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裸の王様としての鑑定 ー疑問を持たれながら、なぜ止まらないのかー

前回、私は「見た」は絶対ではない、と書いた。

所見は、遺体そのものではない。遺体に残された変化を、人間が見て、選び、名前をつけ、記録したものである。だから、所見も間違い得る。その上に乗る解釈も間違い得る。

本来であれば、所見も解釈も、記録され、検証され、必要なら修正されなければならない。

しかし、現実にはそう簡単ではない。

所見が怪しい。解釈も怪しい。鑑定人本人も修正しない。では、周囲が止めればよいではないか。そう思うかもしれない。

けれども、その「周囲」も、法医学の細部を自力で検証できるとは限らない。警察も、検察も、弁護士も、裁判所も、それぞれの専門家ではある。しかし、法医学者ではない。

そこに、肩書きが乗る。大学名がある。教授職がある。長年の実績がある。さらに、地方では他に頼める人が少ない。

こうして、疑問のある鑑定が、疑問を持たれながらも止まらずに歩いていくことがある。

裸の王様のように。


疑問を持っていないわけではない

まず確認しておきたいのは、周囲が鑑定を何の疑問もなく受け入れているわけではない、ということである。

警察も、検察も、弁護士も、裁判所も、鑑定人の言うことに違和感を持つことはある。この所見は本当にそう読めるのか。この解釈は少し強すぎないか。この結論は、資料から本当に出てくるのか。この鑑定人は、自分の見立てに固執していないか。別の法医学者なら、違う意見になるのではないか。

そう感じる場面は、決して珍しくない。

むしろ、鑑定人の意見に疑問を持ち、別の専門家に意見を求めることは少なくない。写真や資料を見せて、「これは本当にそう言えるのか」「この表現は強すぎないか」「別の見方はないか」と確認する。正式な鑑定ではなく、相談として聞く。公判に出す予定はなくても、内心の不安を確かめるために意見を求める。

これは、ある意味では健全である。一つの鑑定を絶対視せず、別の専門家の目を入れようとしているからである。鑑定人の言葉を、そのまま丸呑みしていないということでもある。

問題は、疑問を持たないことではない。

問題は、その疑問が、正式な検証に乗らないことである。

「おかしい気がする」「別の先生も少し違うと言っていた」「やはり強すぎるかもしれない」。そうした違和感があっても、それが記録に残らない。正式な意見書にならない。争点にならない。反対尋問の軸にならない。判決文にも現れない。

すると、司法の表舞台では、最初の鑑定だけが立っているように見える。

内側では疑われている。裏では別意見も聞かれている。しかし、表では権威ある鑑定として扱われる。

裸であることに誰も気づいていないのではない。気づいている人はいる。場合によっては、別の人にも確認している。

それでも、正式な手続の上では、王様は服を着ていることになる。


専門家でない者が、専門家を評価する難しさ

司法は専門知に依存する。これは避けられない。

死因、損傷、薬毒物、DNA、画像、精神鑑定、交通事故解析。裁判の中には、法律家だけでは判断できない領域がいくつもある。法医学鑑定もその一つである。

問題は、専門家でない者が、専門家の鑑定をどう評価するのか、という点にある。

もちろん、法律家にもできることはある。鑑定書の論理が飛んでいないか。前提が示されているか。資料と結論が対応しているか。説明が一貫しているか。別の証拠と矛盾しないか。反対尋問で説明が変わらないか。こうした点は問うことができる。

しかし、所見そのものの妥当性となると、話は変わる。

この色調を出血としてよいのか。死後変化と見るべきなのか。皮下出血の有無はどの程度確かか。生活反応と評価できるのか。頸部内部所見が乏しいとき、外表の変化をどこまで重く見てよいのか。薬物濃度があるとき、死因との関係をどこまで言えるのか。

これらは、専門家でなければ評価しにくい。

その結果、鑑定の中身そのものではなく、別のものが信頼性の代用品になる。

旧帝大だから。有名大学だから。教授だから。昔から鑑定をしているから。この地域ではその人しかいないから。他に頼める人がいないから。

これは「良い先生」と思っているというより、ほかに判断材料が乏しいのである。

しかし、この構造は危うい。

肩書きは、鑑定の正しさを保証しない。大学名も、教授職も、長年の実績も、所見の正しさや解釈の妥当性を自動的に保証するものではない。

正しい鑑定とは、肩書きのある鑑定ではない。

検証に耐える鑑定である。


弁護側にも限界がある

ここで、弁護側の問題にも触れておかなければならない。

鑑定に疑問を持ったとしても、弁護側が別の専門家に正式な意見を求めることは簡単ではない。

費用がかかる。時間がかかる。資料の入手に限界がある。協力してくれる専門家を探す必要がある。そもそも、法医学者の数が少ない。依頼したくても、引き受けてもらえないこともある。刑事事件であれば、被告人側に十分な資源があるとは限らない。

だから、弁護人が鑑定に違和感を持っても、それを正式な反論にまで育てられないことがある。

これは弁護人個人の怠慢というより、制度の制約であることが多い。

しかし、制度の制約だから仕方がない、とだけ言って終わるわけにもいかない。

鑑定に疑問があるのに、専門家を確保できない。専門家を確保できないから、所見の誤りや解釈の飛躍を争点化できない。争点化できないから、裁判では最初の鑑定が強く見える。

この流れが続けば、裸の王様はさらに歩きやすくなる。

警察や検察だけが鑑定を強くしているのではない。弁護側が専門的反論を出せないことも、結果として鑑定を強くする。裁判所が専門的な問題を十分に掘り下げられないことも、鑑定を強くする。

誰か一人の悪意ではない。

それぞれの立場に限界があり、その限界が積み重なったところに、疑問のある鑑定が残る。

ここを見なければならない。


「ほかにいない」が鑑定を強くする

地方では、法医学者の数が限られている。

解剖できる施設も限られる。再鑑定を頼める人も多くない。写真や資料を見て意見を言ってくれる人がいても、正式な意見書や再鑑定まで引き受けられるとは限らない。地域の事件であれば、人間関係や距離の近さもある。

この「ほかにいない」という状況は、鑑定を必要以上に強くする。

本来、鑑定が強いのは、中身が強いからでなければならない。所見が記録されている。解釈の道筋が示されている。限界が書かれている。反対仮説が検討されている。後から検証できる。だから強い。

しかし、現実には別の強さが生まれることがある。

他に見る人がいない。反対意見を出せる人がいない。再鑑定を引き受ける人がいない。所見や解釈の妥当性を比較できる人がいない。

この空白の中では、最初の鑑定がそのまま事実のように扱われやすい。それが正しいからではない。置き換えるものがないからである。

鑑定が強いというより、検証する側の選択肢が乏しいのである。

専門性を評価できない。代替意見を得られない。比較できない。だから、肩書きと希少性に寄りかかる。その結果、所見が間違っていても、解釈が間違っていても、止まりにくい。

これは鑑定人個人だけの問題ではない。制度の問題であり、人材の問題であり、地方の法医学体制の問題である。

だからこそ、地方で鑑定を担う者は、自分の言葉が過剰に重くなることを自覚しておかなければならない。

「自分しかいない」は、誇りにもなる。しかし同時に、危険にもなる。


セカンドオピニオンは、制度の外で揺れている

鑑定人の意見に疑問が生じたとき、別の法医学者にセカンドオピニオンを求めることは少なくない。

写真や資料を見せて、「これは本当にそう言えるのか」と尋ねる。「この所見から、そこまで断定できるのか」と確認する。「別の可能性は残らないのか」と聞く。「この鑑定書の表現は強すぎないか」と相談する。

それは、正式な再鑑定ではないことも多い。意見書として提出されるわけでもない。電話やメール、面談、資料の一部確認という形で行われることもある。

これは現場の知恵である。

一つの鑑定に疑問を持ち、別の専門家の目を入れようとすること自体は健全である。専門家の言葉を絶対視しない態度でもある。

しかし、そこに限界がある。

非公式なセカンドオピニオンは、疑問を確認することはできる。しかし、それだけでは正式な検証にはならない。表に出ない。記録に残らない。正式な争点にならない。鑑定書の中にも、判決文の中にも現れない。

その結果、司法の表舞台では、最初の鑑定だけが立っているように見える。

内側では疑われている。裏では別意見も聞かれている。しかし、表では最初の鑑定がそのまま歩いていく。

問題は、非公式に聞くことではない。問題は、その疑問が重要であるにもかかわらず、正式な検証に接続されないことである。

どの所見に疑問があるのか。どの解釈が過剰なのか。どの可能性が残るのか。最初の鑑定と、どこが一致し、どこが異なるのか。その違いは、結論にどの程度影響するのか。

そこまで記録されなければ、司法の中で検証できない。

疑問を持つ人はいる。セカンドオピニオンを求める人もいる。しかし、それが制度の外で処理されるだけなら、表の手続では最初の鑑定が残り続ける。

裸の王様の問題は、誰も裸に気づかないことではない。

気づいていても、正式には服を脱がせられないことである。


閉じた鑑定と、裸の王様

さらに難しいのは、セカンドオピニオンを求められたとき、鑑定人本人が不快感を示すことがある点である。

自分の鑑定を疑われた。自分の所見を否定された。自分の経験や権威に傷をつけられた。自分を飛ばして、別の専門家に聞かれた。そう受け取ることがある。

気持ちは分からなくはない。鑑定人も人間である。自分が時間をかけて見た所見、書いた鑑定書、法廷で述べた意見について、別の専門家に確認されれば、面白くないと感じることはあるだろう。

しかし、ここを面子の問題にしてはいけない。

セカンドオピニオンは、鑑定人を侮辱するためにあるのではない。鑑定を検証するためにある。

所見は間違い得る。解釈も間違い得る。だから、別の目を入れる。それだけのことである。

ところが、鑑定人がそれを「攻撃」と受け取ると、検証は急に難しくなる。

追加の写真が出てこない。解剖時のメモが出てこない。標本や検査資料の所在が曖昧になる。どの資料を見て、どの所見を取ったのかが分かりにくい。「鑑定書に書いた通りです」とだけ返ってくる。

もちろん、資料管理上の制約や、守秘、手続上の問題がある場合もある。資料が無制限に出せるわけではないことも理解している。

しかし、鑑定の妥当性が問われている場面で、追加資料の提供に消極的になり、所見に至る道筋が見えにくくなるなら、それは検証にとって大きな障害になる。

別の専門家が見ようとしても、見るべき資料がない。検証しようとしても、検証材料が足りない。最初の鑑定の妥当性を確認しようとしても、所見に至る道筋が閉じられている。

これが、閉じた鑑定である。

閉じた鑑定は、疑われても検証できない。検証できなければ、誤りがあっても修正できない。

鑑定資料は、鑑定人の面子を守るためのものではない。検証のためのものである。写真、記録、メモ、標本、検査結果、資料の来歴。これらは、鑑定人の自尊心を守るために閉じ込めてよいものではない。

本当に強い鑑定なら、記録に戻れるはずである。所見と解釈を分けて説明できるはずである。別の専門家に見られても、どこまで言えるかを示せるはずである。

逆に、資料を出さないことでしか守れない鑑定は、強い鑑定ではない。

閉じた鑑定である。

そして、閉じた鑑定は、裸の王様をさらに歩かせる。

服を確認しようとする人はいる。けれども、衣装部屋の鍵が開かない。

しかし、その鍵を閉じているのは、鑑定人本人だけとは限らない。

捜査は早く答えを必要とする。検察は立証の柱を必要とする。弁護側は専門的反論を用意するだけの資料や費用や時間を十分に持てないことがある。裁判所は、提出された証拠と主張の範囲で判断する。

誰か一人が悪意をもって扉を閉めているわけではない。

しかし、それぞれの事情が重なると、扉は開きにくくなる。

裸の王様は、特定の鑑定人だけを指しているのではない。むしろ、鑑定を取り巻く構造そのものを指している。

鑑定人本人は、自分の所見と解釈を信じている。警察は、その鑑定を捜査の流れの中で使いたい。検察は、立証の柱として扱いたい。弁護人は、疑問を持っても専門的に崩せるだけの材料を持てないことがある。裁判所は、提出された証拠と主張の範囲で判断する。

誰か一人が悪意を持っているわけではない。誰か一人が嘘をついているわけでもない。

それでも、危うい鑑定が止まらないことがある。

なぜなら、それぞれが少しずつ制度の中で動いているからである。警察は事件を解明しようとする。検察は立証しようとする。弁護人は反論しようとする。裁判所は判断しようとする。鑑定人は専門家として答えようとする。

しかし、その過程で、所見の誤りや解釈の飛躍が、正面から検証されないまま残ることがある。

裸の王様の怖さは、誰も見ていないことではない。

皆が見ているのに、見たものを正式な言葉にできないことである。

そして、見たものを言葉にしようとしても、必要な資料に届かないことがあることである。

これでは、王様は止まらない。


裁判で通ったことと、科学的に正しいことは違う

鑑定人をさらに修正不能にするものがある。

裁判である。

自分の鑑定が裁判で採用される。判決の中で引用される。有罪認定や事実認定の根拠として使われる。反対尋問を乗り切る。裁判所が、自分の鑑定を信用できるものとして扱う。

すると、鑑定人はこう思いやすい。

「裁判で認められた」「私の鑑定は正しかった」「反対意見は退けられた」「司法が私の判断を支持した」。

しかし、ここに大きな落とし穴がある。

裁判で認められることと、科学的に正しいことは同じではない。

裁判所は、法医学の専門家ではない。検察官も、弁護人も、多くの場合、法医学の専門家ではない。彼らは法的な判断の専門家であり、医学的所見そのものを自力で完全に検証できるわけではない。

これは裁判所が科学を軽視しているという話ではない。裁判は、提出された証拠と主張の範囲で判断する制度である。だから、医学的な疑問が手続の中で十分に言語化されていなければ、その疑問は判断の中心に上がってこない。

裁判で鑑定が採用されるということは、その裁判の証拠構造の中で信用性があると判断されたという意味である。それは、その鑑定が科学的に完全であると証明されたという意味ではない。

しかも、その判断は、相手方の反論能力にも左右される。

弁護側に専門家がいなければ、所見の誤りは争われない。検察側が法医学的限界を理解していなければ、過剰な表現がそのまま残る。裁判所が専門的な飛躍に気づかなければ、鑑定は強く評価される。反対尋問が所見の核心に届かなければ、鑑定人は揺らがないように見える。

法医学の非専門家による反対尋問で崩れなかったことを、科学的検証に耐えたことと同一視してはいけない。

裁判で通ったことを、自然現象が認めたと考えてはいけない。

裁判は、科学の最終審級ではない。

判決文に書かれたからといって、遺体所見が正しくなるわけではない。反対尋問を乗り切ったからといって、解釈の飛躍が消えるわけではない。裁判所が採用したからといって、後から別の資料や別の専門家によって見直されないわけではない。

裁判で採用されたことで、自信を深めること自体は自然である。だが、その自信が「自分の所見は間違いなかった」「自分の解釈は完全に正しかった」「異論を言う者は分かっていない」という方向へ進むと危ない。

裁判で争点にならなかっただけかもしれない。相手方に専門家がいなかっただけかもしれない。写真や記録が十分に開示されていなかっただけかもしれない。裁判所が、法医学的な飛躍を見抜けなかっただけかもしれない。

ここを取り違えると、鑑定人は次の鑑定でも同じことを繰り返す。

所見を疑わない。解釈を疑わない。表現を疑わない。相手が分からなければ、自分が正しいと思う。裁判で通れば、科学的に正しかったと思う。

こうして、修正不能な鑑定人ができあがる。

司法が鑑定を採用することは、鑑定人に免罪符を与えることではない。まして、所見や解釈の絶対的正しさを保証するものでもない。

鑑定人が持つべきなのは、裁判に勝った自信ではない。

科学的に検証されても残るかどうか、という緊張感である。


「ほかにいない」場所で書くということ

地方で法医学をしていると、「ほかにいない」という言葉の重さを感じることがある。

それは、頼られているという意味でもある。しかし同時に、危険でもある。ほかにいないからこそ、自分の一文が必要以上に重くなる。ほかにいないからこそ、所見も解釈も、後から検証できる形で残さなければならない。

鑑定書の一文は、思ったより遠くまで歩いていく。警察署の机の上だけではない。検察官の起案の中を歩く。弁護人の反論の中を歩く。裁判官の判決文の中を歩く。遺族や被告人の人生の中を歩く。

しかも、その一文は、ときに帰ってこない。

だからこそ、鑑定人は自分の言葉を軽く扱ってはいけない。自分の所見を絶対視してはいけない。裁判で通ったことを、科学的に正しかったことと取り違えてはいけない。

白衣は、迷いを消してくれる服ではない。むしろ、迷いを隠しやすくする服でもある。

そのことを忘れたとき、鑑定は裸の王様になる。

立派な肩書きがある。大学名がある。鑑定書の形をしている。裁判で採用されている。だから、服を着ているように見える。

しかし、本当に必要なのは、その衣装ではない。

所見である。記録である。論理である。限界である。反対仮説である。後から検証できる道筋である。

それがなければ、どれほど立派な肩書きがあっても、鑑定は危うい。


「通った」も、絶対ではない

ここまで、数字の置き場所、所見の置き場所、そして鑑定が止まらない構造について考えてきた。

第1回で、私は数字には置き場所があると書いた。第2回で、「見た」は絶対ではないと書いた。

今回は、さらにこう書きたい。

「通った」も、絶対ではない。

裁判で通っても、科学的に正しいとは限らない。権威があっても、所見が正しいとは限らない。ほかに人がいなくても、その鑑定が検証不要になるわけではない。

鑑定は、疑われることで弱くなるのではない。

疑われても検証できることで、強くなる。


次に考えたいこと

では、疑われても検証できる鑑定とは何か。

足らざる鑑定は、見逃しの鑑定である。過ぎたる鑑定は、読み過ぎの鑑定である。その間で、何を見て、何を言い、何を言わないのか。

次に考えたいのは、足る鑑定である。

ただし、それは「謙虚でありましょう」「慎重でありましょう」という精神論では足りない。

所見と解釈を峻別すること。写真、メモ、標本、検査資料を後から検証できる形で保存すること。鑑定資料をデジタルアーカイブ化すること。鑑定人同士のピアレビューを制度として組み込むこと。反対仮説と限界を鑑定書の中に明示すること。

足る鑑定とは、気持ちの問題ではない。

検証できる形の問題である。

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