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第2回:ヨハネの福音書は「天のイエス」に出会った無数の愛弟子による「証し」の書

◆無数の愛弟子による、収めきれないほど膨大な証し

 前回のイントロダクションでは、ヨハネの福音書を「地動説」の読み方で広い時空で眺めるなら旧約の時代と使徒の時代の「天のイエス」が見えて来ることを話しました。

ヨハネの福音書は、この「天のイエス」についての証言の書です。

今回は、このことをヨハネ1章のプロローグと21章の最後のことばから解き明かします。

ヨハネ1章1~18節は「プロローグ」と呼ばれていて、6~8節には次のことばがあります(新改訳2017)。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

ここに登場する「ヨハネ」とは、誰のことでしょうか?

ヨハネの福音書を、マタイ・マルコ・ルカの福音書と同じ紀元30年頃の「地上のイエス」を描いた書として読むなら、ヨハネとは「バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)」ということになります。

しかし繰り返しますが、ヨハネの福音書は「天のイエス」についての証言の書です。なぜなら、この福音書は最後の21章で次のように記して閉じられるからです。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

その弟子」(24節)とは、「愛弟子(イエスが愛された弟子)」のことです。ですから、ヨハネの福音書は愛弟子による証言の書です。

そしてイエスが行われたことの証しの一つ一つを書き記すなら、世界も書物を収められないほどの分量であると記しています(25節)。

しかし、考えてみて下さい。イエスの言動がどんなに多かったとしても、たった一人の愛弟子による証言が収めきれないほどの分量になるでしょうか?決してならないでしょう。

一方、愛弟子の数が膨大であれば証言の書物が収めきれないことも納得できます。ですから、ここでは愛弟子の数が無数にいることが明らかにされています。

この愛弟子が、1章の「証しのために来たヨハネ」です(6~8節)。


◆二千年間、途切れることなく繋がれた「ヨハネのバトン」

 ヨハネの福音書は紀元1世紀の末頃に書かれたとされています。ですから、1世紀末の時点の「ヨハネ」とはゼベダイの息子の「使徒ヨハネ」か、或いは「使徒ヨハネの弟子」あたりでしょう。

そうして「使徒ヨハネの弟子」から「孫弟子」に、さらに「ひ孫の弟子」にバトンが渡されて行きます。

このバトンの継承が21世紀まで繰り返されて来て、今は2026年の私たちが「ヨハネ」の役割を担っています。イエスはすべての者を愛しておられますから、私たちもまた「愛弟子」になることができ、証言者の「ヨハネ」になることができます。

このバトンリレーの場面が、前回の記事でも引用した1章の35~39節です。

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。

この「二人の弟子」のうちの一人はアンデレであったと40節で明らかにされています。しかし、もう一人の名前は明らかにされていません。このもう一人が「次の愛弟子候補」です。

36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

こうして「ヨハネ」のことばによってイエスと出会った「次の愛弟子候補」は、イエスに問われます。

38 「あなたがたは何を求めているのですか。」

自分が心の奥底では何を求めているのか、二人の弟子は答えられず、逆に「先生、どこにお泊まりですか」と聞きました。そんな二人にイエスは言いました。

39 「来なさい。そうすれば分かります。」

こうして「次の愛弟子候補」はイエスと共に旅をすることで信仰が成長して、13章に至る頃には「愛弟子候補」ではなく「愛弟子」になって、「天のイエス」の証言者になります。

では、「愛弟子候補」と「愛弟子」の違いはどこにあるでしょうか?

少し先のヨハネ4章にサマリア人たちの次のことばがあります。

ヨハネ4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

サマリア人たちは女が話したことによってイエスを信じました。このサマリア人たちのことばを参考にするなら、「愛弟子候補」とは他人のことばや書物を通してイエスについて学んでいる段階の者と言えるでしょう。

そうして他人や書物のことばを通してイエスを信じるなら、聖霊を通して「天のイエス」と出会い、イエスのことばを自分で聞くことができるようになります。このように「愛弟子」とはイエスのことばを自分で聞ける者と言えるでしょう。

この4章については、次からの1章の続き、そして2章と3章の説明の後で解き明かしますから、頭の片隅に置いておいていただけると幸いです。

次回は、1章に三回出て来る「その翌日」(29節、35節、43節)が、「旧約の時代」のアブラハム・イサク・ヤコブの時代の区切りを示すとともに、「使徒の時代」のイエス復活後の10日目・20日目・30日目の区切りを示すことについて話します。

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(※仕事と家族の介護で多忙なため、コメントへの返信は行いません。大変申し訳ありませんが、あらかじめご了承ください。よろしくお願い致します。)

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