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止まれる鑑定 ー足る鑑定とは何かー

前回、私は「通った」も絶対ではない、と書いた。

裁判で通っても、科学的に正しいとは限らない。権威があっても、所見が正しいとは限らない。ほかに人がいなくても、その鑑定が検証不要になるわけではない。

鑑定は、疑われることで弱くなるのではない。
疑われても検証できることで、強くなる。

では、疑われても検証できる鑑定とは何か。

それが、今回考えたい 足る鑑定 である。

足らざる鑑定は、見逃しの鑑定である。見るべき所見を見ていない。拾うべき疑問を拾っていない。所見から言えるはずのことを言えていない。

過ぎたる鑑定は、読み過ぎの鑑定である。所見がそこまで語っていないのに、断定し、飛躍し、犯人性や故意や法的責任に近づきすぎる。

足る鑑定は、その中間を取ることではない。弱く書くことでも、強く書くことでもない。

足る鑑定とは、見るべきものを見逃さず、見たものを読み過ぎず、所見と解釈を分け、言えることと言えないことを後から検証できる形で残す鑑定である。

ここで大事なのは、「形」である。

慎重であることは大切である。謙虚であることも大切である。しかし、慎重さや謙虚さは、鑑定書を自動的に検証可能にしてくれるわけではない。

検証できる記録。
検証できる写真。
検証できる資料管理。
検証できる言葉の強さ。
検証できる限界表示。
検証できる反対仮説。

足る鑑定とは、気持ちの問題ではない。
検証できる形の問題である。


所見と解釈を分ける

足る鑑定の第一条件は、所見と解釈を分けることである。

これは簡単そうに見えて、実際には難しい。

たとえば、頸部に線状の変化があったとする。そのとき、「索溝を認める」と書くのか、「頸部に帯状の皮膚変化を認める」と書くのかでは、意味が違う。

前者は、すでに解釈を含んでいる。後者は、まず観察された変化を置いている。

もちろん、最終的に索溝と判断できる場合はある。その場合は、そう書くべきである。しかし、その前に、何を見たのかが残っていなければならない。

どこにあるのか。どの方向に走るのか。連続しているのか、不連続なのか。色調はどうか。深さはどうか。皮下出血はあるのか。頸部内部の損傷はあるのか。衣服、体位、搬送、処置による説明は残るのか。

これらを抜きにして「索溝あり」とだけ書くと、あとから検証しにくい。

同じことは、頭蓋内出血でも、肋骨骨折でも、薬毒物濃度でも起こる。

「出血がある」と「外傷性出血である」は違う。
「骨折がある」と「暴行による骨折である」は違う。
「薬物が検出された」と「薬物中毒死である」は違う。
「病変がある」と「病死である」は違う。

所見は材料である。
解釈は、その材料から組み立てる考えである。

材料と考えを混ぜると、鑑定は一気に強く見える。しかし、検証しにくくなる。

足る鑑定は、ここを分ける。

何を見たのか。
そこから何を考えたのか。
その考えには、どの程度の強さがあるのか。
別の説明は残るのか。

この順番が残っていると、鑑定は後からたどれる。


言葉の強さを、所見の強さに合わせる

鑑定書では、言葉の強さが重要である。

「矛盾しない」
「可能性がある」
「否定できない」
「考えられる」
「示唆される」
「強く示唆される」
「可能性が高い」
「断定できる」

これらは同じではない。

しかし、捜査や裁判の中では、しばしば近いものとして扱われることがある。「矛盾しない」が「そう考えられる」になり、「そう考えられる」が「可能性が高い」になり、「可能性が高い」が「ほぼ間違いない」に近づいていく。

だから、鑑定人は、自分の言葉の強さを意識する必要がある。

所見が強いなら、強く書く。所見が弱いなら、弱く書く。複数の説明が残るなら、その複数性を残す。分からないなら、分からない理由を書く。

問題は、強く書くことではない。
根拠より強く書くことである。

問題は、弱く書くことではない。
言えるはずのことまで弱くしてしまうことである。

足る鑑定は、声が大きい鑑定ではない。声が小さい鑑定でもない。

所見に合った声の大きさで書かれた鑑定である。


反対仮説と限界を残す

足る鑑定には、反対仮説が必要である。

自分の結論を支持する所見だけを並べれば、鑑定は強く見える。だが、それは強い鑑定とは限らない。

本当に強い鑑定は、反対仮説に触れている。

事故なのか、事件なのか。外傷なのか、病変なのか。生前の変化なのか、死後の変化なのか。薬物が主因なのか、併存にすぎないのか。他者の関与を示すのか、自然経過でも説明できるのか。

こうした可能性を検討したうえで、なぜある可能性を重く見て、別の可能性を低く見るのかを書く。

反対仮説を書くことは、自分の結論を弱くすることではない。むしろ、結論を強くする。

なぜなら、読み手は、鑑定人が何を検討し、何を残し、何を退けたのかを知ることができるからである。

同時に、限界も書く。

限界を書くというと、弱腰に見えるかもしれない。だが、それは違う。限界を書かない鑑定は、強いのではない。どこまでが確かなのか分からないだけである。

限界には、いくつかある。

資料の限界。保存状態の限界。腐敗や死後変化の限界。検査法の限界。写真記録の限界。現場情報の限界。時間経過の限界。統計的な限界。鑑定人自身の判断の限界。

これらを示すことは、鑑定の価値を下げることではない。鑑定の射程を明らかにすることである。

この資料からはここまで言える。
この条件では、ここから先は言えない。
この前提が崩れれば、結論の重みは変わる。
この所見は、複数の説明を許す。

そう書くことで、鑑定は使えるものになる。

同じことは、「分からない」にも言える。

「分からない」とだけ書いて済ませると、そこで思考が止まる。重要なのは、何が分からないのかである。

主要な臓器に明らかな致死的病変がないのか。外傷はあるが致死性が不明なのか。薬毒物検査が未了なのか。腐敗が高度で評価が困難なのか。現場情報が不足しているのか。複数の可能性が残り、その優劣がつけられないのか。

同じ「不詳」でも、意味はまったく違う。

構造化された「分からない」は、司法にとって重要な情報になる。捜査にとっても、弁護にとっても、裁判所にとっても、次に何を確認すべきかが見える。

一方、空白としての「分からない」は、そこで思考を止める。

足る鑑定は、すべてに答える鑑定ではない。答えられない問いを、答えられない形のまま、きちんと置く鑑定である。

鑑定書には、結論だけではなく、結論の取扱説明書がいる。


記録と資料を、後から検証できる形にする

足る鑑定は、鑑定書の文章だけで完結しない。

写真、メモ、標本、検査資料、採取記録、保存状況、資料の来歴。これらが後から検証できる形で残っていなければ、鑑定は個人の記憶と権威に依存する。

まず、写真である。

写真は、鑑定書を見栄えよくするための飾りではない。後から所見を検証するための資料である。

写真があることと、検証できる写真があることは違う。

どの所見を示すための写真なのか。どの角度から撮ったのか。大きさが分かるようになっているのか。部位が分かるようになっているのか。全体像と近接像の両方があるのか。色調が判断できるのか。撮影条件による見え方の変化を考慮できるのか。

「写真を撮った」というだけでは足りない。

後から見た人が、その写真で何を確認できるのかが問題である。

たとえば、創の形状から成傷器の可能性を再検討できるか。色調や分布から、出血なのか死後変化なのかを再検討できるか。損傷の位置関係から、転倒、暴行、搬送、処置の影響を比較できるか。頸部の線状変化について、全体像と近接像の両方から走行や連続性を確認できるか。

近接写真だけでは、部位が分からないことがある。全体写真だけでは、細部が分からないことがある。スケールがなければ、大きさが分からない。撮影方向が不明なら、走行や位置関係が分かりにくい。

写真があるのに、検証できない。

これは珍しいことではない。

写真は撮ればよいのではない。後から問い直せるように撮られていなければならない。

メモも同じである。

鑑定書には、結論が書かれる。しかし、結論だけでは足りない。鑑定の途中で何を確認したのか。何を迷ったのか。どの所見を重く見たのか。どの可能性を捨てたのか。

そこに鑑定の道筋がある。

もちろん、鑑定人の頭の中をすべて書く必要はない。未整理な印象や、途中の仮説をそのまま並べればよいわけでもない。

しかし、結論に至るうえで重要な判断の跡は、残っていなければならない。

「外傷性変化として矛盾しない」と書くなら、なぜそう考えたのか。「病死の可能性が高い」と書くなら、どの病変をどの程度重く見たのか。「薬物中毒死として矛盾しない」と書くなら、濃度、分布、経過、他の死因との関係をどう見たのか。

それが見えなければ、鑑定は結論だけになる。

結論だけの鑑定は、使う側には便利である。
しかし、検証する側には不便である。

記録は、鑑定人を責めるためだけのものではない。鑑定人自身を守るためにもある。あとから疑問が出たとき、所見と記録に戻れるからである。自分が何を見て、なぜそう考えたのかを説明できるからである。必要であれば、どこを修正すべきかも分かるからである。

記録は、鑑定を科学として保つための足場である。


個人の記録から、制度の記録へ

ここまでは、鑑定人個人の記録や資料管理の話である。

しかし、記録が個人の手元に閉じていれば、結局は検証できない。足る鑑定を制度として考えるなら、資料の保存とアクセスの仕組みまで考えなければならない。

鑑定資料を無制限に公開すればよいという話ではない。個人情報、捜査情報、遺族感情、手続上の制約がある。資料管理の責任もある。

しかし、鑑定の妥当性が問われたときに、後から検証できる仕組みは必要である。

写真、図、メモ、標本、検査結果、採取記録、保存状況、鑑定に用いた資料の一覧。これらが、どこにあり、誰が管理し、どの手続で確認できるのか。

そこが曖昧なままでは、鑑定は個人の記憶と権威に依存する。

鑑定資料は、鑑定人の所有物ではない。
真実に近づくための共有可能な足場である。

この足場がなければ、セカンドオピニオンも、再鑑定も、反対尋問も、十分には機能しない。

その意味で、鑑定資料のデジタルアーカイブ化は避けて通れない。

写真、画像、検査結果、組織標本の情報、鑑定書、補助記録、資料の来歴。これらを、後から検索でき、確認でき、必要に応じて第三者が検証できる形で保存する。

もちろん、簡単ではない。

個人情報の問題がある。セキュリティの問題がある。アクセス権限の問題がある。保存形式や保存期間の問題もある。誰が管理するのか、どの機関が責任を持つのかも決めなければならない。

しかし、難しいからといって、紙のファイルと個人の記憶に依存し続けてよいわけではない。

鑑定は、時間が経ってから問題になることがある。裁判の途中で争点になることもある。再審で問われることもある。別の専門家が見直す必要が出ることもある。

そのとき、資料がない。写真がない。メモがない。標本がどこにあるか分からない。検査結果の原資料に戻れない。

これでは検証できない。

検証できない鑑定は、強い鑑定ではない。
ただ古くなった鑑定である。


他者の目を入れる

足る鑑定には、必要に応じて他者の目が入る仕組みも必要である。

もちろん、すべての鑑定を複数人で同じ密度で確認することは現実的ではない。人手も時間も限られている。

しかし、死因判断が争点になり得る事例、事件性判断に直結する事例、裁判で強く使われる可能性のある事例、鑑定人自身が迷った事例については、少なくとも別の専門家の目を入れる仕組みがあってよい。

これは鑑定人を疑うためだけではない。鑑定を強くするためである。

自分では当然と思っていた所見に、別の見方があるかもしれない。自分では弱いと思っていた所見が、別の専門家には重要に見えるかもしれない。表現が強すぎる、あるいは弱すぎると指摘されるかもしれない。反対仮説が抜けていることに気づくかもしれない。

意味のあるピアレビューにするには、形がいる。

単に「見ました」「問題ありません」では足りない。所見と解釈が分けられているか。写真と記載が対応しているか。反対仮説が検討されているか。言葉の強さが根拠に合っているか。限界が書かれているか。そうしたチェック項目があった方がよい。

同じ大学や同じ組織の中だけでは、遠慮が生まれることもある。上下関係もある。地域が狭ければ、人間関係も影響する。可能であれば、異なる大学、異なる地域、あるいは匿名化可能な範囲での外部レビューという形も考えられる。

完全な制度は難しい。
それでも、何もないよりはよい。

少なくとも、「自分一人が見た。だから正しい」という構造からは離れられる。

ピアレビューは、鑑定人の面子を傷つけるものではない。所見と解釈を、個人の頭の中から外へ出す手続である。

閉じた鑑定を、開いた鑑定にする手続である。

足る鑑定は、孤独な鑑定ではない。
必要なときに、他者の目を入れられる鑑定である。


鑑定書は、裁判の中を歩く

鑑定書は、解剖室の中だけで完結しない。

警察署の机の上を歩く。検察官の起案の中を歩く。弁護人の反論の中を歩く。裁判官の判決文の中を歩く。遺族や被告人の人生の中を歩く。

だから、鑑定人は、自分の言葉がどこまで歩いていくかを想像する必要がある。

この一文は、裁判で過剰に読まれないか。この表現は、犯人性を直接示すように誤解されないか。この数字は、前提を離れて独り歩きしないか。この「矛盾しない」は、「そうである」に変換されないか。この「可能性がある」は、「可能性が高い」と読まれないか。

鑑定人の意図と、司法の中での使われ方は必ずしも一致しない。

だから、鑑定書には取扱説明書がいる。

この結果は何を示すのか。何を示さないのか。どの前提に依存しているのか。どの情報があれば結論が変わり得るのか。犯人性、故意、法的責任について、医学的にはどこまで言えるのか。

そこが書かれていれば、鑑定は誤用されにくくなる。

足る鑑定は、一人歩きしないように杖を持たせた鑑定である。

その杖が、前提であり、限界であり、反対仮説であり、資料の来歴である。


止まれる鑑定

足る鑑定とは、止まれる鑑定である。

これは、鑑定を途中で投げ出すという意味ではない。新しい資料、反対所見、別の専門家の指摘、裁判での疑問に出会ったとき、必要なら自分の判断を見直せるという意味である。

止まれない鑑定は、強く見える。

断定する。迷わない。裁判で通る。権威がある。周囲も従う。

しかし、止まれない鑑定は危うい。間違っていても進み続けるからである。

止まれる鑑定は、一見弱く見える。
しかし、本当は強い。

なぜなら、所見と解釈と結論が分けられているからである。記録が残っているからである。限界が書かれているからである。反対仮説が検討されているからである。どこを見直せばよいのかが分かるからである。

鑑定は、止まってはいけないものではない。
止まるべきところで止まれなければならない。

そのためには、鑑定書の中にブレーキが必要である。

前提。限界。反対仮説。資料の来歴。検証可能な記録。所見と解釈の区別。

これらは、鑑定を弱くするものではない。

鑑定を暴走させないためのブレーキである。


足る鑑定

足る鑑定とは何か。

それは、すべてを言い切る鑑定ではない。すべてを曖昧にする鑑定でもない。

見るべきものを見逃さない鑑定である。見たものを読み過ぎない鑑定である。所見と解釈を分ける鑑定である。反対仮説を検討する鑑定である。限界を書く鑑定である。資料を閉じない鑑定である。疑われても検証できる鑑定である。必要なときに止まれる鑑定である。

足らざる鑑定は、見逃しによって社会に不利益をもたらす。過ぎたる鑑定は、読み過ぎによって社会に不利益をもたらす。

足る鑑定は、そのどちらでもない。

所見から言えることを言う。
所見から言えないことは言わない。
しかし、言えない理由と、残された疑問は書く。

それだけのことのように見える。

しかし、それが難しい。

だからこそ、鑑定は個人の力量だけに任せてはいけない。検証できる記録、開かれた資料管理、ピアレビュー、反対仮説、限界表示、そして裁判での正しい読み方。それらがそろって初めて、鑑定は社会の中で過不足なく働く。

鑑定は、鑑定人が勝つための文章ではない。警察や検察の物語を補強するためだけの文章でもない。弁護人を黙らせるための文章でもない。裁判所を楽にするための文章でもない。

社会が、死者の身体から事実に近づくための道具である。


置き場所

98.5%という数字には、置き場所が必要だった。

「見た」という所見にも、置き場所が必要だった。

裁判で「通った」という事実にも、置き場所が必要だった。

そして、鑑定そのものにも、置き場所が必要である。

それは、権威の上ではない。面子の上でもない。捜査の物語の上でもない。裁判で通ったという自信の上でもない。

所見、記録、論理、限界、反対仮説、検証可能性の上である。

そこに置かれた鑑定だけが、足る鑑定になる。

鑑定は、死者のためにある。同時に、生きている人を誤って裁かないためにもある。

疑われても、所見に戻れること。
記録に戻れること。
限界に戻れること。
必要なら、立ち止まれること。

その地味な強さが、鑑定を真実への道具にする。

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