山+αは、鎧を脱ぐ時間
『ちゃんとできてる?』が頭から離れない。
山でお湯を沸かす数分だけ、その声が消える。

ゴォッという小さな炎の音。
やがて立ちのぼる湯気。
それを、ただ見ている時間が好きだ。
仕事では、いつもどこか力んでいる。
抜け漏れがないか探し、先回りし、整える。
ちゃんとしているか。遅れていないか。
誰かの期待を裏切っていないか。
『ちゃんとできてる?』って、いつも自分を採点してる。
もう環境は変わっているのに、身体だけが覚えている。
小さなミスで胸がぎゅっとなる。
声色ひとつで、反応してしまう。
山に来ても、最初は同じだ。
✔ ペースはどうか。
✔ ルートは合っているか。
✔ 効率よく歩けているか。
ちゃんとできているか。
――また鎧を着ている。
でも。
お湯が沸くまでの数分だけは、なぜか、その緊張がやわらぐ。
✔ ただ座っている。
✔ 役に立っていない。
✔ 何も生み出していない。
それでも、誰も困らない。
誰も採点しない。
湯気は形を保とうとしない。
崩れて、ほどけて、消えていく。
こんなふうで、いいのかもしれない。
山は、速さも、肩書きも、昨日の出来も、見ていない。ただ、在る。
その中にいると、鎧がゆるむ。
完璧じゃなくていいと、頭より先に身体が思い出す。
私は、何かを成し遂げるために山に行っているわけじゃない。景色を制覇するためでもない。
鎧を脱ぐ時間を、自分でつくるために行く。
湯気は消える。
形は残らない。
でも、肩だけが少し軽い。
山を下りて、また日常に戻っても、
あの「採点されなかった時間」を知っているから。
それだけで、呼吸は少し深くなる。
そしてまた、鎧を着る。
でも今は知っている。
脱げる場所があることを。
山歩きがある暮らしは、
人生の避難小屋があるみたいなもの。
強くなるためじゃない。
逃げるためでもない。
弱ったときに、
ザックを下ろして、湯を沸かして、
もう一度立て直すための場所なんだ。

おわりに|山歩きがある暮らしは、人生の避難小屋みたいなもの。
あなたの『鎧を脱げる場所』はどこですか?
最後まで読んでくれて、ありがとう。
スキやフォロー、コメントをもらえるたびに、
「あ、誰かに届いたんだな」って思えます。
無理に反応しなくても大丈夫。
ただどこか一行でも引っかかったなら、それで十分です。
また山で拾った話を、持ち帰ってきますね。
良ければ、過去作にも寄っていってくださいね!⤵︎
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