでの間、Tさんは私の夢の中に現れるだろうな、と思うと複雑な気持ちになる。
この20年余りの間、私の夢の中に頻繁に登場してきたのは、Tさん以外では、私が20代の頃に組んでいた、ビート系ロックバンドのヴォーカル&ギターのFさんだ。Fさんとは6年間、バンドを組んで東京都内のライブハウスで活動をしていた。私はギターを担当していた。
そのバンドがライブをすることになって、いざ当日になると、曲やギターソロのフレーズを憶えているかどうか不安になったり、エフェクターボードを忘れてしまったりという、小さなトラブルにまみれる夢を、数えきれない程、見てきた。
ところが、ほぼ30年ぶりにFさんとの邂逅を果たし、長年のわだかまりを〝浄化〟し、数年に一度の彼の現在のバンド(バンド名は私の在籍当時と同じ)のライブを観たばかりではなく、還暦目前にヴォーカルを始めた私のトリオバンドのライブをFさんに観てもらった。
それ以来、きっぱりとFさんと組んでいたバンドのライブの夢を見ることはなくなった。
しかし、Tさんとは二度と会うことはないわけで、それゆえ、Tさんの夢を見なくなるとはどうしても思えないのだ。他にも登場回数は少ないながら、よくもまあ全く忘れていたあの人まで、と呆れるほど多くの人達が夢の中に登場する。
夢の中は現実世界と異なり、直線的な時間もなければ、空間の制約もない。だから、大学を卒業したはずの私が、今度は何十年も前に卒業した高校に再入学するということもあれば、私のいたマネジメントオフィスと別のマーケティング会社が同じ空間に存在するというのもごく普通のことだ。
アインシュタインは光の速度より速いものは存在しないことを証明したそうだが、夢の中での移動が光よりも速いことは、自分の肌感覚で判断できる。
そりゃ、時間と空間の制約がなければ、何でもアリだよな?
フロイドの夢判断とか全く興味はないが、最近になって割と簡単に、夢の内容を改変できる、といってほんの僅かだが、そんな感触がある。
例えば、汚いトイレとか自他の糞尿のとてもリアルで後味の悪い夢を見ることが多い時期があって、辟易していたことがある。トイレが近い体質のせいかもしれなかったし、幼児期の記憶のせいかもしれなかった。
排泄がどんなに大切なことか、言うまでもないだろう。肉体だけにフォーカスをすれば、生きるとは「飲んで食べて」「寝て」「出す」ことの繰り返しだ。生きる意義とか生き甲斐なんてのは、自律神経の活動によって支えられている身体があってのことで、身体は24時間、365日、休むことなく活動してくれている。
そうなると、排泄という行為を面倒臭く、できれば避けたい行為ではなく、肉体をもって生きる自分自身の〝快楽〟として認識を新たにすればいいのではないか? と気づいてから、排泄がらみの不快な夢を見ることは、パタリと無くなった。
8.ジコチューですが、それが何か?
(ジコチューですが、それが何か?)
開き直りで完結するしかない、そんな自問自答を、自分の心の中だけで繰り返し始めてから、すでに20数年。
〝ジコチュー〟の定義はシンプルだ。自分の思い通りにならないことが何よりも苦痛なのだ。もちろん、反論はいくらでもあるだろう。この世界には、百人百様の人間が生きているからだ。面倒くさいので、「甘えているだけ」の一言で片づけられるかもしれない。
だが、たとえ他人からは「甘えているだけ」の一言で片づけられても、当事者の自分はただ反省するだけで、自身の課題が解決されるわけではない。もちろん、私だって他人を「甘えているだけ」の一言で片づけてしまったことはある。その一言を発したということは、(これで私のあなたへの関与はこれまでですよ)と宣告するようなものだ。
家族・親族を含めた世間の人達からどのように評価されても、自分自身の問題は、自分で突き詰めていくしかない。
いわゆるトラウマのようなものは私にもある。
連合赤軍の浅間山荘事件の報道番組が、驚異的な視聴率を記録した1972年2月。私は小学校5年生だった。事件の解決後、群馬県の山岳地帯のアジトでの凄惨なリンチ殺人事件が明らかになった。
それから5か月後の7月。6年生になった私たちの林間学校の行先は、榛名湖だった。宿泊は湖畔のバンガロー。翌朝、獣道のような山路を歩きだして間もなく、現地の案内役のおじさんが、二股に分かれた片方の路を指差し、こう言った。
「こっちに行くと、連合赤軍のリンチ殺人事件で、死体が埋められていたアジトの跡なんですよ」
私たちは一瞬、驚きと恐怖の叫び声をあげた。
「とても頭のいい人達は何を考えるかわからないようだ。多分、馬鹿な俺がそんなことをするようになることはないだろう」
私は級友にそんな意味のことを言った。
それから5年後、まさか自分が〝そんなこと〟をしようとする人になるとは夢にも思っていなかった。
埼玉県内の公立高校に入学して間もなく、私はある新左翼セクトの活動家となった。当時の三大闘争課題は三里塚(成田空港反対)闘争と、狭山差別裁判粉砕闘争だった。都内の日比谷野外音楽堂、明治公園、代々木公園などで集会とデモのある日には、普段の通学とは反対方向のターミナル駅へ自転車で向かい、駅のトイレでジーンズとカジュアルシャツに着替え、学生服を入れた鞄(マジソン・バッグ)をコインロッカーに預け、集会会場へ向かった。
当時、私が参加していたのは、新左翼でも最大セクト。対立党派とは、幹部の殺害という内ゲバの真っ最中だったため、デモの解散後、対立セクトのレポと公安の尾行を切りながら地元に帰るという生活を送っていた。高校1年生の冬休み、初めてのアルバイトは、党への年末一時金カンパのためだったわけで、何ともクソ真面目な自分だった。アルバイトは1日で辞めたが。
1年間は集会・デモのとき、反戦青年委員会という労働者組織の隊列に加わってい私は、2年生になって間もなく、ふとしたきっかけで、セクトの高校生組織の隊列に加わることになった。
組織のリーダーは都内の高校生だったが、県内では西部地区のメンバーが多数派だった。私はただ1人の東部地区。そこで、東部地区の組織を創りあげようという夢を抱き始めたのだ。
当時のことをよく知らない人は、わが国の新左翼運動は、1969年の東大闘争の敗北、72年の連合赤軍事件の無残な結末とともに終焉したと認識しているだろうが、まだ公労協のスト権ストもあれば、国鉄の労働組合の順法闘争に対する一般市民の暴動という上尾事件もあった。つまり、まだまだ荒っぽい時代で、血生臭さが残っていたのだ。
そして三里塚闘争における全国の高校生の動員数は、私が高校2年生のとき最大に達していた。その?からくり?については、ここでは触れるわけにはいかないが。
とにかく私は、県内の農村部の牧歌的な雰囲気だった自分の通う高校では、普通の高校生として過ごしていた。生徒会の執行部員になったりもしたが、政治色を出すことは一切しなかった。
そして別の高校の生徒をオルグし、その高校の生徒になりすまして、文化祭を中心とする活動を扇動していた。ニセ生徒である。そして、10名には満たなかったものの、少数精鋭の県内東部地区の組織を創ったのだ。
少数精鋭とは言っても、一人一人の意識は様々だ。だから、しょっちゅう私が腹を立てていたメンバーもいた。私はそういうメンバーに暴力を振るうことをかろうじて抑えたものの、暴力を振るいたくて仕方のない衝動にかられたことは何度もあった。心の中で私は、(ああ、これが連合赤軍で同士を、総括というリンチで殺害したメンバーの気持ちか……)と気づいてハッとしたものだ。
自己チューが自分の理想・正義を他人に押しつけて、他人をコントロールしようとする。
そのショートカットこそ、怒りと暴力だ。
そしてそれはカルトな集団特有のことではなく、一般社会である家庭や学校、そして企業では、日常的に行われていたのだ。
9.呪いのコトバ(このままの自分ではダメだ……)
高校卒業後、セクトの全国最大拠点校に入学したものの、後期は休学。翌年、都内の別の大学に入学してからは、セクトの活動から足を洗い、活動家としての私は自然消滅した。
それから始めたのがパンク・ニューウェーブ系のバンド活動で、私はロックギターを弾き始めた。思想的には、左右の思想対立のフレームなどもう古臭いのだ、と考え始め、当時、一世を風靡していた?ポストモダン?の空気感の中、音楽・文学・サブカルの世界を堪能しはじめたのだ。
それから数十年もの間、トラウマではなかったし、活動家どころか政治に関わることを一切、止めたたことは良かったと思いながら、心のどこかに何かひっかかるものはあった。
高校生のとき、私は他人の人生を大きく変えてしまったのではないか? 当人だけではなく、ご家族のことを考えるとやはり心は痛んだ。でも、たとえ俺が悪かったとして——じゃあ、どうすればいいんだ?
他人の評価じゃなくて、自分の中でどう折り合いをつければいい?
いや、そもそも折り合いをつけようとすること自体、やっぱり俺はジコチューってことなのか?
そんな思考が、頭と心のなかでぐるぐると渦を巻いていた。
ちなみに、自分にとっては唯一無二の経験でも、自分以外の人にとっては、その人ならではの固有の記憶があることも知った。それを実感したのは、令和になってからの母との会話だった。母の心の中には、母固有の私の記憶があるという極めて当たり前のことだった。
私が活動家から足を洗って数十年経っても、母はポツリと、高校生だった私が三里塚に行ったことを何度か口にしたし、2022年の夏、元首相のAが地方都市での遊説中、凶弾に倒れた後、やはりポツリとこう呟いた。
「Aを撃たないでよかった」
私自身にとっては、当時の思想も行動も、過ぎ去った遥か昔のことだったが、母の記憶の中では、(ひょっとしたら政府要人を暗殺していてもおかしくはなかった)高校時代の私だったことを知って、愕然とした。そこまで心配させていたのか……。
還暦を過ぎて数年が経ち、ようやく気づいたこともあった。
普通は大学入学後に活動家になるのに、大学入学後に活動を辞めた私は、それで?ミッションコンプリート?したということだ。自分は活動家を辞めても、優秀な人財を組織に残したという実績だ。スピリチュアル的な言い方をすると、それで私の今生での使命の一つが終わったのだ。
自分が関わっていた組織が、社会的か反社会的という善悪の判断など、この三次元物質世界だけのことで、本来の魂の世界には、そんな善悪の基準など存在していない、と私は思っている。
しかも、当時の私の精神状態を鑑みると、もし私が組織から脱していなかったとしたら、自分自身の精神が崩壊していたかもしれないばかりでなく、他の同期のメンバーへも悪影響を与えていたかもしれなかったと気づいた。
そんな紆余曲折でその世界から脱した私だったが、思春期に抱いた夢を、青春期に入るか入らないかのタイミングで実現してしまったという事実に気がついたのだ。
さらに、大学に入ってから始めて、どう見ても自分には才能なんかないと思っていたロックギターは、卒業するまで初心者の域を脱することができなかった。
それにも関わらず、新宿ロフトなど学外のライブハウスで活動する先輩たちに馬鹿にされながらも、3年生になってからライブハウスでの活動を始めて、4年生のときには、京阪神ツアーにも行き、京都と奈良では先輩のバンドとも対バンした。さらには憧れていたポストモダン系の(メジャーデビューしていた)パンクバンドの前座まで体験できた。
つまり、そちらの分野でも夢を叶えたわけだ。
だが、組織を創り上げたことでも、先輩たちと同じ土俵でバンド活動ができたことでも、自分の夢を叶えたんだと気がついたのは、還暦を過ぎてから、しかも父母がこの世から去ってしまった後になってからだった。
なぜかといえば、たとえ夢を叶えていたとしても、全く満足していなかったからだ。
活動家からは意識的にフェードアウトしたとは言い切れず、運命としかいえないような偶然の積み重ねの上でのことだったし、辞めた後の私の生活環境は、それまでとは全く違う世界で、正直な話、毎日、翻弄されているようでもあった。そしていつも不満を抱えていた。
(このままの自分ではダメだ……)
幼児の頃から刷り込まれていたそんな〝呪い〟は、還暦近くなるまで私を呪縛していたようだ。
大学時代のロックバンド活動では、ギターのスキルは初心者レベルだったわけで、逆にそんな状態で数百人規模の大きいステージで表現活動をしていたことは、ただの苦痛でしかなかったのだ。
自分のことながら、どこまでこじらせれば気が済むんだろうか? と哀れで仕方がない。
10.『火垂るの墓』の清太は俺だ!
2025年、終戦記念日の8月15日。民放の地上波テレビで高畑勲監督の映画『火垂るの墓』が放映された。いつのことだったか忘れたが、『火垂るの墓』は一度だけテレビで観たことがある。
悲しいシーン、残酷なシーンが多く、名作とは思いながらも、二度と観るつもりはなかった。それでも8月15日が近づくと、気になって仕方がなくなり、覚悟を決め、最初から最後までじっくりと観た。
観て良かった。(こういう作品だったのか!)という新たな発見があったからだ。
14歳の清太は、私自身だった。死ななければならない必然性などなく、いくらでも生きていけたはずなのに、4歳の妹を道連れに死へと向かう選択肢しか選べなかったのだ。
14歳の清太が、4歳の節子とともに、大人の常識、理性による判断から外れた価値観・思考・態度・行動で生きざるを得なかったのは、16歳から還暦を超えた現在まで、私が歩んできた人生と全く同じだということに気づかされたのだ。
2024年に母が逝去してからは特に、私は自らの過去を振り返ることが多くなった。
自我(エゴ・左脳)、つまり、理性による判断をかなぐり捨てて、後になってから自分では理解できないような選択を繰り返してきた末に、今の私があるからだ。
(なぜ、あのとき、あんな判断を? あんな選択をしたんだ?)
そんなな自我(エゴ・左脳)の声に、(わかりゃしねーよ!)(たぶん、俺の魂がそう望んだんだろうよ……)と答えるしかなかった、出口の見えない自問自答のスパイラル。
『火垂るの墓』を改めて観てから、YouTubeのコメント欄で多くの人達の感想を読んでいて気づかされたことがある。それは、14歳の清太と4歳の節子が死後、成仏することなく、地縛霊として40年以上もの間、ホタルが飛び交う中、神戸の街並みを眺めていたということだ。おそらく父母の魂が向かったであろう?霊界?に辿り着くことなく、?幽界?に留まり続けながら。
野暮な想像だが、この作品の結末で二人の魂が両親の魂と再会し、二人のことが心配でたまらなかったであろう母親から、「清太も節子もよく頑張ったわね」と労いの言葉でもかけられる。そんなストーリーだって想像できないこともない。もちろんそんなこと、高畑勲監督のストーリーでは、到底、あり得ないことだ。
野坂昭如の原作では、清太が節子に(蛍と一緒に天国へいき)と心の中で呟いたのにもかかわらず、高畑監督は、節子を成仏させることなく、つまり天国へ行かせることなく、清太とともに地縛霊として幽界に閉じ込めてしまった。
『火垂るの墓』が封切られた1988年はバブル経済の真っただ中。
高畑監督は、兄妹だけで小さな家族を作ろうとしている清太に、社会的なつながりをわずらわしく感じる現代の若者との類似性を見だしたようだが、その〝現代の若者〟とは20代の頃の私自身でもあったのだ。
11.それで、いいですね?(エピローグ)
肌を突き刺すような北風が吹き始める前、師走の夜空を眺めながらのランニングは心地よい。
コールドムーン(12月の満月)は家々の屋根瓦を白く照らしているのに、走りながら眺めると、その光はすぐに消えてしまう。
つまり、光は途切れずに瓦を照らしているのではなく、走る私の位置から見える、ほんの一瞬だけ煌めいているように見えるだけだ。
人の〝過去・現在・未来〟という時間の流れも、きっと同じなのだろう。
光に照らされてきらりと輝く〝現在〟は、いつだって一瞬にすぎない。
その瞬間をどの位置で受けとめるかは人それぞれで、同じ瞬間を他人と共有することなどできはしない。
だからこそ、いまの一瞬、一瞬を生きるだけでいい。
他人に指をさされ、自分で自分を責めつづけてきた過去になど、縛られてたまるものか。
それで、いいですね?
了
【参考文献】
『幸運を引きよせるスピリチュアル・ブック』(江原啓之 著、三笠書房)
『非常識な成功法則』(神田昌典 著、フォレスト出版)
『アメリカひじき・火垂るの墓』(野坂昭如 著、新潮文庫)
