第13回:自分勝手な道に向かい、イエスを十字架に付けて廃棄した者たち(ヨハネ9~10章)
◆道の光である聖書のことばのイエス
前回の第12回では「献金箱の中に隠れたイエス」について説明しました。
ヨハネの福音書8章の背後にある「旧約の時代」は、律法を重んじた善王・ヒゼキヤの治世から律法を無視した悪王・マナセの治世に暗転した時代です。マナセの時代に律法の書は行方不明になりましたが、ヨシヤ王の時代に宮の献金箱から発見されました。
イエスが献金箱の近くで話したことば、
ヨハネ8:21 「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」
は、律法の書が行方不明になったことを指しています。「イエス=ことば」(ヨハネ1:1)ですから、「イエス=律法の書」でもあるのです。
詩篇119篇には
詩篇 119:105 あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。
とあります。暗い夜道を歩く時、どちらの方向に向かって歩けば良いのか足もとを照らす光が教えてくれます。私たちの日々の生活は、暗い夜道を歩いているようなものですから、神のことばの光が無ければ、進む方向を誤ってしまいます。ことばであるイエスは、私たちを正しい方向へ導いて下さいます。
ヨハネ1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
とヨハネ1章に書いてある通りです。
◆二つの「世の光」のサンドイッチ構造
この、ヒゼキヤ王の治世→マナセ王の治世→ヨシヤ王の治世の時代の移り変わりをヨハネの福音書は二つの「世の光」で表しています。
ヨハネ8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
ヨハネ9:5 「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
この二つの「世の光」の間に、マナセ王の悪魔の時代が挟まっています。
ヨハネ8:44 「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」
つまり、ヨハネ8~9章は二つの「世の光」の間に暗闇の時代が挟まるサンドイッチ構造になっています。
◆善王・ヨシヤの時代から悪王・エホヤキムの時代への暗転
ヨハネ9章でイエスによって目が開かれた盲人はヨシヤ王です。
ヨハネ9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
5 「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
この人は生まれた時から目の見えない盲人でした。同様に、ヨシヤ王が生まれた時は律法の書の存在自体が忘れ去られていました。それゆえ、神の光がまったく見えない暗闇の中にいましたが、律法の書が発見されたことでヨシヤ王の目が開かれて神の光が照らす道を歩むことかできるようになりました。列王記はヨシヤ王を絶賛して、次のように書いています。
列王記第二23:25 ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。
しかし、ヨシヤ王の死後は再び暗闇の時代に戻ってしまいました。特にエホヤキム王の時代は暗い時代でした。
◆エレミヤの悲痛な叫びが響き渡るヨハネ10章
再び不信仰な時代に戻ったことで、南王国は破滅へと向かって行きます。そこで主は、不信仰を改めるように預言者エレミヤを通して警告しました。
エレミヤ7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。
しかし、人々の不信仰は改まりませんでした。それゆえ主はエレミヤに言いました。
エレミヤ11:9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。
10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。
11 それゆえ──主はこう言われる──見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。」
そうしてエルサレムは滅亡に向かって行きました。ヨハネ10章の冒頭のイエスのことばは、エルサレムの滅亡が目前に迫っていることを預言するエレミヤの悲痛な叫びです。
ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」
エルサレムは城壁で囲って防御しているため、門を堅く閉じてあれば侵略者が簡単には攻め込むことができないようになっています。しかし、外国人の略奪隊は城壁を乗り越えてエルサレムに侵入しました。ヨハネ10:1でイエスが言った「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です」は、このことを指します。
そして列王記は、このことを次のように記しています。
列王記第二24:2 主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。
こうしてエルサレムの神殿と王宮にあった財宝は奪われ、エルサレムの人々はバビロンへ捕囚に引かれて行くことになりました。
◆主のことばを記した巻物を暖炉の火で燃やしたエホヤキム王
南王国を破滅へ追いやったエホヤキム王の不信仰がどんなにひどいものであったかがエレミヤ36章を読むと分かります。
エレミヤ36:1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなことばがあった。
2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。
3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記した。
21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。
このようにして主のことばが記されている巻物をエホヤキム王が暖炉の火で焼き尽くしたことを、ヨハネ10章は次のように描いています。
ヨハネ10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。
23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。
34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。
35 神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、
「イエス=ことば」ですから、主のことばが記されている聖書を暖炉の火で燃やして廃棄したことは、すなわちイエスを廃棄したことに等しいわけですから、まったくあり得ないことです。
◆自分勝手な道に向かい、イエスを十字架に付けて廃棄した者たち
しかし、改めて考えてみると、イエスを十字架に付けたことはイエスを廃棄したことに等しいのだということに気付かされます。
イザヤ書53章はイエスの十字架のことを次のように描写しています。
イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
北王国の人々はアッシリアに捕囚として引かれて行き、南王国の人々は捕囚としてバビロンに引かれて行きました。これらは彼らの不信仰が招いたことですから、彼らが自分勝手な道に向かって行ったということになります。
そうして神に背を向けて自分勝手な不信仰の道に向かって行くことは、21世紀の現代でも繰り返されています。私たちの一人一人もまた、エホヤキム王のようにイエスを十字架に付けて廃棄するようなことをしています。
そして驚くべきことに、その十字架が私たちに平安をもたらします。イザヤ53:4に「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」と書いてある通りです。イエスを信じる者は聖霊を通して神の光に導かれるようになり、暗闇をさまようことがなくなるからです。
イエスを十字架に付けて廃棄したにも関わらず、私たちには平安がもたらされます。この神の御業の不思議を、ヨハネの福音書を学ぶことで深く理解できるようになりたいと思います。
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(※仕事と家族の介護で多忙なため、コメントへの返信は行いません。大変申し訳ありませんが、あらかじめご了承ください。よろしくお願い致します。)
