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「見た」は絶対ではない ー所見も解釈も間違い得るー

前回、私は弘前大学教授夫人殺害事件を素材に、98.5%という数字の置き場所について書いた。

数字は強い。しかし、数字だけでは真実にならない。その数字が、どの問いに対するものなのか。どの前提の上に立っているのか。どこまでを説明し、どこから先を説明しないのか。そこを見失えば、科学的な数字は、真実に近づく道具ではなく、誤りを固める道具になる。

数字の前には、前提がある。そして、その前提のさらに前には、所見がある。

私は地方で法医学をしている。地方では、法医学者の数が多いわけではない。解剖できる施設も、鑑定を担う人も、再鑑定を引き受ける人も、都会ほど潤沢ではない。その中で、鑑定書の一文は思ったより重くなる。

亡くなった人には、暮らしていた町がある。家族がいる。近所がある。警察官がいる。救急隊がいる。ときには、地域全体の空気がある。その中で、「外傷性死亡と考える」「窒息死として矛盾しない」「第三者による加害を疑う」「病死の可能性が高い」「本鑑定のみからは断定できない」という一文が、誰かの人生に触れる。

だから、私は「所見」という言葉を軽く扱えない。

前回、私は法医鑑定には二つの危うさがあると書いた。足らざる鑑定と、過ぎたる鑑定である。足らざる鑑定とは、単に文章が短い鑑定ではない。所見から言えるはずのことを言えていない鑑定である。見るべき所見を見逃し、考えるべき可能性を拾い上げず、専門家として示すべき判断を残してしまう鑑定である。

過ぎたる鑑定とは、反対に、所見から言える範囲を越えてしまう鑑定である。所見がそこまで語っていないのに、断定し、飛躍し、犯人性や故意や法的責任に近づきすぎる鑑定である。足らざる鑑定は、所見を読み足りない。過ぎたる鑑定は、所見を読み過ぎる。

では、その所見そのものは、本当に揺るがないのか。

今回考えたいのは、そこだ。所見も間違い得る。そして、その上に乗る解釈も間違い得る。


所見は、遺体そのものではない

法医学では、「所見」という言葉をよく使う。外表所見、内部所見、損傷所見、病変所見、薬毒物検査所見、組織所見。この言葉は、とても落ち着いている。いかにも客観的に見える。

「所見がある」「所見がない」「この所見から考える」「所見として矛盾しない」。こう書くと、そこには揺るがない事実が置かれているように見える。

もちろん、遺体に残された変化そのものは、そこにある。損傷、出血、変色、臓器の変化、骨折、薬物の検出、腐敗。これらは、鑑定人の気分で存在したり消えたりするものではない。

しかし、それを「所見」として取り出すのは人間である。何を見るか、どこまで見るか、何を重要と考えるか、どの言葉で記載するか。損傷と見るか死後変化と見るか、出血と見るか変色と見るか、生活反応の有無をどう評価するか、新しい変化と見るか古い変化と見るか、死亡に関係する所見と見るか偶然の併存所見と見るか――その時点で、すでに判断が入っている。

所見とは、遺体そのものではない。遺体に残された変化を、人間が医学的な言葉に置き換えたものである。

ここを忘れると危ない。「私は見た。だから、それは事実である」。この距離が、あまりに短くなる。しかし、本当は違う。見たものがある。それをどう見たかがある。どう記録したかがある。どう解釈したかがある。その間には、いくつもの段差がある。

目はカメラではない。白衣を着ても、目玉がレンズになるわけではない。

鑑定人は、見ている。しかし、ただ写しているのではない。見て、選んで、名づけて、記録している。だからこそ、所見は検証されなければならない。


名前をつける境界線

法医学の所見では、名前をつけること自体が難しい場面がある。

たとえば、頸部に線状の変化があるとする。それを索溝として読むのか。衣服の襟や皮膚のしわによる圧痕として読むのか。あるいは死後変化や体位、搬送、処置の影響として考えるべきなのか。そこには、色調、走行、深さ、連続性、周囲の損傷、皮下出血の有無、頸部内部の所見など、いくつもの要素が関わる。

「首に線がある」だけでは、所見にならない。その線を何と呼ぶのか。その線にどの程度の意味を与えるのか。そこですでに判断が始まっている。

あるいは、頭蓋内に出血があるとする。それを外力による出血として読むのか、転倒や打撲と関連づけるのか、脳動脈瘤破裂などの病変由来として考えるのか、外傷と病変の両方が関わる可能性を残すのか。これも、出血の部位や分布、頭皮・頭蓋骨・脳表の損傷、既往、発症経過、画像、組織所見などを合わせて考えなければならない。

「頭蓋内出血がある」だけでは、まだ結論ではない。その出血をどう位置づけるかが問題になる。

同じように、肋骨骨折があるとき、それを生前の外力と読むのか、蘇生処置に伴う変化として読むのか。皮下出血を生活反応と見るのか、死後変化やうっ血、腐敗の影響と見るのか。薬物が検出されたとき、それを死因に関係する濃度として読むのか、背景的な検出として扱うのか。

こうした境界線は、きれいに線を引けるものばかりではない。だからこそ、鑑定人は迷う。迷うべきところで迷わなければならない。迷いを隠して断定すれば過ぎたる鑑定になる。迷ったふりをして検討を放棄すれば足らざる鑑定になる。

所見の名前は、単なるラベルではない。その後の推論の向きを決める。だから、最初の名づけを誤ると、次の解釈も誤りやすくなる。そして、いったん解釈ができあがると、今度はその解釈が所見の読み方を固定してしまう。

見間違いが、誤解釈を生む。誤解釈が、さらに見間違いを補強する。こうして、鑑定は内側から閉じていく。


見落としは起こる

所見の誤りで、まず分かりやすいのは見落としである。

見るべき損傷を見ていない。拾うべき出血を拾っていない。問題にすべき変色を問題にしていない。重要な病変を、背景所見として流してしまう。薬毒物の可能性を、最初から十分に考えていない。現場情報と遺体所見のずれを、ずれとして立てていない。

見落としは、派手ではない。何かを大きく間違って書くわけではない。強い断定をするわけでもない。紙の上には、むしろ静かな鑑定書が残る。

しかし、見落とされた所見は、その後の手続きから消えやすい。鑑定人が拾わなかった異常は、警察も見逃すかもしれない。検察も争点にしないかもしれない。弁護人も気づかないかもしれない。裁判所も、存在しなかったものとして扱うかもしれない。

これが、足らざる鑑定である。

足らざる鑑定は、慎重な鑑定ではない。見逃しの鑑定である。もちろん、すべてを断定すべきだという話ではない。分からないことは、分からないと書くべきである。

しかし、分からないと書く前に、見なければならないものがある。見ていない。拾っていない。検討していない。その結果として「分からない」と書くなら、それは慎重さではない。見逃しを、慎重さの言葉で包んでいるだけである。


所見が正しくても、解釈は間違い得る

さらに難しいのは、所見が正しくても、解釈を誤ることがあるという点である。所見を正しく拾っている。記載も大きく間違っていない。写真も残っている。検査結果も出ている。それでも、解釈は間違い得る。

その損傷は、何によって生じたのか。生前に生じたのか、死後に生じたのか。死亡にどの程度関係するのか。事故で説明できるのか。他者の関与を示すのか。病死として矛盾しないのか。薬毒物の影響をどう考えるのか。現場状況とどこまで整合するのか。

ここには、所見そのものとは別の推論が入る。

所見は材料である。解釈は、その材料から組み立てる考えである。材料が正しくても、組み立てを誤ることはある。まして、材料そのものが不正確なら、その上に乗る解釈はさらに危うい。

土台が傾いていれば、上に建てる理屈も傾く。

それでも本人が、「所見は間違いない」「この解釈で間違いない」「自分は何例も見ている」「これは常識だ」「異論を言う方が分かっていない」と考えてしまえば、鑑定は修正不能になる。

所見も間違う。解釈も間違う。しかし、本人は間違いを認めない。これほど危ないものはない。

なぜなら、外から見ると、その鑑定は一見もっともらしく見えるからである。所見が書かれている。専門用語が並んでいる。写真もある。経験に基づく説明もある。結論も明快である。

しかし、その中身は、誤った所見と誤った解釈が互いに補強し合っていることがある。そうなると、鑑定は科学ではなくなる。科学の形をした自己確信になる。


「所見は客観的」という落とし穴

「所見は客観的で、解釈は主観的である」。そう言いたくなることがある。

たしかに、解釈より所見の方が客観性に近い。それはその通りである。しかし、「所見は客観的である」という言い方が強くなりすぎると、別の危険が生まれる。

所見も、観察されたものである。記載されたものである。人間が言葉にしたものである。完全に生の事実そのものではない。

「所見は客観的だから争う余地はない」「解釈は違ってもよいが、所見は確定している」「私が見たのだから、そこは間違いない」。こう考えると、所見は検証対象ではなくなる。

そして、検証対象でなくなった所見は、非常に危ない。

本来、所見は問い直されてよい。写真と記載は一致しているか。図示は十分か。大きさ、部位、色調、形状は記録されているか。他の所見との関係はどうか。検査結果と矛盾しないか。現場情報と合っているか。別の専門家が見ても同じ所見になるか。後から検証できる形で残されているか。

こうした問いにさらされて初めて、所見は強くなる。

所見を疑うことは、所見を軽く見ることではない。むしろ、所見を大切にするために疑うのである。

「私は見た」で終わらせてはいけない。「どのように見たのか」「何を根拠にそう記載したのか」「後から検証できるのか」。そこまで残して、初めて所見は鑑定の土台になる。


最初に入った情報は、見え方を変える

所見が間違い得る理由の一つに、文脈情報の影響がある。鑑定人は、何もない空白の中で遺体を見るわけではない。多くの場合、解剖の前に、一定の情報が入ってくる。

発見状況。現場の様子。家族や関係者の供述。救急搬送時の経過。警察の見立て。事件性の有無。疑われている人物。想定されている死亡機序。

こうした情報は必要である。現場情報なしに、法医学鑑定は成り立たない。遺体所見だけを見て、すべてを判断できるわけではない。

しかし、情報は薬にも毒にもなる。最初に聞いた話は、頭の中で錨になる。これは事件性が高い。これは自殺らしい。これは事故として扱われている。これは虐待が疑われている。警察はこの人物を疑っている。現場ではこういう説明になっている。そうした枠組みが、所見の見え方に影響する。

自分では中立に見ているつもりでも、最初に聞いた話に合う所見は目に入りやすくなる。逆に、それに合わない所見は、例外として処理されやすくなる。

これは単なる性格の問題ではない。心理学や法科学の領域では、最初に与えられた情報が判断に影響すること、いったん持った仮説に合う情報を拾いやすくなること、事件情報や容疑者情報などの文脈が専門家の判断にも影響し得ることが指摘されている。

未熟な人だけが陥る罠ではない。経験のある専門家でも起こり得る。

だから必要なのは、情報を遮断することではない。遺体所見から言えること、検査結果から言えること、現場情報を加えると考えられること、警察の見立てに依存している部分、そして、それらを除いたときにも残る医学的判断。これらを分けて書くことである。

警察の見立てを、医学的所見のように扱ってはいけない。現場の物語を、解剖所見の結論にすり替えてはいけない。捜査上の疑いを、法医学的確信のように書いてはいけない。

鑑定人に必要なのは、警察に逆らうことではなく、その物語に同化しないことだ。協力と、同化は違う。


所見と自尊心が結びつくと、鑑定は止まる

鑑定人にとって、自分が取った所見を疑われることは、気持ちのよいものではない。「本当にそう見たのか」「写真では違って見える」「その記載では不足している」「別の見方もあるのではないか」「その所見から、その解釈までは飛び過ぎではないか」。こう問われると、誰でも少し身構える。

身構えること自体は自然である。問題は、所見と自尊心が一体化してしまうことである。

「私が見た」「だから正しい」「疑う方が分かっていない」「異論は攻撃である」「修正は敗北である」。こうなると、鑑定は止まる。

本来、所見は検証されるべきものである。解釈は吟味されるべきものである。結論は反証にさらされるべきものである。しかし、それらが鑑定人の自尊心と結びつくと、検証は攻撃に見える。吟味は侮辱に見える。反証は敵意に見える。

その時点で、鑑定は科学ではなくなる。自己防衛になる。

鑑定人が本当に恐れなければならないのは、間違えることではない。間違えた可能性を認められなくなることである。間違いは、修正できる。見落としも、指摘されれば拾い直せる。表現の過不足も、検討すれば直せる。

しかし、本人が「自分の所見は絶対に正しい」と信じ込んでいれば、何も修正されない。資料を見ているのに、資料から学ばない。所見を読んでいるのに、所見によって自分を変えない。反証に触れているのに、反証として扱わない。

鑑定は、最初の見立てを守る仕事ではない。資料に従って、自分の判断を更新する仕事である。


記録は、自分を疑うために残す

鑑定記録は、他人に見せるためだけにあるのではない。自分を疑うためにもある。

写真を残す。図を残す。計測値を残す。色調を書く。部位を書く。大きさを書く。形状を書く。採取の経過を書く。保存状況を書く。検査の限界を書く。これらは、形式的な作業ではない。

後から所見を検証するための手がかりである。自分の見方が正しかったかを問い直すための足場である。別の専門家が、同じ資料から同じ結論に至るかを確かめるための道筋である。

記録がなければ、検証できない。検証できなければ、所見は権威に近づく。

「私は見た」「私はそう判断した」「私はそう記載した」。それだけでは、科学として弱い。科学であるためには、他者が見直せなければならない。後からたどれなければならない。別の可能性を検討できなければならない。

鑑定書は、結論を置く場所ではない。結論に至る道筋を残す場所である。これは前回も書いた。しかし、その道筋は、解釈の道筋だけではない。所見に至る道筋でもある。

何を、どのように見たのか。どこを、どのように記録したのか。なぜ、それを損傷としたのか。なぜ、それを死後変化としたのか。なぜ、それを死亡に関係すると考えたのか。なぜ、それを重要でないと判断したのか。

そこまで残して初めて、鑑定は後から検証できる。所見は、鑑定の土台である。土台が見えなければ、上に立つ結論の強さも分からない。


「分からない」と書く前に

法医学において、「分からない」と言うことは大切である。分からないことを分かったように書く鑑定は危険である。所見が足りないのに断定する鑑定は、科学ではない。

しかし、「分からない」は便利な言葉でもある。

本当は見るべきところを見ていないとき。本当は拾うべき所見を拾っていないとき。本当は検討すべき可能性を検討していないとき。本当は記録すべきことを記録していないとき。そのすべてを、「分からない」という言葉で包むことができてしまう。

これは慎重さではない。鑑定の不足である。

たとえば、「頸部の線状変化について、索溝とは断定できない」と書くこと自体はあり得る。しかし、その場合には、何が索溝らしく、何が索溝として弱いのかを書かなければならない。色調、走行、連続性、深さ、周辺損傷、皮下出血、頸部内部所見、衣服や体位との関係。そうした検討なしに「断定できない」とだけ書けば、それは限界表示ではなく、判断の空白になる。

頭蓋内出血についても同じである。外傷として読むには何が足りないのか。病変由来として考える根拠は何か。外力と病変の両方が関わる可能性はあるのか。画像、解剖所見、組織所見、既往、発症経過のどこに限界があるのか。そこを書かずに「不詳」とだけ置けば、読者は何が本当に問題だったのか分からない。

「分からない」と書くなら、何が分からないのかを書かなければならない。なぜ分からないのかを書かなければならない。何を見たのかを書かなければならない。何を確認できなかったのかを書かなければならない。何があれば判断が変わり得るのかを書かなければならない。どの可能性が残るのかを書かなければならない。

そうして初めて、「分からない」は意味を持つ。

単なる空白としての「分からない」は、社会の役には立たない。しかし、構造化された「分からない」は、司法にとって重要な情報になる。

鑑定人の仕事は、すべてに答えることではない。しかし、問いの形を整えることはできる。何が言えるのか。何が言えないのか。何を見逃してはいけないのか。何を調べれば、もう少し近づけるのか。どの可能性を残しておくべきなのか。

それを書くことが、足る鑑定である。


「見た」は、出発点であって終点ではない

鑑定人にとって、「見た」は大切である。見なければ、何も始まらない。遺体に向き合い、損傷を見て、臓器を見て、変化を見て、記録する。それが鑑定の出発点である。

しかし、「見た」は終点ではない。

見たものを記録する。記録したものを検証する。検証した所見から解釈する。解釈の限界を書く。別の可能性を残す。必要なら見直す。そこまで進んで、初めて鑑定になる。

「私は見た」だけでは足りない。「私はこう見た」「こう記録した」「この資料からはここまで言える」「ここから先は言えない」「別の見方も残る」「この前提が崩れれば、結論も変わる」。そこまで書かなければならない。

所見は大切である。だからこそ、所見を疑う必要がある。解釈は必要である。だからこそ、解釈を疑う必要がある。鑑定人は、正しさを語る立場にいる。だからこそ、自分の正しさに酔ってはいけない。

所見も間違い得る。解釈も間違い得る。この当たり前を忘れたとき、鑑定は危うくなる。

足らざる鑑定は、見逃しによって生まれる。過ぎたる鑑定は、読み過ぎによって生まれる。そして、その両方は、「自分の見方は間違いない」という思い込みから生まれることがある。

目指すべきは、足る鑑定である。見るべきものを見逃さない。見たものを読み過ぎない。見たことと、考えたことを分ける。言えることを言う。言えないことは言わない。しかし、言えない理由と、残された疑問は書く。

その単純で難しい作業こそが、法医鑑定の核心である。

前回、私は数字には置き場所があると書いた。今回は、所見にも置き場所があると書きたい。

所見は、絶対の玉座に座らせるものではない。検証の机の上に置くものである。

「見た」は、絶対ではない。

それを認めるところから、鑑定は少しだけ強くなる。


次に考えたいこと

所見も間違い得る。解釈も間違い得る。だから鑑定は、記録され、検証され、必要なら修正されなければならない。

しかし、現実にはそう簡単ではない。鑑定人本人が修正を拒むことがある。そして、周囲もそれを十分には止められないことがある。

次に考えたいのは、その構造である。

怪しい鑑定は、なぜ止まらないのか。


参考資料

Kassin SM, Dror IE, Kukucka J.
The forensic confirmation bias: Problems, perspectives, and proposed solutions.
Journal of Applied Research in Memory and Cognition. 2013;2:42–52.

Cooper GS, Meterko V.
Cognitive bias research in forensic science: A systematic review.
Forensic Science International. 2019;297:35–46.

Forensic Science Regulator.
Cognitive bias effects relevant to forensic science examinations.
FSR-G-217. Issue 2. 2020.

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