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第12回:ヨハネの極上のブラックユーモア【献金箱の中に隠れたイエス】(ヨハネ7~8章)

◆「イエス=ことば」の意味が分かるヨハネ7~8章

 ヨハネの福音書は、イエス・キリストは「ことば」であったという記述から始まります。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

イエス=ことば」とは、どういうことでしょうか?今回の7~8章の解説によって、良く分かっていただけることと思います。

イエス=ことば」の謎を解くキーワードの一つは、【】です。【】は、7章の他に11章でも使われています。

ヨハネ7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
4 自分で【】の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」

ヨハネ11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を【公然】と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

前章のヨハネ6:66で北王国は滅亡しました(第11回参照)。滅亡したことで聖書の列王記は北王国について書かなくなり、以降は南王国のことのみが書かれています。ヨハネ7:3~4のイエスの兄弟たちの「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。・・・自分を世に示しなさい」とは、「南王国について書きなさい」ということです。

そしてヨハネ11:54の「イエスはもはやユダヤ人たちの間を【公然】と歩くことをせず」とは、旧約聖書が最後のマラキ書で記述を終えたことを示しています。前回の第11回で解説したようにヨハネ10~11章はバビロン捕囚~エルサレム滅亡~エルサレム帰還~復興について書いています。この時間順に従えば、ヨハネ11:54がマラキ書をもって旧約聖書が閉じられたことを表していることは間違いありません。

これらから、「イエス=ことば」が何を表すのかが見えて来ます。

イエスが【公然】と歩いている時、神のことばが聖書で語られています。それはつまり、「光、あれ」(創世記1:3)から始まる神のことばは、すべてイエスのことばであるということです。それに加えて、モーセやエリヤなどの預言者たちを通して語られた神のことばもまた、イエスのことばであるということです。イエスは

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

と言っていますから、「イエスのことば=聖書の神のことば」です。

連載の第3回で解説したように、神がヤコブに「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」(創世記32:28)と言ったことを、ヨハネ1章は「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」(ヨハネ1:47)というイエスのことばで表現しました。このことも「イエスのことば=聖書の神のことば」であることを裏づけています。ヨハネの福音書には、このような「イエスのことば=聖書の神のことば」であることを裏づける表現がたくさんあり、今回の最後に解説する【献金箱の中に隠れたイエス】もまた、その一つです。


◆南王国のウジヤ王~ヒゼキヤ王の時代に活動した預言者イザヤ


 先ほど触れた通りヨハネ6:66で北王国が滅亡しましたから、ヨハネの福音書の「旧約の時代」は7章からもっぱら南王国が舞台になります。北王国が滅亡した頃の南王国の預言者はイザヤであり、王はイザヤ書の冒頭にあるようにウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤでした。

イザヤ1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

そしてヨハネ7章には「大きな声で」という表現が2度使われています。

ヨハネ7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。

ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。

これは、イザヤ書が「叫ぶ」という表現を多く使っていることに対応していると考えられます。たとえば有名なイザヤ書40章、

イザヤ40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」

このイザヤ書の「叫ぶ」をヨハネの福音書は「大きな声で」で表していると考えられます。


◆善王・ヒゼキヤの時代から悪王・マナセの時代への暗転

 ヒゼキヤは宗教改革を行った善い王でした。列王記はヒゼキヤについて次のように書いています。

列王記第二18:3 彼(ヒゼキヤ)は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。
4 高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。そのころまで、イスラエル人がこれに犠牲を供えていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。
5 彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

このように、列王記はヒゼキヤ王を絶賛しています。そしてヨハネの福音書は、このヒゼキヤ王の宗教改革を「わたしは世の光です」というイエスのことばで表現しています。

ヨハネ8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

信仰に立ち返ることで目が開かれて、ヒゼキヤの時代の南王国の人々は神が照らす光に導かれながら、信仰の道を歩むことができるようになりました。

さてしかし、ヒゼキヤの息子のマナセが王を継いでから、世は漆黒の闇に支配されるようになりました。列王記はマナセについて次のように書いています。

列王記第二21:2 彼(マナセ)は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行った
3 彼は父ヒゼキヤが打ち壊した高き所を築き直し、イスラエルの王アハブがしたように、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像を造り、天の万象を拝んでこれに仕えた。
4 こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた主の宮に、いくつもの祭壇を築いた。
16 マナセは、ユダに罪を犯させて、主の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。

このようにマナセ王は偶像礼拝を復活させただけでなく、多くの人々を殺しました。神のことばを人々に伝える預言者たちも殺されたとされ、イザヤもまたマナセによって殺されたという伝承が残っています。

このマナセ王のことをヨハネ8章のイエスは「悪魔」・「人殺し」と呼びました。

ヨハネ8:44 「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」

この時代の南王国は、神の光がまったく届かない暗いトンネルの中を通っていました。


◆極上のブラックユーモア【献金箱の中に隠れたイエス】

 この暗いトンネルに入る前、イエスは献金箱の近くにいました。

ヨハネ8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。

そして、次のように言いました。

ヨハネ8:21わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

ブラックユーモア】とは、正にヨハネ8:20-21のためにある言葉だと言えるのではないでしょうか?このような極上のブラックユーモアがイエスの口から語られるとは、驚き以外の何ものでもありません。ここでイエスは、「わたしは献金箱の中に去って行きます」と言っているのですから、人々が献金箱の中に入れないのは当然です。

実は、献金箱の中に入っていたのは「律法の書」でした。マナセ王の孫のヨシヤ王の時代に宮の修理をしていた時、献金箱の中から「律法の書」が発見されました。

歴代誌第二34:8 その治世の第十八年に、ヨシヤはこの地と宮をきよめるために、アツァルヤの子シャファン、この町の長マアセヤ、エホアハズの子である史官ヨアフを遣わして、自分の神、主の宮を修理した
14 彼らが、主の宮に携え入れられていた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を見つけた。

不信仰なマナセ王と息子のアモン王の時代には「律法の書」は完全に無視されていました。それゆえにマナセの孫のヨシヤ王の時代には「律法の書」は、その存在すら忘れ去られていました。

律法の書」には、モーセを通して語られた「神のことば」が書かれていました。そして、「律法の書=神のことば=イエスのことば」であり「イエス=ことば」ですから、イエスの「わたしは去って行きます」(ヨハネ8:21)は「律法の書」がマナセ王の時代に献金箱の中に紛れ込んで行方不明になってしまったことを示しているのです。

このような極上のユーモアがイエスの口から語られたことを知るなら、イエスへの親近感がこれまで以上に増すのではないでしょうか。


◆付録:ヨハネ7:53~8:11についての私見

 ふだん私が読んでいる聖書の新改訳2017のヨハネ7:53の脚注には、

53 *古い写本のほとんどが7:53~8:11を欠いていて、この部分を含む異本の違いも大きい。この部分がルカの福音書に含まれている異本もある。

と記されています。つまりヨハネ7:53~8:11の区間はオリジナルのヨハネの福音書には存在しなくて、後世に挿入された可能性があることを新改訳2017は示唆しています。

この区間が当初から含まれていたのか、或いは後世の挿入であるかについての聖書学者の見解は割れているようですが、ここで私見を短く述べておくことにします。

ヨハネの福音書を「地動説」で読む立場から言えば、両方とも説明可能です。ヨハネ7:53~8:11は無いほうが流れとしては良いような気もしますが、あっても構いません。「旧約の時代」で言えば、ヒゼキヤ王の宗教改革が始まる頃に相当しますから、「自分の罪に気付いて姦淫の女に石を投げなかった者たち=自分の罪に気付いたヒゼキヤ王」と説明することが可能でしょう。

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(※仕事と家族の介護で多忙なため、コメントへの返信は行いません。大変申し訳ありませんが、あらかじめご了承ください。よろしくお願い致します。)

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