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98.5%の置き場所:足らざる鑑定、過ぎたる鑑定ー 田舎の法医学者として、弘前大学教授夫人殺害事件を読む

私は地方で法医学をしている。

地方では、法医学者の数が多いわけではない。
鑑定人も、解剖できる施設も、再鑑定を引き受ける人も、都会ほど潤沢ではない。

そのぶん、一通の鑑定書の重みを感じることがある。

「先生がそう言うなら」
「鑑定でそう出たなら」
「数字があるなら」

そうして、鑑定の言葉は、捜査や裁判の中で思った以上に大きくなる。

法医鑑定には、二つの危うさがある。

ひとつは、足らざる鑑定
もうひとつは、過ぎたる鑑定である。

足らざる鑑定とは、所見から言えるはずのことを言えていない鑑定である。
見るべき所見を見逃し、考えるべき可能性を拾い上げず、専門家として示すべき判断を残してしまう鑑定である。

過ぎたる鑑定とは、所見から言える範囲を越えてしまう鑑定である。
所見がそこまで語っていないのに、断定し、飛躍し、犯人性や故意や法的責任に近づきすぎる鑑定である。

足らざる鑑定は、所見を読み足りない。
過ぎたる鑑定は、所見を読み過ぎる。

よい鑑定とは、所見を過不足なく読むことである。

これが、簡単ではない。

そのことを考えるとき、私は弘前大学教授夫人殺害事件を思い出す。

この事件では、被告人とされた男性が有罪判決を受け、服役した。
しかし後年、真犯人とされる人物が名乗り出たことをきっかけに、再審への道が開かれた。
そして、再審で無罪となった。

一枚の白シャツ。
そこに付着したとされた血痕。
そして、法廷に現れた一つの数字。

98.5%。

この数字が、人の人生を大きく動かした。


一枚の白シャツ

弘前大学教授夫人殺害事件は、1949年に青森県弘前市で起きた殺人事件である。

被告人とされた那須隆氏は無実を主張したが、1952年に仙台高裁で懲役15年の判決を受けた。
その後、1971年に真犯人とされる人物が名乗り出たことを契機に再審請求が行われ、1977年に再審無罪判決が言い渡された。

この事件では、自白はなかった。
被告人を事件と直接結びつける物的証拠も乏しかった。

その中で、検察側の大きなよりどころとなったのが、白ズック靴や海軍用開襟白シャツに付着したとされた血痕に関する法医学鑑定だった。

鑑定は複数回行われ、その結果は一致していなかったとされる。

その中で大きな意味を持ったのが、当時、法医学の権威とされた古畑種基氏による鑑定である。

古畑鑑定は、白シャツに付着したとされる血痕について、被害者血液と同じB・M・Q・E型であるとし、同一人由来とする推定の重みを98.5%という数値で示した。

また、その血痕は赤褐色を呈し、犯行現場の畳に流出した被害者血液と付着時期に時間差は認められない、とした。

98.5%。

この数字だけを見ると、かなり強い。

法廷に出てくる数字の中でも、ずいぶん背広を着た数字である。
見た目がきちんとしている。
読む側も、つい姿勢を正してしまう。

しかし、数字はそれだけでは真実にならない。

数字には、必ず置き場所がある。
どの問いに対する数字なのか。
どの前提の上に立った数字なのか。
その数字が、どこまでを説明し、どこから先を説明しないのか。

そこを見失うと、科学的な数字は、真実に近づく道具ではなく、誤りを固める道具になる。

では、この98.5%は、何を示していたのか。
そして、何を示していなかったのか。


98.5%は、犯人性そのものではない

血痕鑑定が示すのは、基本的には試料についての科学的関係である。

その斑痕は血液か。
人血か。
血液型は何か。
被害者の血液型と矛盾しないか。
他人由来である可能性はどの程度残るか。

ここまでは、鑑定の領域である。

しかし、そこから直ちに、

だから、その白シャツを着ていた人が犯人である。

とはならない。

そのためには、別の問いを渡らなければならない。

その斑痕は、押収時から本当にそこにあったのか。
犯行時に付着したものなのか。
付着の部位、形状、量、方向は、犯行態様と整合するのか。
試料の採取、保存、検査の経過は検証可能か。
白シャツという鑑定資料の来歴や保管状況は明らかなのか。
他の鑑定結果との矛盾はないのか。
再鑑定に供し得る試料、あるいは検証可能な鑑定資料は残っているのか。

血液型が一致すること。
その血痕が被害者由来である可能性が高いこと。
その血痕が犯行時に付着したこと。
そのシャツを着ていた人物が犯人であること。

これらは、同じ階段の上にあるように見える。
しかし、同じ段ではない。

数字は、この階段を一気に上らせてくれるわけではない。
一段ずつ、前提を確かめなければならない。

一段飛ばしで上がると、転ぶ。
法廷で転ぶと、ただの擦り傷では済まない。


過ぎたる鑑定としての弘前事件

弘前大学教授夫人殺害事件は、私はまず、過ぎたる鑑定の事件として読むべきだと思う。

ここでいう「過ぎたる」とは、鑑定人が強い数字を出したという意味だけではない。

もちろん、98.5%という数字は強い。
法廷に出れば、数字はそれだけで重みを持つ。

しかし、この事件で考えるべきなのは、数字だけではない。
鑑定の内容そのものが、どこまで言える範囲を越えていたのかである。

血液型が一致する。
それは一つの所見である。

しかし、そこから、

その血痕は被害者由来である。
犯行現場の血液と付着時期に時間差はない。
したがって、犯行時に付着したものとして読める。

という方向へ進むには、別の前提が必要になる。

その斑痕は、押収時から本当にそこにあったのか。
その色調は、時間経過や使用状況と矛盾しないのか。
試料の採取や保存に問題はないのか。
白シャツという鑑定資料の押収・保管・鑑定までの来歴は明らかなのか。
先行鑑定との違いはどう説明されるのか。
白シャツの斑痕が、犯行時の血液付着として自然なのか。

これらを確かめなければならない。

古畑鑑定は、白シャツに付着したとされる血痕について、被害者血液と同じ型であるとし、同一人由来とする推定の重みを98.5%という数値で示した。

さらに、その血痕は赤褐色を呈し、犯行現場の畳に流出した被害者血液と付着時期に時間差は認められない、とした。

この「時間差は認められない」という部分も、重い。

なぜなら、それは単なる血液型の一致ではないからである。
血液型の話から、付着時期の話へ進んでいる。
さらに、その先には、犯行時に付着した血痕であるという読み方が待っている。

つまり、ここで過ぎているのは、数字だけではない。

血痕の由来、付着時期、付着機序に関する説明そのものが、白シャツを事件へ近づけている。

鑑定人が「この人物が犯人である」と書かなくても、鑑定は過ぎることがある。
犯人性に直接踏み込まなくても、試料の由来や付着時期を強く語れば、その鑑定は裁判の中で犯人性を支える言葉になりうる。

ここが怖い。

鑑定人は、血痕について語る。
裁判は、その血痕を事件の物語の中に置く。
すると、血液型の一致だけでなく、色調や付着時期に関する記載までもが、被告人と犯行を結びつける材料として読まれていく。

科学的証拠は、数字だけで強くなるのではない。
数字に添えられた説明によって、さらに強くなる。

だからこそ、法医学者は数字を出すときだけでなく、数字の周囲に置く言葉にも慎重でなければならない。

慎重というのは、弱気という意味ではない。
言えることを小さくするという意味でもない。

そうではなく、

血液型は一致する。
しかし、この結果は直ちに犯行時の付着を示すものではない。
付着時期、付着機序、試料の由来、鑑定資料の来歴については別途検討を要する。
試料の採取・保存状況や、鑑定資料の来歴・保管状況に疑問があれば、結論の証明力は低下する。

そう書く勇気を持つ、ということである。

これは鑑定書の保険ではない。
誠実さである。

過ぎたる鑑定とは、断定の語尾だけの問題ではない。
まだ確かめ切れていない前提の上に、説明を積み上げてしまうことでもある。

弘前事件の怖さは、そこにある。


再審で問われた「数字の台」

再審で問われたのは、98.5%という数字そのものだけではなかった。

むしろ、その数字を置く台であった。

再審判決は、白シャツの血痕の色調について詳細に検討している。

古畑鑑定では、白シャツに付着していた血痕は、畳表に流出した被害者血液と同じ赤褐色を呈した血痕であったとされた。

しかし、再審では、血痕の色調、押収時の斑痕との相違、付着時期、付着機序などが改めて問われた。

再審判決は、白シャツには押収当時、もともと血痕が付着していなかったのではないか、という推察が可能であるとした。

つまり、問題はこうである。

98.5%という数字が、どれほど精密に見えても、その数字を支える前提が揺らげば、結論の重みも変わる。

数字が間違っているという以前に、数字を置く台が傾いているのである。

そして、傾いていたかもしれないのは、数字の台だけではない。

その台の上に置かれた説明もまた、重かった。

「赤褐色である」
「畳の血と時間差は認められない」
「同一人由来と推定される」

これらの言葉は、単なる検査結果の羅列ではない。
白シャツの斑痕を、犯行現場へ、犯行時刻へ、被害者血液へと近づけていく言葉である。

だからこそ、前提が揺らぐと、その説明全体が揺らぐ。

血痕の色調が押収時の記録と合わない。
付着時期に疑問がある。
試料の由来が不安定である。
鑑定資料の来歴が不明確である。

そうであれば、98.5%という数字だけでなく、その周囲に置かれた説明も、同じように慎重に見直さなければならない。

この事件で恐ろしいのは、数字の強さだけではない。

数字の前に検討されるべきものがあった。
色調があった。
付着状況があった。
押収時との違いがあった。
試料の由来と、鑑定資料の来歴があった。

それらを十分に踏まえないまま、数字と説明が一人歩きした。

過ぎたる鑑定は、数字だけでできるのではない。
数字を支える文章によっても、過ぎたる鑑定は生まれる。


足らざる鑑定は、別の顔で現れる

では、足らざる鑑定とは何か。

ここで、弘前事件を無理に「足らざる鑑定」の代表例にする必要はない。
弘前事件の中心にあるのは、むしろ過剰な数字、過剰な権威、過剰な意味づけである。

一方で、現在の地方の法医学において、私が日々怖いと思うのは、別の種類の危うさである。

それが、足らざる鑑定である。

守秘のため、以下は個別事例ではなく、実務で遭遇し得る状況を抽象化した例である。

たとえば、高齢者が自宅で倒れて亡くなっている。
頭部に打撲がある。
急性硬膜下血腫がある。
家族は「転んだのだと思う」と話している。

このとき、鑑定書に、

死因は急性硬膜下血腫。
頭部外傷による死亡である。

とだけ書いたとする。

間違いではないかもしれない。
しかし、それで足りるとは限らない。

打撲は一か所か、複数か。
転倒で生じやすい部位か。
防御創を疑う所見はないか。
上肢や体幹に新旧混在する皮下出血はないか。
抗凝固薬の影響はあるか。
転倒だけで説明しやすいのか、説明しにくいのか。

所見からそこまで言えるはずなのに、言えていない。

それが、足らざる鑑定である。

あるいは、浴槽内死亡である。

冬場、地方では珍しくない。
高齢者が浴槽内で発見される。
外表に目立つ外傷はない。
発見状況から「溺死」とされやすい。

しかし、浴槽内で発見されたからといって、ただちに溺死とは限らない。

溺水を示す所見はどの程度あるのか。
心疾患や脳血管障害が先行した可能性はどうか。
湯の中で意識を失った後に沈んだのか。
沈んだこと自体が死亡機序なのか。
内因性急死の上に、二次的に湯を吸引しただけではないのか。

ここを検討しないまま、

浴槽内で発見され、溺死と考える。

で終わってしまえば、やはり足りない。

足らざる鑑定は、短い鑑定ではない。
控えめな鑑定でもない。

所見が発している小さな警告を、拾い切れていない鑑定である。


地方では、足らざる鑑定が静かに近づく

地方の法医学には、独特の圧力がある。

大都市のように、複数の法医学者が常に近くにいるわけではない。
専門領域ごとの相談先が、すぐ隣の部屋にあるわけでもない。
一人の鑑定人に、いくつもの地域から案件が集まる。

警察官も、検察官も、顔が見える。
何度も一緒に現場を見ている。
互いに苦労を知っている。
だからこそ、距離が近い。

距離が近いことは、悪いことばかりではない。
現場情報が入りやすい。
相談しやすい。
地域の実情も分かる。

しかし、距離が近いからこそ難しいこともある。

「先生、これは事件性なしでよさそうですか」
「転倒で矛盾しませんか」
「急いで方針を決めたいんです」
「遺族への説明もあります」

その言葉に、悪意はない。
現場も忙しい。
早く答えが必要なこともある。

しかし、その空気の中で、鑑定人が少し急ぐことがある。

もう一枚、皮下を見ておくべきだった。
もう少し頸部を丁寧に確認すべきだった。
薬毒物検査を出すべきだった。
組織試料をもう少し広く取るべきだった。
「転倒で矛盾しない」ではなく、「転倒だけでは説明しにくい点がある」と書くべきだった。

足らざる鑑定は、大きな音を立てて来るとは限らない。

むしろ、静かに来る。

忙しさの中で来る。
慣れの中で来る。
顔の見える関係の中で来る。
「まあ、こういうことだろう」という小さな納得の中で来る。

だから怖い。

弘前事件が示すのは、権威ある鑑定が過剰な意味を帯びる怖さである。
地方の現場で私が感じるのは、反対に、所見から言えるはずのことを拾い切れない怖さである。

どちらも、鑑定の危うさである。


科学的証拠ほど、説明がいる

科学的証拠は、強い。
だからこそ、説明がいる。

数値、反応、型、画像。
これらは、専門家でない人にとって非常に説得力を持つ。

「血液型が一致した」
「DNAが一致した」
「薬物が検出された」
「画像で見える」

こう言われると、人は納得しやすい。

しかし、法医学者はそこで止まってはいけない。

一致とは何か。
検出とは何か。
その一致や検出は、事件のどの部分を説明するのか。
逆に、どの部分は説明しないのか。

そこまで書かなければならない。

そして、科学的証拠で怖いのは、数字だけではない。

「一致する」
「矛盾しない」
「時間差はない」
「説明できる」
「強く示唆される」

こうした言葉もまた、強い。

数字は目立つ。
しかし、鑑定書の中で本当に人を動かすのは、数字そのものだけではなく、数字に添えられた文章である。

「一致する」と書くのか。
「矛盾しない」と書くのか。
「同一人由来と推定される」と書くのか。
「犯行時の付着として矛盾しない」と書くのか。

一つずつ、意味が違う。
一つずつ、裁判での重みが違う。

鑑定人は、その違いに鈍感であってはならない。

科学的証拠は、単独で歩くと危ない。
歩かせるなら、杖を持たせる必要がある。

その杖が、前提条件であり、限界表示であり、試料の由来であり、鑑定資料の来歴である。

同時に、所見もまた、勝手には歩いてくれない。

所見はそこにある。
しかし、拾い上げなければ、所見は黙ったままである。

鑑定人には、二つの作業が同時に求められる。

所見を拾い切ること。
そして、結論の伸び過ぎを止めること。

なかなか、骨が折れる作業である。
しかし、その負担を理由にして、見逃しが許されるわけではない。

法医学者としての誠実さは、むしろそこで試される。


鑑定は、いまも一線を越えうる

ここで、警鐘を鳴らしておきたい。

弘前大学教授夫人殺害事件は、古い事件である。
しかし、そこに現れた危うさは古くない。

検査技術は進歩した。
血液型鑑定の時代から、DNA型鑑定、画像診断、薬毒物分析、各種の機器分析へと、法医学の道具は大きく変わった。

しかし、鑑定が置かれる構造は、それほど変わっていない。

限られた鑑定資料。
不十分な現場情報。
急がれる捜査。
明確な答えを求める空気。
数字や画像への過信。
権威ある専門家への依存。
そして、いったんできあがった事件の見立て。

この条件がそろうと、鑑定は、いまでも簡単に一線を越えて**「過ぎたるもの」**になってしまう。

最初は、小さな言葉である。

矛盾しない。
可能性がある。
強く示唆される。
否定できない。
可能性が高い。

これらは、本来それぞれ意味の違う言葉である。
しかし、捜査や裁判の流れの中で、いつの間にか近いものとして扱われることがある。

「矛盾しない」が「そう考えられる」になり、
「そう考えられる」が「可能性が高い」になり、
「可能性が高い」が「ほぼ間違いない」に近づいていく。

言葉が、少しずつ硬くなる。
余白が、少しずつ失われる。
そして、鑑定の一文が、鑑定人の意図を越えた意味を持ち始める。

鑑定人が嘘をつかなくても、誤りは起こる。

だから怖い。

鑑定書の一文は、思ったより遠くまで行く。

警察署の机の上だけではない。
検察官の起案の中を歩く。
弁護人の反論の中を歩く。
裁判官の判決文の中を歩く。
遺族や被告人の人生の中を歩く。

しかも、ときに帰ってこない。

だからこそ、鑑定人は書かなければならない。

この所見から言えることは何か。
言えないことは何か。
どの前提が崩れれば、結論の重みが変わるのか。
他に考え得る説明は何か。
この結果は、犯人性や故意を直接示すものではないのか。

こうした記載は、弱腰ではない。
むしろ、鑑定を強くする。

鑑定を強くするのは、断定の強さではない。

さらに言えば、反対仮説への目配りである。


田舎の解剖室で

古い事件である。

しかし、古いからこそ見えるものがある。

時代が変われば、技術は変わる。
血液型鑑定はDNA型鑑定になり、肉眼所見に画像診断が加わり、薬毒物分析も精密になる。

それでも、鑑定人の言葉が人の人生に触れるという事実は変わらない。

私たちは、過去の事件を安全な棚に置きたくなる。
「あの時代だから起きたことだ」と考えれば、少し安心できる。

けれども、その安心はあまり信用しない方がよい。

条件がそろえば、今の鑑定も同じ場所に立つ。

鑑定資料が少ないとき。
現場情報が限られているとき。
捜査が急いでいるとき。
周囲が明確な答えを求めているとき。
鑑定人自身も、強い結論を出したい誘惑に近づく。

あるいは逆に、疲れているとき。
件数が重なっているとき。
「これはよくある事案だ」と思ったとき。
所見の小さな違和感を、違和感として立てないまま進んでしまう。

田舎の解剖室は、静かである。

都会の大きな施設のように、すぐ隣に別の専門家が何人もいるわけではない。
相談できる相手がいても、その場で肩越しに覗いてもらえるとは限らない。
判断は、最後には自分の机に戻ってくる。

解剖が終わり、手袋を外し、写真と記録を机に並べる。
そのとき、迷いは消えるどころか、むしろ濃くなることがある。

だから私は、鑑定書を書くときに、自分の中の少し急いでいる部分を疑うようにしている。

強く言いたくなっていないか。
弱く逃げようとしていないか。
結論を急いで、前提を置き去りにしていないか。
所見が発している小さな警告を、見逃していないか。

目指すべきは、足る鑑定である。

所見に忠実であること。
問いに十分答えること。
結論に節度があること。

それは、地味な仕事である。
しかし、法医学の仕事は、たいてい地味なところに宿っている。


所見の前で、言葉を選ぶ

鑑定書を書くとき、必要なのは強い言葉ではない。
弱い言葉でもない。

必要なのは、道筋である。

何を見たのか。
どの試料を採ったのか。
どの鑑定資料を参照したのか。
どの方法で調べたのか。
その結果からどこまで判断できるのか。
どこから先は、別の証拠や状況との総合評価に委ねるべきなのか。
どの前提が崩れれば、結論の重みが変わるのか。

そこまで示して、初めて鑑定は鑑定になる。

私たちは、死者の声を代弁などできない。

できるのは、身体に残された所見を読むことだけである。
傷の長さを測る。
出血の深さを見る。
臓器の重さを量る。
組織試料を切り出す。
検査結果を照合する。
矛盾があれば、矛盾として残す。

一枚の白シャツ。
いくつかの斑痕。
一つの数字。

それが、人の人生を大きく動かした。

98.5%という数字が教えているのは、数字の強さだけではない。
数字の前に、読まれるべき所見があるということである。

そして、数字の後ろには、慎重に選ばれるべき言葉がある。

見逃してはいけない。
しかし、言い過ぎてもいけない。

所見から言えることを言う。

その単純で難しい作業こそが、法医鑑定の核心である。

鑑定書の一文は、軽くない。

その重さを忘れたとき、鑑定は真実への道具ではなく、誤りを固める道具になる。

弘前大学教授夫人殺害事件は、過去の事件ではある。
しかし、その警鐘は、いまも田舎の解剖室まで届いている。

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