[小説] リサコのために|049|十、良介 (6)
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良介がゆっくり部屋に入って来ても、初めは誰も気がつかなかった。
リサコが接続されているおぞましい機械の方を見ると、そこには不気味なヤギの絵が描いてあった。
彼が八木澤博士の正面、吊るされているアイスリーの下に立つと、やっと博士やその助手たちが良介の存在に気が付いた。
「リサコを下ろしてくれませんか」
良介はできるだけ落ち着いた声で言った。
その場にいた全員がギョッとした表情で良介を見ていた。
「君は…どうやってここに入ったのかな?」
八木澤博士がどうにか威厳を保った声で言った。
博士の後ろのガラス張りの部屋にいた二人の刑事たちが出て来るのが見えた。
幡多蔵事件の担当刑事たちだ。
良介はわざとらしく胸ポケットに手を入れて見せた。
実際のところ、彼のポケットには何も入っていなかったのだが。
刑事たちは警戒して身構えたが、その姿勢から良介は彼らが銃を持っていないことを確信した。
良介は胸ポケットに手を入れたまま続けた。
「今すぐリサコを下ろしてください」
「君は自分が何をしているのか解っているのか、元村刑事さん」
八木澤博士は近寄って来た刑事たちを素振りで下がるように示しながら言った。
「自分が何をしてるかよくわかっていますよ。今は警察ではなく夫として行動しています。リサコを下ろしてください」
良介はポケットから手を出すと、何も隠し持っていないことを刑事たちにも見えるように示した。
「彼女は事件のことは何も記憶していません。ムネーモシュネーでもそれは取り出せません。もう博士もわかっているんでしょう? もうこれ以上、彼女をあなたの実験に突き合わせるのはやめてください」
良介はとてもとても悲しい声で言った。
八木澤博士は悔しそうな表情を浮かべて良介を睨みつけたが、警察が立ち会っている手前、これ以上強い姿勢を保つことはできない様子だった。
良介は二人の刑事に向き直って話しかけた。
「高橋警部と佐藤巡査ですね。私は…」
「知ってる。元村君だろう」
高橋警部が良介の言葉遮って言った。威圧的な態度だ。
「私は警察ではなく一個人としてここにいます。私は記憶抽出がこのような状態で行われていると知らせらせていませんでした。この状況を私は許容できません」
良介は吊るされているリサコを指さし言った。
「今すぐ、リサコを下ろしてくれませんか?」
良介は刑事たちから視線をはずして、八木澤博士の方を向いた。
「先ほどの様子は動画に撮らせてもらいました。あなたたちの対応によっては弁護士を通じて訴えますよ」
動画は撮ってなかった。それどこれはなかったからだ。だが八木澤は信じるだろう。
「君は、どうやってここへ入って来たんだね?」
「スタッフの人に聞いたら連れて来てくれたんですよ」
「スタッフとは誰だ?」
「さあ? 名前なんて聞いてないですよ」
八木澤博士はしばらく黙っていたが、堪忍したのか助手に指示を出した。
リサコの体がゆっくりと降りてきた。
彼女は気を失ったままでぐったりとしていた。
良介は彼女の身体を受け止めると、震える手でハーネスを外した。
降りて来てくれて本当に助かったと思った。
気を張って何とか冷静さを装ってはいたが、吊るされている彼女を前に、 内心恐ろしくて今にも発狂しそうだったのだ。
ここで気を緩めたら、たちまち狂気の世界へと落ちて行ってしまいそうだった。
良介は自分の腕の中に戻って来た彼女に集中し、ざわめく感情を抑え込んだ。
意識のない彼女の額にべっとりと髪の毛が張りついていたので、良介はそっとそれを撫でて顔がよく見えるようにした。
青白い顔はしているが、呼吸は安定していて命に危険はなさそうに見えた。
良介は自分の頬が涙で濡れていることに気が付いてゴシゴシと拭いた。
「彼女を家に連れて帰ります。車いすを貸してくれませんか?」
良介は顔見知りになった担当医を見つけると声をかけた。
担当医は慌てて良介のそばに来て言った。
「ダメですよ。まだ薬が効いている状態ですから。12時間は経過観察が必要です」
「じゃあ待ちます」
医師たちが駆け寄って来てリサコの容態をチェックし、彼女を移動式のベッドへ乗せた。
良介がリサコのベッドの手すりを握りしめ彼女を見下ろしていると、高橋警部が近寄って来た。
そして良介だけに聞こえるような小さな声でこう言った。
「ただで済むと思うなよ」
良介は顔を上げて彼の方を見た。
「ただで済むとは思ってないですよ。でもこの方法では犯人はわかりません。北山安吾郎を調べてみてくれませんか? うちの先崎に聞いてください」
「そいつはこの間殺されたチンピラか? こっちの事件と何か関係があるのか?」
「私は中学生のころに一時的にリサコと一緒に暮らしていたことがあり、山本幡多蔵とも面識があります。それで当時、北山安吾郎が山本家に出入りしていたのを思い出したんです」
「それは本当なのか? 接点はないはずだぞ。なぜ隠していた」
医師たちがリサコに手際よく点滴などを取り付けていた。良介は高橋警部から目を逸らして続けた。
「隠していたわけではないです。まだ事件と関係あるのか確証がないもんで。でも山本幡多蔵と北山安吾郎に接点があったのは事実です。私はもう調査から外されるでしょう。だから、高橋警部、お願いします」
高橋警部は何か考え込むように無言になった。
好きになれないタイプのおっさんだが優秀な人だ。良介と先崎サナでは見つけられなかったパズルのピースを探してくれるかもしれない。
ここでリサコの移動準備が完了した。
良介は高橋警部に向かってペコリと頭を下げると、動き始めたリサコのベッドについて歩き始めた。
部屋の向こう側で八木澤博士が何やらスタッフにゴニョゴニョ話しているのが見えた。
あいつがいる限り、正当な方法でリサコを取り戻すのは無理かもしれないな…と良介は思った。
リサコのベッドはガラガラと音をたてて病院の廊下を進んで行った。
彼女は一向に目を覚ます気配はなかった。
「どのくらいで目を覚ますんですか?」
良介は付き添って歩いてる例の担当医に話しかけた。
「通常であれば、あと2時間くらいでしょうか」
2時間か…。2時間あれば、署に行って戻って来るだけの時間があるかな…。
いや…無理だ。
良介は頭をフル回転させて考えた。
病室に戻ると、看護師たちが慌ただしくリサコの容態チェックを行い、ほとんどの者はすぐに病室から出て行った。
担当医と看護師一人が病室に残った。
「24時間体制で容態チェックを行うように言われています」
看護師が機械的に言った。
やれやれ…と思いながら担当医の方を見ると、何か言いたそうな顔をしていた。
良介は先生にわかるようにチラッと看護師の方を見てから言った。
「先生…ちょっと聞きたいことがあるのですが…」
担当医も看護師の方を見ると何かを察したような顔になり頷いて見せた。
「では、私はこれから少し休憩時間なので、その間に話しましょうか。長谷川君、ここ任せて大丈夫?」
これに対して看護師は「もちろんです」と機械的に答えた。
担当医は良介を屋上へと連れて行った。
そこはスタッフしか入ることのできない領域のようだった。
「ここなら安全ですよ元村さん。人に聞かれたくない話ですね?」
察しのよい医師だ。これまで丁寧に距離を縮めてきた効果でもある。
「助かります。初めに行っておきますが、俺は先生を責めるつもりありません。話せることだけ話してください」
担当医は頷いて同意の旨を示した。
「聞きたいことは山ほどありますが…まず、なぜあんな…吊るす必要があるんですか?」
「あ、…あれは八木澤博士の考案した装置で、宙吊になることで心が解放されるということです」
「あれのどこが解放ですか…」
「解放に関しては私も少々懐疑的なのですが…ただ、記憶抽出の捜査を行う際に対象者は薬でもうろうとした状態です。ほとんどの人は吊るされていることにも気が付いてないはずです。おそらくリサコさんも吊るされていることには気が付いていないでしょう」
確かにアイスリーは暗闇で装置に接続されるとは言っていたが吊るされるとは言っていなかった。
しかし、機械にヤギの絵が描いてあることは記憶しているようだった。完全に意識不明というわけでもないのだろう。
「しかし、彼女はあの調査が不快なものだと訴えていました。心理の中に介入する捜査でそれはダメなんじゃないすか?」
「そうですね。私もそう思います。ただ、ムネーモシュネーであれほど手こずることはめったにありません。通常であれば数分で記憶の抽出が完了し、対象者に苦痛を与えることもありません。リサコさんは特殊なので予想以上に記憶へのアクセスに拒絶反応が出てしまうのです」
「あの浮いていた人形みたいのは何です?」
「アルファ波増幅装置です」
「大きな音で音楽なっていましたが、あれも関係ありますか?」
「いえ、あの音楽はリサコさんの頭の中で鳴っていた音楽です」
リサコの頭の中で鳴っていた音楽…? いや、けっこう激しい音楽だったぞ…と良介は思い返した。
「宙吊と言い、不気味な人形のドローンだの狂ってますね。あなたの権限で中止させることはできなかったですか?」
「はい…実は、私は何度も中止を申請していましたが、何しろ重大な殺人事件で目撃者が彼女しかいないということで、毎度私の申請は却下されてきたのです」
「幡多蔵の事件は医師の判断を退けるほどに重大事件ではないですよ。それよりも今生きているリサコの方が重要です」
「同感です」
担当医と良介はしばしお互いが同じ思いであることを確信するために沈黙した。
良介は、そういえばこの医師の名前を知らなかったと思い当たり、彼の胸の身分証を盗み見た。
この医師は田中という名だった。
「田中先生。俺はどうしたらいいでしょう。もうリサコをこの病院においておきたくないです」
担当医は名前を言われて少し嬉しそうな顔をした。
「これまで、リサコさん本人から退院希望の意向は何度も出されていましたが、八木澤博士の根回しでもみ消されてきました」
外部に家族も親しい友人もいないリサコだ。彼女は隠された被験者だったのだ。ずっと、ここで。
八木澤博士はこの世で最高の被験者を手に入れてしまったのだ。
田中医師は続ける。
「あなたが彼女の配偶者となったことは大きな進展です。もう内部だけで患者の意思をもみ消すことはできなくなりました。
八木澤博士は、あなたが退院させると公に言い出したら終わりと解っていましたから、このような強行に及びました。これには内部のスタッフの中にも不信感を持っている者が複数名います」
「八木澤博士はリサコを使って何をしたいんですか?」
「人間の深層心理の解明です。我々はムネーモシュネーを使うことによって、人間の意識が階層になっていて、どこまでも奥深く潜っていることを発見しました。八木澤博士はヒトの深層心理の向こう側に何かがあるという仮説の元に動いています」
良介は田中医師の話を聞きながら呆れてしまった。これではまるで漫画に出て来るマッドサイエンティストそのものではないか…。
「元村さん、リサコさんを取り戻すのであれば今日という日を逃してはいけません。あなたはあの現場を目撃したんですから。配偶者が不当な扱いを受けているとの理由で退院を申請してください」
「そんなことでは無意味なのでは?」
「あなたが言えば事態は動くはずです。退院可能か否かの評価は私が下します」
「ありがとう…リサコの担当が田中先生で本当によかった」
ここで田中医師は少し気まずそうな表情になった。
「あの…それで、元村さん…」
とても言いにくそうなことをこれから言うらしい。
良介はちょっと身構えて田中医師の言葉の続きを待った。
「今回リサコさんを退院させるにあたって、私は立場的にあやうい感じになります。それで…協力する代わりに見返りがほしいかな…なんて考えているのですが」
でた…。ちょっと初心そうな医者だったが、金に目がないタイプか…
良介は急に田中医師を軽蔑する気持ちになった。
助けてくれるのにこんなこと思うのは忍びないが、他人に金をせびるようなセコイ奴だったとは残念だった。
「いいでしょう…いくら必要ですか?」
良介は腹をくくってそう答えた。
「あ、いえ、違うんです。お金が欲しいわけじゃないんです」
意外な答えが返って来た。
田中医師は金をせびるつもりではなかったようだ。
「では、田中先生の言う、見返りとはなんですか?」
田中医師は急に動揺しはじめた。
自分から言い出しておいて動揺している場合ではないだろう…。良介は応えられない内容の要求だった場合の対応をぐるぐる考えていた。
「あの…本当に1回だけでいいんです。えと、その。き、き、き、き、キスさせてくれませんか?」
予想の遥かかなたを行く田中医師の要求に、良介の頭は真っ白になった。
「え…き、キス???」
(つづく)
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