[小説] リサコのために|042|九、理沙子 (4)
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ある夜。リサコはゆり起されて目を覚ました。
暗闇の中に良介の顔があった。
その只ならぬ雰囲気にリサコはすぐにベッドから体を起こした。
「どうしたの?」
「じいちゃんが…」
良介の発した声から彼がパニックを起こしているのがわかった。
彼はリサコの手を引っ張って階下へと彼女を連れて行った。
茂雄がトイレの前にうつ伏せで倒れていた。
廊下の電気がついてなかったので、リサコは電気をつけた。
すぐに茂雄に駆け寄り脈を測った。
手が震えて定まらず、よくわからなかったが脈はないように思えた。
背中に触ると、息もしていないようだった。
「息、してない…良介!! 救急車!!」
良介が慌てて電話の元へ行ったが、そこで固まってしまった。
「119だよ。息吸って、止めて、ゆっくり吐いて。119にかけて。」
リサコは茂雄の体をさすりながら良介に向かって言った。
茂雄の腕にはまだ温かみがあった。
リサコはその温度を取り逃がさまいと、必死で茂雄の腕をさすった。
良介はリサコの言う通りにして、やっとのことで電話をかけた。
電話はすぐにつながったようで、良介が何とか茂雄の状態を伝えはじめた。
電話の向こうの人が良介に何か指示を出しているようで、「はい、はい、わかりました。」と言うと電話を切ってこちらへやってきた。
「ゆっくり表向きにして、心臓マッサージをしてって…」
「できるの?」
良介はうん、と頷くと、うつ伏せになっている茂雄の体をゆっくりと動かして表を向けた。
口元を見て嘔吐がないかを確認する。
そして胸のあたりに両手を重ねて、良介は心臓マッサージを始めた。
そして人工呼吸。
リサコは茂雄の腕をさすりながら、ただ見ていることしかできなかった。
数分後、救急車が到着した。
救急隊員がドヤドヤと入って来て、良介と心臓マッサージを交代し、茂雄の体に手際よく心電図が取り付けられた。
茂雄の心臓は動いていないようだった。
茫然と立ち尽くす良介とリサコに、隊員が話しかけてきた。
茂雄の身分証や保険証の場所が解れば持ってきて欲しいとのことだった。
良介がそれを取りに行った。
続いて隊員はリサコに話しかけてきた。
「あなたも元村茂雄さんのご家族ですか?」
「私は居候です。向かいの家の山本理沙子です。事情があってここで暮しています。さっきの子、良介がおじいちゃんの孫です。」
「あなたたち二人とも未成年ですね。」
「はい。」
「通常、同乗者は1名なのですが、どうします?」
「あの、乗るにしても乗らないにしても良介を一人にできません。二人で付いて行ってもいいですか。」
「そうですね…。では良介さんが同乗して、リサコさんは後からタクシーで来てもらえますか? お金はありますか?」
「大丈夫です…じゃあ、そうします。」
良介が身分証などを持ってくると、今度は良介がいろいろと質問を受けた。
既往歴は? 服用している薬は?
良介は意外としっかりした口調でこれらのことに答えていた。
これならば、リサコが病院に到着する間くらいなら一人になっても大丈夫だろう。
隊員と話をしているうちに茂雄は救急車の中に運ばれていた。
やがて受け入れ先が決まり救急車は茂雄と良介を乗せるとサイレンを鳴らし行ってしまった。
リサコは玄関の前で茫然と立っていた。
すぐに追いつかないといけないのに身体が動かなかった。
リサコは必死にリサコにしがみついた。
ダメ…いま時間が飛ぶのはいけない。
視線を巡らせると近所の人が数名様子を見に出て来ていた。
それを見て、リサコは父親がやって来るのではないかと思い、急に恐ろしくなった。
急いで出発しないと…。
リサコは家の中に戻り、戸棚からおじいちゃんの財布を取り出すと中身を確認した。
数万円入っていた。
リサコは近くにあった鞄にとりあえず必要そうなものを詰め込むと、急いで家の外に出た。
すると、向かいの自分の家から父親の幡多蔵がちょうど出てくるのが見えた。
幡多蔵はリサコの姿を認めると、何か大声でわめき始めた。
リサコは振り返らずに一目散に走り、近所の裏道をめちゃくちゃに走って大通りへと出た。
幡多蔵はついて来れなかったようだ。
きっと泥酔して眠りこけていたのだろう。走るのは無理だ。
リサコはタクシーを探した。
こんな時に限ってタクシーはなかなか見つからなかった。
五分ほど待っているとタクシーはつかまったが、リサコには永遠とも思える時間が経過していた。
茂雄の搬送された病院は、車で十分ほどの場所にあった。
タクシーを降りて、救急隊員に教えてもらった夜間窓口に行くと、受付の人が親切に良介の居場所を教えてくれた。
良介は手術中の家族が待機するための待合室にいた。
そこへ向かうと、ガラス越しの部屋の中に良介が座っているのが見えた。
他にも数名がその部屋にいるようだった。
リサコの姿が見えると、良介は部屋から飛び出して来てリサコにしがみついてきた。
リサコは自分よりずっと背が高くなった幼馴染をしっかり胸に抱き留めた。
良介はブルブル震えていた。
彼の体から恐怖の香りがした。
それにリサコも飲み込まれて、パニックが喉元まで上がって来るのが感じられた。
リサコはぐっとそれを飲み込んだ。
とにかく、時間が飛ぶことだけは絶対にまずい。
しっかり自分を保っていなければ…とリサコは強く思った。
「大丈夫。大丈夫だよ…。」
リサコは繰り返し良介に囁きかけて、背中をさすってやった。
良介が少し落ち着いたので、二人は待合室に入った。
そこには三人の男女がいて、お互い体を寄せ合い手を握り合っていた。
三人は良介とリサコが入って来ると、チラリとこちらに視線を投げて、小さく頭を下げた。
リサコも彼らに頭を下げた。
彼らも同じような境遇であることを察知した。
少なからず良介が一人ぼっちでなかったことをリサコは感謝した。
この部屋の中にいる人たちは、会話はなくともお互い通じ合える、そんな不思議な空間だった。
リサコは良介と隣り合ってベンチに座った。
座ると良介はリサコにしがみついていた手を引っ込めてしまった。
そして「終わったら電話がくる…」とボソリと言った。
部屋を見渡すと、電話は向こう側の壁にかかっていた。
リサコたち以外の三人も含めて、この部屋にいる全員があの電話が鳴るのを待っている…。
リサコと良介はじっと肩を寄せ合って座っていた。
向こう側にいる三人も時々ぼそぼそと話をするが、基本的には黙って待っていた。
一分一分が永遠のように感じられた。
時の流れが止まった空間に閉じ込められている…、リサコにはそのように思えた。
この中では時間は動かない。あの電話が鳴ることはない…。
そんなバカみたいな妄想が駆け巡った。
だが、壁の電話は鳴った。突然に。
その音に、リサコは心臓が飛び出るほど驚いた。
電話の近くにいた三人のうちの女性が電話に出た。
そして、少し話してからこちらを向き「元村さん…ですか?」と言った。
良介が立ち上がり、電話の方へ歩いて行くと、女性から受話器を受け取った。
彼は、はい、はい、と何度か返事をして電話を切った。
そしてボソリと言った。
「行こう。終わったって。」
リサコは立ち上がって良介の手を取り部屋から出た。
部屋を出る際に残された三人に頭を下げた。
三人もこちらを見ていて同時にペコリと頭を下げた。
彼らは無言だったが、リサコに向けられたその表情は「しっかりね…」と言っていた。
リサコたちは隣の病棟へと呼ばれていた。病室のある病棟だった。
執刀医と思われる医者が出て来てこう告げた。
残念ですが…。
その言葉がリサコの脳内を駆け巡り、続いて先生が説明している内容は全く頭に入ってこなかった。
残念ですが…。
残念ですが…。
残念ですが…。
残念ですが…。
「それでは、お会いになりますか?」
先生に促されてリサコと良介は病室に入った。
ベッドに茂雄が寝かされていた。
穏やかな顔で、まるで生きているように茂雄は横たわっていた。
リサコは無の境地でそれを見下ろした。
茂雄が死んでいるという事実に頭が全くついてこなかった。
隣で佇む良介も同じ状況なのか、だまって茂雄を見下ろしていた。
「葬儀場などは決まっていないですよね…」
先生が言ったのでリサコと良介は顔を上げて同時に頷いた。
「誰か身内や近所の人で対応してくれる人はいますか?」
その言葉に、良介はポケットからクシャクシャの紙を取り出した。
「じいちゃんに何かあったら連絡するように言われてる人たちがいます。」
良介はあの状況下で咄嗟にこのメモを持って出たのだ。
リサコは感心した。
「その中に、今、夜中に電話できるような間柄の人はいますか?」
先生の言葉に良介は首を振った。
「そうですか…では朝を待って電話してみてください。いろいろ手続きなど多いですので、信頼できる大人の方がいれば来てもらった方がよいかと思います。病院には様々な手続きのサポートをするスタッフがいます。朝の9:00に窓口が空きますから、それまで一度帰宅していただいて、朝にまた来てください。ご遺体は病院でお預かりできます。」
先生はとても丁寧に優しく説明してくれたが、病院には泊まれない…ということを明確に伝えてきた。
リサコたちは病院から出るしかなく、一度帰らないといけないことになってしまった。
「良介…父さんに見られたから私は帰れない。きっと連れ戻される。」
「うん、わかってる。」
言いながら良介が道の反対側を指さしたので見ると、カラオケボックスがあった。
夜中に未成年を入れてくれるかわからなかったが、リサコと良介はひとまず、カラオケボックスに向かった。
幸い、受付はやる気のなさそうな若いバイトだけでだったので、身分証も確認されず、リサコたちはあっさりカラオケボックスに入ることができた。
個室に入ると、どっと疲れが出て、二人は向かい合ったソファーにそれぞれ腰を下ろした。
そして、同時に泣き始めた。
悲しみが後から後から湧き出てきた。
おじいちゃんはもういない…という事実と、これからどうなるのだろう…という不安がリサコと良介を押しつぶして来た。
二人は別々のソファーに体を横たえ目を閉じて泣き続けた。
お互いを慰めあったりすると、悲しみが倍増しそうで恐ろしく、二人は触れ合うことを自然と避けていた。
そうしてやがて朝になった。
少しウトウトしかけたところで、良介が起き上がる気配を感じてリサコも体を起こした。
体中の筋肉が強張っていた。
二人は向かい合って座り、言葉はなく、しばらく見つめ合っていた。
「電話、持ってる?」
良介がぼそりと言った。
リサコは持ってきた携帯電話を良介に渡した。
これは留守中などに何かあった時のためにと茂雄がリサコに持たせていたものだった。
良介は例の連絡先リストを取り出した。
「連絡できそうな人、いるの?」
「うん。お隣の重田さん。」
そのおばさんならリサコもよく知っていた。少々おせっかいなおばさんだ。
彼女ならすっ飛んで来てくれるだろう。
良介が電話をかけると、重田さんはすぐに電話に出たようだった。
良介の話っぷりから、昨晩救急車が来ていたのにも気が付いていた様子だった。
「すぐ来るって。」
電話を切った良介が言った。
「来るってここに?」
うん、と良介は頷いた。おばさんはカラオケボックスに来てくれるようだ。
大人が来てくれるとわかり良介もリサコも少しほっとした。
良介は続いて、他の人にも電話をかけ始めた。
茂雄がリストに残していた親戚に電話しているようだった。
良介のよそよそしい口調から、あまり交流のない親戚のようだった。
そういえば、リサコにも近しい親戚はいなかった。
自分も父親が死んだら頼れる大人が周りにいないことに気が付いた。あの父親が死ぬとは想像できないが…。
良介の親戚も駆けつけるとのことだったが、遠方に住んでいるので夕方ころに到着になるようだった。
そうこうしているうちに、お隣の重田さんがやってきた。
重田さんは良介とリサコを見るなり、わーわーと声を上げて泣き出した。
なぜかとても冷静な気持ちになってリサコはそれを見ていた。
チラッと良介を見ると、彼も同様の表情をしていた。
まるで幼子が泣き止むのを待っている人のやさしい表情…。
「りょうちゃん、学校には連絡したの?」
一通り泣いてから重田さんが言った。
その言葉に良介はハッとなって電話をかけはじめた。
学校のことを忘れていたようだ…。
良介は学校に電話を掛けた。
まだ学校が始まる時間ではなかったが、良介の担任は出勤していたようで、状況を根掘り葉掘り聞かれているようだった。
担任は学校が終わってから来るとのことだった。
病院へ向かう時間となった。
カラオケ代は、いいと言っているのに重田さんが払ってくれた。
三人で病院に行くと、茂雄は霊安室に寝かされていた。
茂雄の遺体と対面して、重田さんはまた泣き崩れた。
その背中をリサコと良介は無言で見つめた。
茂雄との対面が終わると、すぐにソーシャルワーカーという肩書のスタッフが来て、葬儀やらなんやら、身内が亡くなった時の手続きの段取りをしてくれた。
重田さんが間に入ってくれなかったら何も進められなかっただろう。リサコは感謝の気持ちでいっぱいになった。
そして、病院と提携しているらしい葬儀屋がやって来た。
葬儀屋が予算の確認をした際にわかったのだが、茂雄は良介名義で銀行口座を作ってたので、死亡後に口座が凍結して生活費がなくなる…ということは起こらなさそうだった。
茂雄が残していた財産は当面の生活費くらいしかなく、葬儀代に使えそうな分はあまりなさそうだった。
その状況を踏まえて、葬儀屋は一番予算のかからない方法を提案してくれて、あっとゆうまにいろいろなことが決まった。
葬儀場が決まると、霊安室の茂雄は運び出されて専用の出口から病院を後にした。
駐車場には霊柩車が待っていた。
茂雄の最後の治療に携わったと思われる医師や看護師が見送ってくれて、車が出る際には全員が深々とお辞儀をしていた。
この現場にとって、人の死は日常なのか…とリサコは畏敬の念をもって病院を振り返った。
葬儀屋に到着すると、重田さんがまたもや間に入ってくれて、良介に不都合がないように話を進めてくれた。
全ての段取りが決まると、重田さんは午後にまた来ると言い残して一度帰って行った。
ガランとした葬儀場に残されたリサコと良介は隣り合って腰を下ろし、手際よくセットされた茂雄の祭壇を眺めていた。
「ねえ、リサコ。おじさんに連絡しないとじゃない?」
良介が茂雄の遺影から目を逸らさずに言った。この遺影も重田さんが必要になるからと探して持ってきてくれたものだった。
父さんに連絡…。
リサコはすっかりその必要があることを忘れていた自分に驚いた。
幡多蔵と会わないようにすることしか考えていなかったが、このことを伝えないわけにもいかない…のか。
重田さんと幡多蔵は交流がないので、そっち経由で葬儀場の情報が行くとは考えにくかった。
リサコは思い切って電話をかけた。
携帯の番号を知られたくなかったので非通知にしてかけたが、父親はすぐに出た。
「てめぇ、昨日は何があったんだよ。」
相変わらず幡多蔵はわめき散らしていた。
リサコは淡々と状況を説明し、葬儀場の場所も事務的に伝えた。
まだ幡多蔵はわめいていたが、リサコは一方的に電話を切った。
「父さん、たぶん来ると思うけど、公共の場だから二人きりにならなければ大丈夫だと思う。」
それを聞いて良介は、うんと頷いた。
昼になり、リサコと良介は葬儀場が用意した弁当を無言で食べた。
全く味がしなかった。
昼食が終わると良介が葬儀場の職員に呼ばれて行ってしまったので、リサコはひとり家族の控室に残った。
しばらくぼーっとしていると、突然、扉が開いて見知らぬ若い男性が入って来た。
男性は控室の中をキョロキョロ見回すと、リサコに話しかけてきた。
「良介は? ここにいるって聞いたんだけど。」
話しかけられてリサコは慌てて姿勢を正した。
「あ、あの、良介は今、式場の人に呼ばれてどこか行きました。」
「あ、そうなんだ。じゃあ、すぐ戻って来るかな。入ってもいい?」
リサコはこの男性のあまりに気さくな感じに少々驚きながらも、頷いて部屋へ招き入れた。
「俺は伊菅タケル。良介の産みの母親の妹の息子だ。」
「えと…」
「ああ、まあ、面倒だから従兄でいいか。君は? 親族じゃなさそうだけど、良介の彼女かなんか?」
彼女…!!
リサコはブンブンと首を振ってそれを否定した。
「わ、私はただの近所の幼馴染です。山本理沙子です。おじい…茂雄さんにもすごくお世話になってて…」
「へー、幼馴染?」
伊菅タケルはリサコの向かい側に座ると、頬杖をついてじっとリサコを見つめてきた。
リサコは居心地が悪くなってモジモジし、はやく良介が戻ってこないかと思った。
「ねぇ、君、かわいいじゃん。良介の彼女じゃないんなら俺と付き合わない?」
「え…」
リサコは伊菅タケルのあまりの馴れ馴れしさに警戒心を強めて身構えた。
何となく男性からこんなふうに話しかけられることに馴染みがある気がした。
時間が飛んでいる間に自分が何かをしているらしいことは薄々解ってはいたが、リサコは自分の貞操について急に心配になってきた。
リサコはこのような男性に対する対応をなぜか心得ていたのだ。
さっきまでのドギマギした気持ちはどこかへ行っていた。
リサコはにっこり微笑むと「またの機会に」と受け流した。
そうしてリサコと伊菅タケルが話をしていると、良介が戻って来た。
良介は伊菅タケルが部屋にいるのを見ると一瞬固まったように見えたが、そのまま入って来てリサコの隣に座った。
「兄ちゃん…来てたの。」
「来てたの、じゃねえよ。電話してきたのはお前だろう。大丈夫か?」
良介はうんと頷いた。
その様子からリサコは二人が周知の仲であることを悟った。
「お前、何だよその頭。」
伊菅タケルは手を伸ばして良介の金髪をくしゃくしゃ触った。
良介は体をのけ反らせて従兄の手を避けた。
「じいちゃんには会ってくれた?」
「ああ、さっきご対面してきたよ。苦しまずに逝ったのか?」
「俺が見つけたときはもう倒れてたから…わからない。」
「そうか…。」
リサコはそんな二人のやりとりをぼんやりと聞いていた。この伊菅タケルという人は害はなさだと判断した。特に良介にとって。
「あ、いたいた。りょうちゃん、リサコちゃん、これ着れるかしら?」
急に騒がしい雰囲気で重田さんが戻って来た。
手には黒い服を持っていた。
「あんたち、喪服、持っていないでしょう? 金物屋さんのお子さんが貸してくれたのよ。サイズ合うかしら?」
重田さんが持ってきてくれた喪服は二人とも着ることができた。
リサコは喪服を着なければならないことすらすっかり忘れていた自分を情けなく思った。
リサコは喪服に着替えると控室へと戻った。
喪服姿のリサコを見ると、伊菅タケルが近寄って来て言った。
「いいねぇ。リサコちゃん、いいよ。黒が似合う女は本当の意味でいい女なんだぜ。」
リサコは助けを求める意味で良介の方を見たが、良介は無表情でこちらを見ているだけだった。
助ける気はないらしい。
ということは、伊菅タケルはリサコにとって害はないと良介が判断しているということだ。
リサコは伊菅タケルに対する警戒心を少し解いた。
受付は重田さんと近所の人が交代でやってくれることになり、通夜が始まった。
親族は良介と伊菅タケルしかおらず、リサコも親族の席に座ることになった。
リサコは良介と伊菅タケルに挟まれて座った。
前方を見ると、茂雄の遺影が飾れた祭壇があった。その手前に棺桶が置かれている。
あの中に茂雄の遺体が横たわっているのだ。
リサコは恐ろしくてまだ一度も棺桶の中は見ていなかった
突然激しいフラッシュバックが襲って来た。
それはリサコの母親の葬式の場面だった。
あの時、隣には茂雄がいた。
あの時はまだ茂雄がいたのだ。
リサコの呼吸は荒く浅くなった。
ダメだ…このままでは息ができなくなる。
視界が白くなってきた。
リサコは今にも気を失いそうだった。
今気を失ったら、また時間が飛んでしまうのではないかと思った。
今は伊菅タケルがいるから少し飛ばしても大丈夫かな…。
そう思った瞬間。良介の手がリサコの手をぎゅっと握った。
「リサコ、行かないで。今は俺を置いて行かないで。」
良介が言った。
良介の方を見ると、もっさりした金髪の奥から小鹿のような瞳がこちらを見ていた。
リサコは、うんと頷き、良介の手を握り返した。
反対側に座っていた伊菅タケルがリサコの顔を覗き込んで来た。
リサコがそちらを見ると、「大丈夫?」とだけ彼は言った。リサコは伊菅タケルにも頷き返した。
伊菅タケルは良介が握っているのとは反対側の手を握ってくれた。
そうして、リサコは二人の手を握りしめて、現実になんとかしがみついた。
この時間に留まらなければ…。そう思って、力いっぱい二人の手を握りしめた。
(つづく)
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