アジール ー自分軸の拠点ー【連載①】
あらすじ
日韓ワールドカップが開催された2002年。
零細な音楽事務所を経営していた41歳の私(戸田)は、ワールドカップのテレビ観戦どころではなく、公私ともに悶々とした日々を送っていた。
そして秋も深まったある日、南青山から恵比寿へ向かう明治通りを歩いていて、かつての女友達の北川さんと邂逅する。
臨床心理士を辞め、シンガポールに単身赴任していた北川さんは、帰国してジュエリーデザイナーとなっていた。
お互い配偶者のある立場で、決して一線を越えることのなかった私(戸田)は、北川さんを勝手に〝ソウルメイト〟だと思い込んでいたのだが・・・・・・。
北川さんとの、カウンセリングもどきの会話で、〝アジール〟という概念を教えてもらった私(戸田)は、孤独ながらも〝自分軸〟で生ききっていこうと決めた。
♫ようこそ一人芝居へ
とっておきの真実で
ありのままをさらけ出し
唄ってみせよう 俺は道化者
プロローグ
昭和の頃から鉄道写真撮影の名スポットでありながら、まだ「ヒガハス」という呼び名は広まっていなかった。
国鉄東北本線(当時)の東大宮駅と蓮田駅の間、綾瀬川橋梁を正面に望む立会橋付近。
かつて見沼代用水と綾瀬川が立体交差していた〝瓦葺掛樋跡〟付近。
1974年8月、中学校2年生の夏休みの午前。
私は立会橋から西に50メートル程離れた、東西の縁に分かれたばかりの見沼代用水東縁に架かる「高橋」という橋のたもとの大きな木の傍に座って、宿題の写生の水彩画を描いていた。
描いていたのは、澄み渡る青空を背景にした東北本線と、その手前に広がる緑の田圃の風景だった。
中学校の3年間、私のささやかな愉しみの一つは、ペン画や水彩画を描くことだった。
この日も私は、光沢のあるケント紙に水で薄めた絵の具を繊細に塗っていた。
すると、私と同世代であろう、自転車に乗った数人の男の子が私の傍らを、案の定、「下手な絵だなぁ!」と笑いながら通り過ぎていった。
綾瀬川は上尾市と蓮田市の境界線だ。
知った顔でなかった彼らは、上尾か蓮田の中学生だったはずだ。
心も体もただひたすら平和に過ごすことこそ自らのデフォルト。
自分の〝結界〟の中に居さえすれば、他人からの誹謗も中傷も一向に気にならない。そんな私だった。
それでも歳を重ねるほど、大切な自分の〝結界〟など、社会生活にとって余計な〝殻〟として引き剥がされてしまうものだ。
経営者なんて向いていないのに・・・・・・
日韓ワールドカップが開催された2002年。
零細な音楽事務所を経営していた41歳の私は、ワールドカップのテレビ観戦で盛り上がるどころではなかった。
私のオフィスは恵比寿駅を最寄りとする渋谷区東3丁目のマンションの一室にあった。
当時、同じ東3丁目にあった大手プロダクションのアミューズ(97年に渋谷区桜丘町に移転)とは雲泥の差があった。
私のオフィスがマネジメントしていたのは、ロック系の三アーティストだった。
主力のスカパンク系「ZZT」は、大手レコードメーカーと契約、民放の青春アニメの主題歌に採用された効果で、当時のオリコンチャートのシングルランキング上位に食い込んだこともあった。
「ZZT」で稼いだ利益を、他の2アーティスト(一つはバンドでもう一つはソロシンガー)への投資に充てるのが、私のオフィスのポートフォリオだった。
国内の音楽産業は1997年をピークに縮小していた。
91年のバブル経済崩壊以後、潰れることなど考えられなかった大手証券会社や銀行の廃業・統廃合が相次いだ経済・社会構造の転換期であったものの、98年に音楽産業の市場規模がピークを迎えたのは、ひとえに大卒の団塊ジュニア世代が社会人になったことによる消費拡大のためだった。
後年、マーケティングの仕事に就いてから、音楽産業市場規模と生産年齢人口の推移の相関係数を算出したところ、ほぼ「0.9」だった。「1.0」が最高なので、因果関係があるとは言えなかったものの、関係性は十分に強いという結果だった。
宇多田ヒカルと浜崎あゆみのアルバム売上のデッドヒートなど、マスコミのネタ以上でも以下でもなかった。
市場は縮小し続けていたし、世の中のスローフードブームと連動するかのように、癒し系のアーティスト・楽曲が前景化していた。
その一方で「ZZT」のようなパンク系では、モンゴル800(モンパチ)のようにビジネス上ではインディーズのまま、ダブルミリオンを記録したバンドも現れていた。
大型タイアップとシングルリリースなしでの大ヒットからは、音楽産業の構造転換の到来を感じられた。
私達は、「今」はまだ大丈夫だけど、来年・再来年はどうなるかわからないという強い危機感に苛まれていた。
全国各地のライブハウスや地域のメディアに張り巡らせていた情報網による新人発掘システム。そのシステムが機能不全になるという予感も強かった。
地方で人気を獲得しているアーティスト・バンドが、東京のマネジメントオフィスに頼ることなく、ブレイクするリソースが地方に備わっていただけではなく、このままでは米国のように、アーティスト自身によるセルフマネジメントが当たり前になるのではないかという予感さえリアリティを増していた。
私達のような零細なマネジメントオフィスが生き残っていくための課題は山積していた。
大手プロダクションのように、多彩なポートフォリオと、リスクマネジメント機能があるわけではなかったからだ。
私がオフィスの経営者となったのは、自らの意思というより、ほとんど成り行きからだった。
都内の大学を卒業後、3年間勤めた食品スーパーの経理職を辞め、何となく都内ライブハウスでアルバイトを始めて、契約社員になったのが二十代後半のとき。
それから僅か数か月で店長が退職。店長を継承する候補者は私しかいななった。
わけのわからないまま、ただ懸命に、年中無休の業務を回すことに慣れたと思ったら、今度はライブハウスに出入りしていた大手レコードメーカーのA&R(アーティスト&レパートリー)から、ある地方出身のロックバンドのデビューのため設立されたマネジメントオフィスの経営者になることを勧められた。
オフィスへの出資元は、その大手のレコードメーカーだった。
もちろん、(なんで俺が?)と訝ったものの、とにかく引き受けた。
社長とはいっても、バンドがツアーに出る度に機材車を運転して、ローディを兼任してアンプや楽器を担いでいた。
スーパー勤務時代の経験が事務的な作業で僅かながら役に立ったものの、権利処理などの法務、従業員の給与や福利厚生などの総務には専門のスタッフがいたので、私は彼らのマネジメントに徹してきた。
成り行きとはいいながらも、私はそのロックバンドに惚れ込んでいたことは事実だった。
そうでなければマネジメントなど引き受けるわけがない。
当初、そのバンドを育成しながら、バンドが解散すれば、私もマネジメントオフィスの経営者を辞めればいいと思っていたのだが、世の中、そんなに甘くはなかった。
たとえ小さくても会社の内外には、従業員をはじめとする多くのステークホルダーがいて、本来は手段であるはずの会社組織の存続が、目的と化してしまうのが世の常だ。
企業経営の世界では、こういうのを〝ゴーイングコンサーン〟というが、私は辞めたくても辞められない立場に祭り上げられてしまった、いや、気づいてみたら、自分で自分を祭り上げてしまったようだった。
実際、当初私が担当したバンドが二年後に解散した後、すでに所属していた「ZZT」を前面に押し出し、死に物狂いでプロモートを展開、「金の成る木」にまで育成した。
私がワールドカップどころではなかった、と言った理由の一つが、当時のオフィスの経営環境であったことは間違いない。
だが、自社だけの問題・課題だけならまだ良かった。
ライブハウスの契約社員時代、そしてオフィスの経営に携わってから数年は、とにかく一所懸命だったのでほとんど意識していなかったが、〝業界〟の人間関係が鬱陶しくて仕方なかった。
「おはようございます!」と顔で笑っておきながら、机の下では足を蹴り合うような陰湿なことが日常茶飯時であることにも嫌気がさしていた。
もちろん私自身が自ら進んで陰湿なことを言ったり行ったりしたことも少なくなかった、というか、そういう業界の慣習が当たり前だった。
そこに私生活の破綻が追い打ちをかけた。
1995年の結婚から五年後の2000年暮れ。
私は妻の由美子と離婚した。
三歳だった息子の秀和の親権は由美子が持つことになった。
不規則極まりない私の仕事による生活上の行き違いという、絵に描いたような原因だったが、元々の相性が悪かったのだろう。
私が自らの余裕のなさをひたすら悔いたところで、そんなことは何の救いになるはずはなかった。
取り組むべきタスクが山積していた勤務中はまだしも、誰もいない永福町のマンションに戻り、一人で寝床に入った途端、虚しさと寂しさで、そのまま眼が醒めなければいいと願った日々が続いた。
2002年には私の精神的な疲弊が肉体の不調に現れた。
具体的には下腹部のヘルペスだった。
アジール ー自分軸の拠点ー【連載②】へ続く
【歌詞引用】
「ひとり芝居」
(作詞:山田晃士、作曲:奥野敦士)日本音楽著作権協会 作品コード 023-9738-2)
