欲求の履歴書 ー量子コンピュータとの対話ー【連載①】
あらすじ
2030年のある日、70歳を目前に控えていた私(伊澤)は、28歳で脳科学とマーケティング・サイエンスを融合させた、次世代型ニューロ・マーケティングのスタートアップを立ち上げた鳥羽さんが開発中の、「終活 人生デトックス」ベータ版のモニターを体験することになり、東京都杉並区松庵にある鳥羽さんのオフィスを訪れた。
「終活 人生デトックス」とは、超高齢化社会特有の繊細な心理的葛藤が、社会問題化していることを背景に、終末期を迎えた人間が、少しでも安定した精神状態を保てるよう支援するヒーリングサービスだ。
「ヒガさん」と名づけられた量子コンピュータとの対話において、幼児期から高齢期に至るまでの間に生起し充足させてきた、60にも及ぶ「欲求」の履歴を示されることになる。
はたして私(伊澤)は、60番目の「欲求」である「愛」を充足したのだろうか?
♫愚にもつかぬプライド
高々と掲げてる
自慢のゴタクを並べては
さしあたり上機嫌
終活 人生デトックス
「人間の意識がですね、たとえ量子もつれによって生まれていたとしてもですよ、脳に量子コンピュータなんか接続するまでもなく、自分の記憶さえ辿っていけば、過去の自分に生起して充足した欲求なんて、自分自身で把握できると思いますけどね・・・・・・」
70歳を目前に控えていた私は、鳥羽さんにそう問いかけた。
鳥羽さんはまだ28歳で、脳科学とマーケティング・サイエンスを融合させた、次世代型ニューロ・マーケティングのスタートアップを立ち上げたばかりだった。
今日、私が鳥羽さんのオフィスを訪れたのは、彼の立ち上げた企業で開発中の「終活 人生デトックス」ベータ版のモニターを体験するためだ。
軽そうなウェアラブルグラスをかけ、短髪で清潔そうな鳥羽さんは、私を宥めるようにこう答えてくれた。
「伊澤さん、たしかに仰せの通りかもしれません」
「でしょ? もちろん私は、欲求の生起と充足を基にして、人生の軌跡をストーリー化することで、深層心理に淀んだわだかまりをクリーンアップするという、鳥羽さんのコンセプトには賛同しますけどね」
どっちが古希を目前にした爺さんで、どっちが三十路手前の若者なのか、わかったもんじゃない。
昭和生まれの性から逃れられない我が身が、もどかしく感じられた。
そんな私に対しても、鳥羽さんは丁寧に説明してくれた。
相手の言うことを即座に否定せず、まずは受け止めた上で反証するのが、鳥羽さん、いや、鳥羽さんの世代のコミュニケーションスタイルのようだ。
「伊澤さん、量子コンピュータは、人間の無意識の領域の分析、つまり前世紀にフロイトやユングが切り拓いてきた精神分析なんて、何の障害もなく、短時間で行えます」
私も意固地だったようだ。
確かに自分の顕在意識の記憶なんて、比率にすればごく僅かだろうし、自分の都合のいいように改変されている部分も多いだろう。
ふと、そう思った私に、鳥羽さんは続けてこう言った。
「でも、それは精神科や心療内科といった医療の領域、それも臨床現場での話です。実際、無意識に押し込められた記憶が、あたかも外科手術を施されたかのように掘り起こされてしまうと、患者の精神状態が破綻してしまうリスクがあります。私達がローンチしたいサービスは、そんな深刻な医療現場で威力を発揮するようなツールではなく、癒しとかヒーリングレベルのサービスです」
ブラウン系のジャケットを着ている鳥羽さんの語り口は、とでも穏やかだ。それでも私は問い続けた。我ながらしつこいものだ。
「鳥羽さん、そのことは私も重々、理解していますって。私がうかがいたいのは、顕在意識である自分の記憶を辿れば、自分の欲求の履歴なんて簡単に整理できるのではないか? ということです」
それでも鳥羽さんは落ち着いていた。
「誰もが、自分の過去のことは自分が一番知っているとお思いでしょう。しかし、バイアス(偏り)を排除することは不可能です。無意識的に自分に都合の良い解釈をするばかりではなく、自分の記憶を改ざんすることも少なくありません。それに、弊社がローンチを目指しているのは、ヒーリングサービスです。お客様ご自身が、脳みそに汗をかきながら、あくせくして自らの記憶、それも思い出したくもないような記憶まで掘り起こす必要はありません。お客様はただリラックスしているだけで、量子コンピュータがお客様の脳内の記憶の糸のほつれをほどき、生誕から現在に至るまでの体験と心理・精神状態を、ストーリー性をもって現前化させてくれるのです」
たしかにヒーリングサービスを受けているのならば、気持ち良さ、心地よさは重要なベネフット(便益)だろう。
誰もが心の底で認めたくはなかった、超高齢化社会特有の繊細な心理的葛藤が、社会問題化している2030年の今。
鳥羽さんがローンチを試みているのは、終末期を迎えた人間が、少しでも安定した精神状態を保てるよう支援するヒーリングサービスだ。
まだ自分自身も鳥羽さんも、この私が終末期にあると考えていたわけではなかった(と思う)が、私がモニターの被験者となることに問題はなかった。
鳥羽さんと私が出会ったのはつい数か月前のこと。
私と親しくしていた同業のマーケティング・リサーチコンサルタントの大越さんから、鳥羽さんを紹介されたのだ。
鳥羽さんは大越さんが取締役を務めているマーケティング・リサーチ会社の社員だったそうで、入社五年目に退職、スタートアップ企業を立ち上げたばかりだ。
今、私がいるのは、東京都杉並区松庵の静かな住宅街にある鳥羽さんのオフィスだ。
井の頭通りの騒音もここまでは届かない。
よりによって、ビジネスに不向きとしか思えないこんな住宅地にオフィスを構えている、と訝るのは、昭和と平成の価値観らしい。
鳥羽さんのパートナーの英里子さんが、甘党の私に気を遣ってくれたようで、チーズケーキとレモンティを、応接ルームに持ってきてくれた。
英里子さんは黒髪のショートカットの女性だが、実はAIロボットだ。
生身の人間との日常会話には全く支障はないようだ。
「どうもありがとうございます。お気遣い頂き恐縮です」
生まれて初めてのAIロボットへの一言が、紋切り型の挨拶という自分が不甲斐ない、と思ったが、またいい年をして自意識過剰の自我が顔を覗かせたなと呆れた。
「英里子さん、今回の鳥羽さんのお申し出、私、受けてみることにしたのですが、英里子さんは鳥羽さんのプロジェクトについて、どう思っているのですか?」
チーズケーキとレモンティの載ったトレイをテーブルに置きながら、英里子さんは、心なしか戸惑ったような笑みを浮かべながら、私の問いをサラリとかわした。
「さあ、どうなんでしょうか?」
英里子さんが扉を閉めて応接室を出ていってから、鳥羽さんはこう切り出した。
「伊澤さん、30分ぐらいの時間はありますよね? いや、30分なんてかかりませんから、マッサージでも受ける感覚で、夢見心地の時間を過ごして下さい」
私はそれ以上、駄々をこねることに疲れてしまった。
「それじゃ鳥羽さん、私、どうすればいいのですか?」
ホッとしたような微笑みを浮かべた鳥羽さんは言った。
「隣のカウンセリングルームに行きましょう!」
私は、まだチーズケーキにもレモンティにも手をつけていなかった。
冷静そうに見えた鳥羽さんだったが、内心では余程、私の気が変わることを怖れていたのだろう。
欲求の履歴書 ー量子コンピュータとの対話ー【連載②】へ続く
【参考資料】
「多変量解析からみた心理発生的欲求の分類と構造」白梅学園短期大学 荻野七重、立正大学 斎藤勇(『白梅学園短期大学紀要 第31号』1995年)
【参考書籍】
『河童・或阿呆の一生』(芥川龍之介、新潮文庫、1968年)
『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』(延江浩、講談社、2017年)
【歌詞引用】
「ひとり芝居」
(作詞:山田晃士、作曲:奥野敦士)日本音楽著作権協会 作品コード 023-9738-2)
