[小説] リサコのために|041|九、理沙子 (3)
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リサコはリビングのファーに座ると、自分の身に起きていることを洗いざらい茂雄に話した。
茂雄はリサコの隣に腰を下ろして、口を挟まずにじっと彼女の話を聞いてくれた。
良介はカウンター席にひとり座って話に耳を傾けている様子だったが、怒りに満ちた空気が彼の周りに漂っているのが感じられた。
話し終えると、茂雄はゆっくりと、姿勢を正して口を開いた。
「リサコや。きみのお父さんが君に暴力を振るっているのであれば、お役所に相談してしかるべき対応をしてもらうことも可能だけど…だけども…」
「だけども…?」
「おじいちゃんは幡多蔵という男ともそれなりに付き合いがあるからね。リサコのお父さんだからあまり悪くは言いたくないけど、ああいう人種はとにかく罪を人に擦り付けるのが得意なんだよ。
だから、リサコが勇気を出してこのことを公にしたとしても、最終的にあの人は何の責任も負うことないだろうし、リサコがもっとひどい目に合う可能性の方が高い。」
「じゃあ、どうしたらいいんだよ。」
良介がイラついたように口を挟んだ。
「おじいちゃんにちょっと考えがある。実はいつかこういう日が来るのではないかと思ってずっと心配をしていたんだ。
リサコが話してくれなかったらおじいちゃんは心配だけして気が付けなかったかもしれない。
いいかい、リサコ。大人は意外と君たちのことが良く見えないんだよ。よく話してくれたね。すごい勇気だよ。あとはおじいちゃんに任せて。」
そう言うと、おじいちゃんは腕を伸ばして彼女をそっと抱きしめてくれた。
乾燥した植物のような不思議な香りがした。
リサコは、自分の中にずしりと巣くっていた重たい何かが、一旦茂雄に預けられるのを感じた。
急激に心が軽くなるのが感じられた。
そしてリサコは声を上げて泣いた。まるで小さな子供のように、両方の手で目を覆っておいおいと泣いた。
茂雄はリサコが落ち着くまでずっと抱きしめてくれていた。
こうして誰かに抱いてもらうのは幼い時に母親にしてもらって以来だった。
誰かの温もりを感じるということが、こんなににも自分を落ち着かせてくれることにリサコは驚いていた。
リサコが落ち着いて来たころ、茂雄はそっとリサコから離れて、今度はリサコの顔を覗き込んで言った。
「リサコはしばらく家には帰らないでここを使いなさい。二階に空いている寝室があるから。荷物はお父さんがいない隙に少しずつ運べばいい。」
リサコはうん、と頷いた。
そんなにうまくいくのかは解らなかったが…。
「それからね、リサコ。」
茂雄はもう一つ大事なことを言いたそうだった。
「なに?」
「リサコの時間が飛ぶ、という話なんだけど。」
リサコはごくりと生唾を飲み込んで次の言葉を待った。
現実的にあり得ない、リサコの頭がおかしいとでも言われるのだろうか…そう構えたのだった。
「それは “解離” というものだ。」
予想と違う言葉が茂雄の口から出てきたので、リサコは少々面食らった。
「カイリ?」
「そうだ。人の精神は極度なストレスを受けると、身を守るために、このストレスを受けているのは自分ではない…と思い込むことで、苦しみを回避する能力が備わっていることが知られている。」
カウンターにいたはずの良介がいつの間にか近くに立っていて、茂雄に向かって首を横に振っているのが見えた。
茂雄は片手をあげて良介を制したように見えた。
「その回避の度合いが強くなると、“解離” と言う状態となる。」
「じじい。そこまでだ。」
耳元で突然声が聞こえた。リサコの声だった。
<じじい。そこまでだ。> とリサコ自身は言った覚えはないが、リサコの声がそう言っていた。
リサコは動揺したが、思考と身体がバラバラになった感覚で動けなかった。
「リサコ、聞こえているね。もしも必要ならおじいちゃんが費用を出してあげるからカウンセリングを受けてもいいんだよ。」
リサコは自分でやっているつもりはないが、ふん、と鼻で笑うと、そっと目を閉じた。
目を開けるとリサコはいつもの自分に戻っていた。今回は時間も飛んでいないようだった。
今、茂雄に言われたことについてリサコが答えようとした瞬間に、玄関のチャイムがなった。
時計を見ると夜の11時を回っていた。
リサコの父親に違いない。
その場の全員がそう思った。
リサコが青い顔をして立ち上がると、茂雄が彼女の肩をやさしく押して彼女を再び座らせた。
良介が玄関に向かって今にも飛び出しそうだったので、茂雄はそれも止めた。
そして、中指を口にあてて、シーっという仕草をした。
茂雄はゆっくりと玄関へ向かって行った。
彼がリビングのドアを閉めてしまったので、玄関先での声は聞こえてこなかった。
数分して茂雄が戻って来た。
「ちょっとリサコの家で幡多蔵さんと話してくるから、君たちは家で待ってなさい。」
「俺も行く。」
良介が茂雄に詰め寄ったが、茂雄は首を振って彼を思いとどまらせた。
「良介はリサコと一緒にいてやってくれ。まあ、大丈夫だとは思うけど、一時間して戻らなかったら警察に電話しなさい。絶対に君たちだけで様子を見に来ちゃだめだよ。」
リサコは急に恐ろしくなって立ち上がると茂雄のシャツの袖を掴んだ。
「大丈夫。リサコのお父さんは少し酔ってるけど、頭はしっかりしている。あの人は自己防衛本能は強い。暴力など振るって自分を陥れるようなことはせんよ。」
そうして茂雄は出て行った。
リサコは良介の袖を引っ張って、一緒にソファーに座った。
良介はブルブル震えていた。恐怖ではなく怒りで。
相変わらずもっさりした前髪で目は見えなかったけど、彼がどういう目をしているのかリサコにはわかるのだった。
リサコはそんな良介の怒りのエネルギーに圧倒されて、彼から手を離した。
「ごめん。巻き込んじゃった。」
そう声を掛けるのが精いっぱいだった。
良介はブンブンと首をふってリサコの言葉を否定した。
二人はそれ以上言葉を交わすことはなく、ただじっと座って祖父の帰りを待った。
良介は皮膚に爪が食い込むほどに力いっぱい両手を握りしめていた。
リサコはそれをずっと見ていた。
時間はジリジリと進んだが、20分ほど経って、茂雄はあっさり帰って来た。
特に争ったような雰囲気はなかった。
リサコと良介に見つめられると、茂雄はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。幡多蔵さんもバカじゃない。じいちゃんが持ち出した取引に応じてくれたよ。」
「取引?」
「リサコに暴力を振るっているのを黙っていてやる代わりに、リサコをこっちに預からせてもらうって話をした。
まあ、もちろんそれでは納得しなかったから、幡多蔵さんの食事とお酒を全部こっちで用意してやるからリサコをこっちに住まわせろと交渉した。そしたらあっさり了解したよ。」
茂雄ははっはっはといかにも愉快そうに笑った。
リサコと良介はきょとんとして顔を見合わせた。
「つまり、おじいちゃんが思っていたとおり、幡多蔵さんも好き好んでリサコに当たっていたわけではなかったんだね。
あの人が一番恐れているのは、リサコへの暴力が発覚することじゃなかったんだ。自分の世話を焼いてくれる人が居なくなるのを何よりも恐れていたんだな。」
リサコと良介が黙ったままなので、茂雄は言葉続けた。
「まあ、でも問題は解決したわけじゃないから。二人は絶対あの人と鉢合わせしないように気を付けるように。
特に良介。お前が怒っているのは解るけど、変な真似はしないようにね。あの人は先にやられたら全力でやり返してくるだろうよ、たとえ相手が子供でも。
それから、リサコ。自分の荷物を取りに行くときは、必ずじいちゃんと一緒だ。あの人に食事を持って行くタイミングで行くことにしよう。それ以外の時間に家に帰ってはいけないよ。」
祖父からのお達しに、二人の子供は頷いた。
こうしてリサコは茂雄の家で、良介と三人で暮らすことになった。
茂雄の家にいると、時間が飛ぶこともほぼなくなった。
良介との距離感は相変わらずだったが、彼もリサコを歓迎してくれているのは感じられた。
リサコはやっと自分の居場所を見つけたような気がして心底ほっとしていた。
だが、この平穏な生活もそう長くは続かなかったのだ。
(つづく)
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