欲求の履歴書 ー量子コンピュータとの対話ー【連載②】
あらすじ
2030年のある日、70歳を目前に控えていた私(伊澤)は、28歳で脳科学とマーケティング・サイエンスを融合させた、次世代型ニューロ・マーケティングのスタートアップを立ち上げた鳥羽さんが開発中の、「終活 人生デトックス」ベータ版のモニターを体験することになり、東京都杉並区松庵にある鳥羽さんのオフィスを訪れた。
「終活 人生デトックス」とは、超高齢化社会特有の繊細な心理的葛藤が、社会問題化していることを背景に、終末期を迎えた人間が、少しでも安定した精神状態を保てるよう支援するヒーリングサービスだ。
「ヒガさん」と名づけられた量子コンピュータとの対話により、幼児期から高齢期に至るまでの間に生起し充足させてきた、60にも及ぶ「欲求」の履歴を示されることにある。
はたして私(伊澤)は、60番目の「欲求」である「愛」を充足したのだろうか?
欲求の履歴書
カウンセリングルームの中央部分にある、マッサージチェアのような椅子に座った私は、鳥羽さんの手で、薄型のVRゴーグルを装着させられた。
VRゴーグルを装着される直前、目の前の壁に掛けられていた時計の文字盤が眼に入った。
午後3時ジャストだった。
鳥羽さんは30分もかからないと言っていたし、もし30分かかったとしても3時半なので、5時からの恵比寿でのアポには余裕で間に合うだろう。
VRゴーグルを装着した私に、鳥羽さんはこう解説してくれた。
「VRゴーグルの上部、伊澤さんのおでこにあたる部分には、超高感度センサーが内蔵されています。一昔前、伊澤さんたちがニューロ・マーケティングで使われてきたような、仰々しい装着物は一切ありませんのでご安心くださいね!」
「おいおい、鳥羽さん、私はあんな胡散臭いマーケティング・リサーチに携わったことはありませんからね、素人が脳科学の真似事なんかやったところで、大した知見なんか出てこなかったようですし・・・・・・」
「はいはい、そうでしたか!」
鳥羽さんが笑いながらそう答えたのを聞いた刹那、私は夢うつつのような、まるで霞に覆われて、耳の穴から毛穴にまで、霞の粒子が入り込んでいるような感覚に包まれた。
私の脳裏に投影された、乳白色の靄は、僅かながら薄まったように感じられた。
それでも特定の建物のような景色は見えないし、何よりも自分以外の存在を感じることができない。
いや、感じるとか感じないとかではなく、自分自身が独立した人間として存在しているのではなく、環境と一体となっているような、日常ではあり得ない感覚、言語では表現できない感覚だった。
やがて、どこからともなく、男性でも女性でもない声が、聴覚、つまり耳からではなく、直接、私の脳、いや心というか、とにかく、私が理解できる概念として伝わってきた。
と、そんな曖昧な言い方しかできないので、これからは、聴覚として耳から聞こえているということにして、話を進めていこう。
その〝声〟の主は、ヒガというメッセージが私に届いた。
ほどなくヒガの声が直接、私に届き始めた。
「こんにちは、伊澤俊二さん」
そう挨拶された私は拍子抜けした。
「あなたが今、私に話しかけたヒガさんだね。量子コンピュータにも名前があるんだ。いや、その前にこんにちは、だね、ヒガさん」
「俊二さん、いきなり本題に入りますね。私は俊二さんが誕生されてから、今現在に至るまでの全ての経験と記憶、感情まで把握しております」
「それは速い、というか速すぎだよ。いつの間に俺の全過去をインストールしたのやら。ま、いいけどね」
〝全過去〟とはマーケティング・リサーチ用語の一つだ。
アンケート調査で「あなたは今まで○○○という飲料を購入されたことがありますか」という質問文の〝今まで〟という期間のことを全過去という。
「俊二さん、人間の三大欲求はご存知ですよね?」
いきなり、何を聞いてくるのやら。
「食欲、睡眠欲、性欲でしょ?」
「はい、その通りです」
何で量子コンピュータがそんな簡単なことを聞いてくるのか? と疑問に感じた私は、まだ状況を理解できる状態ではなかったようだ。
仕方がなかろう。
「では俊二さん、人間は三大欲求さえ満たしていれば、十分、幸せだと聞いたことはありますか?」
そこまでは聞いたことはなかった。
が、そう言われれば、そうかもしれない、と妙な納得感はあった。
そう感じたのも自分がこの歳になったからであろう。
もし、20代か30代の頃の私だったら感情的に一蹴しただろう。
「聞いたことはないけどね、そう言われると妙に納得できるんだよ」
ヒガさんの答えは、ほぼ私の予想通りだった。
「その納得感は、俊二さんがそのお歳まで生きてこられたからだと思います。でも、若き日の俊二さんにとって、〝生きるために生きる〟という人生観は、最も軽蔑、唾棄すべきものでしたよね? この世に生まれてきたからには、人は何かをなさねばならない。それに、大学生時代の俊二さんは、〝30歳までに何かを成し遂げられなければ、俺は自ら死を選ぶ〟とか何とか言っていましたっけ?」
ヒガさんは笑いこけていた。
「まあ、そんな些細な話は・・・・・・」
封印したまま忘れていた、恥ずかしい過去を暴かれた私は辟易した。
それでもヒガさんは話を止めない。
「芙蓉大学文学部日本文学科の俊二さんの同級生に、Rさんっていましたよね? 同じ歳で生年月日が一緒だったのにも関わらず、成績は俊二さんとは正反対で、学科で上から1番目か2番目だった方です」
R君のことはよく覚えている。
今になって振り返ると、私が中年期を過ぎる頃になって到達した境地を、既に18歳で会得していたような男だった。
成績は正反対だったが、意外にも、ロックをはじめとするサブカル界隈の嗜好では、私にとても近かった。
「俊二さん、最も印象に残っているRさんの言動は何ですか?」
この質問には即答できた。
「俺は30(歳)を超えたら老後だと思っている」
「カッコいいと思いましたよね? もちろん、Rさんは俊二さんにとって〝追い付くことのできない〟存在でした」
私は少しイライラしてきた。
「鳥羽さんの説明によると、30分ぐらいしかないそうだし、こんな話はもういいんじゃないか?」
「わかりました。話を戻しますね。もし、全ての人間が食欲、睡眠欲、性欲の三大欲求を満たせさえすれば十分幸せだ、と悟ってそのまま生きていたら、人間社会は進歩することなく一気に衰退してしまうでしょう」
「俺もそう思うよ、ヒガさん。三大欲求を満足に満たすことの難易度が高かった太古、いやつい数十年ほど前の昔ならいざ知らず・・・・・・」
「俊二さんと同じお仕事をされている皆さんにとって、そう、消費者行動研究の界隈では常識でしょうけど、人間の欲望というのは〝他者の欲望のコピー〟でしたよね?」
「うん、ジャック・ラカンのラカン派精神分析学。もとを辿るとヘーゲル。その哲学的な知見をマーケティングという俗世間に堕落させた、いや、応用させたのが、ジャン・ボードリヤールが著した『消費社会の神話と構造』。それから記号論とかが現れて、広告代理店の連中が飛びついた。それがポストモダンと〝バブルへゴー〟の時代だった。これは学術的な定説ではなく、俺の我流こじつけ無理クリ解釈だけどね。実際の話、ボードリヤールが直接、影響を受けていたのは言語学者のソシュールだったようだし」
ヒガさんは笑った。このヴァーチャルな空間ではその顔は見えないが、確かに笑ったことは認識できた。
「私に時間がないと苦言を呈しておきながら、俊二さんも脱線するのがお好きですね」
「ま、お互い様ということか・・・・・・」
僅かなアイスブレイクの後、今度は私のほうからこう切り出した。
「つまり、ヒガさんの言いたいことってさ、人間社会っていうのは、三大欲求さえ満たしてさえいれば幸せなものを、三つどころではない、多種多様な欲求・欲望に誘惑され振り回され、その果てに幸せがあると錯覚する、ということだよね?」
「はい、ぶっちゃけ、そういうことになりますね」
「え! 量子コンピュータも〝ぶっちゃけ〟なんて言葉を使うの?」
「はい、俊二さんのパーソナリティに合わせていますので」
「なるほど。それでヒガさん、鳥羽さんに勧められて受けているこのカウンセリングなんだけど、具体的に、私をどうカウンセリングしてくれるの?」
「ぶっちゃけ、幼児期から今日までの間、俊二さんの心に芽生えた欲求を、一つずつ明らかにして、最終的にご自身で人生を振り返っていただき、心の底から納得していただくことになります」
生まれてから数十年間の欲求の軌跡を辿るなんで、途方もない時間がかかるのではないかと私は訝った。
「一体、何年かかるのやら。大丈夫かよ? 鳥羽さんには30分もかからないだろうと言われたけど・・・・・・」
ヒガさんは全く動じていないようだった。
「御心配なさるのはわかりますけど、大丈夫です。最後になればわかりますよ」
「もう乗りかかった、いや、乗っちまった船だからね・・・・・・」
ひとまず覚悟を決めるしかなかった。
「それに俊二さんは、ただ私の話を聞いて頂ければいいのです。もちろん、ご質問やご意見を述べられても構いません!」
「わかりましたよ。とりえずよろしくお願いしますね」
「どうもありがとうございます。これから私がお話しする内容を反映した映像が俊二さんの脳内に投影されます。どうか過去からの旅をご堪能ください」
欲求の履歴書 ー量子コンピュータとの対話ー【連載③】へ続く
【参考資料】
「多変量解析からみた心理発生的欲求の分類と構造」白梅学園短期大学 荻野七重、立正大学 斎藤勇(『白梅学園短期大学紀要 第31号』1995年)
【参考書籍】
『河童・或阿呆の一生』(芥川龍之介、新潮文庫、1968年)
『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』(延江浩、講談社、2017年)
