[小説] リサコのために|050|十、良介 (7)
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「ああぁ…言ってしまった…」
田中医師は自分の言った言葉に後悔しているのか、それとも喜びを感じているのか微妙な表情をし、両手を口に当てた。
それはまるで少女のような仕草だった。
良介は数秒の間、この医師が放った言葉の真意を探っていた。
…キスって言った? この人、キスって言ったのか?
「いや、あの、それは…」
良介はどう答えてよいのかよいのか、言葉が見つからないままに、一歩後ろに下がった。
ここで拒否したらこの人は協力してくれなくなるだろうか? いやしかし、これは受け入れがたい要求だし…。
「あ、あはは、そうですよね~男とキスなんか嫌ですよね…」
田中医師は、良介が拒否反応を見せたことで気まずそうな表情になったが、なぜか体は一歩前に出て良介に近いづいて来た。
良介はさらに一歩下がると、頭をフル回転させて、田中医師の気分を害さずに何とか断る方法を探った。
「いや、男だからとかそういうのじゃなくて…ちなみに私は男性と付き合ったこともありますし…そうじゃなくて、これは対価に見合わない不適切な要求ですので、そういうことはちょっと…」
この返答には田中医師も聞く耳を持った様子だった。
「元村刑事、あなた、やっぱり面白い人ですね。もしかして、私が妥当な金額もしくはそれ相当のことを要求していたら応じてましたか? キスを迫るというのは、あなたの弱みに付け込んだ不当な請求と受け止めたんですね?」
そのままズバリだったので良介は黙っていた。
この医師は自己解決しそうだ。変に刺激しない方がよい。
「…自分には相手がいるから…という理由で断られるよりずっといいですよ、元村刑事。いいです、すごくいいです。しっくりきました。やはりあなたは素晴らしい。最初に現われた時から解っていたんですよ。ただ者ではないって。あなたはそれはそれは美しく眩しくて、神かはたまた悪魔が舞い降りたのかと思ったほどです」
田中医師がまた一歩近づいて来たので、良介は一歩下がった。
「いいですよ。わかりました。先ほどの要求は取り消します。リサコさんを助け出しましょう。私は全面的に協力しますよ」
良介はほっとして、お礼を言いながら田中医師の手を握った。田中医師もその手をぎゅっと握り返して来た。
「では、私はこれからリサコさんの退院を打診してきます。八木澤博士が現状でどう考えているのかまるで読めませんが、もめごとを極端に嫌う人です。考えが変わったかもしれません」
「それで、田中先生は立場的に悪くはならないんですか?」
「私の心配をしてくださるとは光栄です。これまで、私は何度かリサコさんの調査の中止を訴えていましたし、あなたに強く退院を要求されたと伝えれば自然でしょう。私はただいつも通りの仕事をしているようにしか見えないはずです」
「なるほど…それで退院できなかったらどうするんですか?」
「その時はその時です。急ぎましょう。ぼやぼやしていると先を越されます。元村刑事はリサコさんの病室に戻って彼女から離れないようにしていてください。先ほど部屋にいた看護師は信用できます」
そう言って、田中医師は廊下を足早に歩いて行ってしまった。
良介も急いで病室に戻った。
リサコは先ほどと同じように眠っていた。
田中医師が信用できると言った先ほどの看護師がまだ病室にいて、リサコの血圧など計ったりしていた。
「私達が離れている間に誰か来ましたか?」
「来ていませんよ。八木澤博士も調査後は警察の方とお話になられていますので、しばらく来ないはずです」
看護師は聞いてもいないのに八木澤博士の普段の行動を教えくれた。
良介は訪問者用の椅子を出して座り、しばらく看護師がやっていることを眺めていた。
しばらくすると、看護師はペコリとお辞儀をして出て行った。
リサコはスース―と安定した寝息をたてて眠っていた。
顔色はずいぶんよくなっている。
髪の毛を額にべったり張りつかせていた冷や汗も引いたようだ。
ピッピッピッピッと枕元にある機械が一定のリズムでクリック音を鳴らしていた。
これはおそらくリサコの心拍だろう。
モニターには心電図や呼吸の波形、血中酸素濃度など、さまざまな数値が同時に映し出されていた。
良介はそれらリサコの生きている証拠を眺めながら、これからリサコを連れて帰れるとして、その後どうするべきなのか考えていた。
もう仕事は続けられないかもしれない。
リサコが家に来たら今まで通りの働き方はムリだろうし。
良介は警察の仕事には全く未練はなかった。北山安吾郎を殺した奴にも興味を失っていた。
おそらく、良介はこの時のために刑事になったのだろう。お役目ごめんだ。
そうしてあれこれ考えていると、田中医師が戻って来た。
「ひとまず、リサコさんの調査は取りやめになりました。調査続行不可能の診断を三人の医師が出しましたのでこれは決定です。あとは退院ですが、調査もないので、家族のご意向があれば病院としてはこれ以上無理やり引き留めることはできません。」
こうしてリサコは退院する運びとなった。
眠りから目覚めたアイスリーにそのことを伝えると、彼女は飛び上がって喜び良介の首に腕を回して締め上げた。
アイスリーは田中医師にも飛びついて首を絞めていた。
これが彼女の最大の愛情表現なのだ。
八木澤博士は最後まで顔を出さなかった。
吊るされているリサコを目撃したあの悪夢のような時間からおよそ五時間後。
良介はリサコ、いやアイスリーの手を引いて病院を後にしていた。
必要な手続きは全て田中医師がやってくれた。
キスはし難いが、後日ちゃんとお礼をしないとな…と良介は思った。
まだふらついているアイスリーを支えながらそのままタクシーに乗り込み、彼らは自宅へと帰って来た。
玄関のドアを開けて家の中に入ると、いつのまにかアイスリーと ≪体系≫ が入れ替わっていた。
≪体系≫ は前からこの家に住んでいたかのように寛いだ様子でソファーに座ると、良介にも隣に座るように指示した。
「今、リサコを覚醒させるために最適化の最終工程を行っている」
「リサコを? 目を覚ますの?」
「ああ、あと数分だ。それで、お前にお願いだ。簡単なお願いだよ」
良介はごくりと唾を呑んで次の言葉を待った。≪体系≫ のお願い事は簡単だった試しがない。
「リサコと君はここで暮してもいいけど、性交渉はなしだ」
またもや予想外のことを言われた。
このところ良介は予想外のことばかり言われて来て、ほとほと疲れていた。
「え、何で?」
「リサコの実年齢は現在26歳だが主人格は十年間眠っている。16歳の少女と思って接しろ。彼女はまだ不安定で未完成だ。爆発しちゃう。世界の終わりだ。やっちゃダメ。やりたければ別の奴とやれ」
「ああ、わかった、わかったよ、もういいよ。やらないから」
「約束だぞ。あ、リサコが起きる。リサコが目覚める。覚悟はいいかい? 君がどの良介なのか教えてやりな」
「え、ちょっと待って」
≪体系≫ は目を閉じてしまった。良介は心の準備ができていなかった。
本物のリサコにこれから会えるというのに、会ったら何と言おうか考えていたことを全部忘れてしまった。
良介はあたふたと何度か立ったり座ったりして、落ち着かず、やがて意を決してリサコの横にしっかり腰を下ろした。
リサコが目を開けた。
彼女は驚いた顔をしていた。
「まって! まだ私、何も理解してないんだけど!!」
リサコが叫んで立ち上がった。
良介は混乱するリサコの肩を優しく抑えて彼女を座らせた。
「リサコ、落ち着いて。大丈夫、大丈夫だよ。」
そっと声をかけるとリサコの瞳が良介を捉えた。
リサコの目が見開かれた。
彼女の黒目がすごい速さで左右に動いているのが見えた。
それは数秒続いた。
そしてまた視点が定まると、リサコの手がゆっくりと伸びて良介の前髪に触った。
「…良介? 良介なの?」
リサコが言った。
良介が頷くと、リサコの両目に涙があふれてそして零れ落ちた。
そのまま二人は無言でお互いを強く抱きしめ合った。
良介も涙を流して泣いた。
やがて気持ちが落ち着いてくると、リサコがこう言った。
「ねえ、あなたはどの良介なの?」
(つづく)
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