短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(84) 風もないのにケセランパサラン
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ひとでなしアフター・ファイブ
ということで、
しかし、今日のニックはそれほどでもなかったな。
ふだん通り仕事の手を抜き、
ふだん通り、めんどくさいことは俺にすべて任せ、
与太話最大延々8時間。
いつもと同じである。
いつもと同じである。
あれでいて実は、
通勤のバスの中で見るニックが、
やけにまじめな様子でいることも、あるのであった。
俺があるとき見かけたニックは、
まわりがみんな、うつむいて、自分のスマホに見入るなか、
ニックだけはひとり、まっすぐ前を見つめていた。
マイクロバスの揺れはときに膀胱炎の暴れ巨象の背中にいるかのようでもあるのだが、
そしてエアコンはじゅうぶんに利かず細く開けた窓から入る生ぬるい風にかき回されるのだが、
スマホ隊がその身体で緩慢に受け流す揺れ暑さどうしようもなさに、
ニックのみひとり抵抗するようにも見えたのだ。
ただしそれが世間一般に言われるところの「まじめさ」だったかといえば、
ふだんのニックを知っている以上、俺は同意しかねる。
それは単に顔であって「そう見える」というだけで、
その顔がくっついてる頭の内部で何を考えているかは、とうていはかり知れない。
それはいっときの集中。
とてつもなくエロいことを考えて、まじめな顔になってしまう人間もいるだろう。
まわりがみんな、うつむいて、自分のスマホに見入るなか、
まっすぐ前を見つめ、
真剣に、
真剣に、エロいことを考えれば、ニックだって、まじめな顔にもなりえよう。
それがまじめさということであろう。
真剣というものであろう。
そして俺たち一団は、バスによって運ばれる。
ひとつずつ与えられることになっている小さな椅子に、
出口に近く、エアコンに近く、通路側、
順位をつけながら。
そしてニックの顔はこう言ってるようにも見える。
「俺は別に被害者ではない」
愚にもつかぬキラキラ精神論や、
フェイク・イリュージョンにすらならぬ「人助け」のつもりの自己満足、
すべて他人のせい、
承認欲求ダダ洩れ被害者マウント、
「なぜ世の中は自分をみとめないのか」という不気味な先取り自己認識、
そして俺がつくる、人生という茶を濁すエモツイート。
中途半端であることが、よりその俗悪さを増す生ぬるい風に、
俺たち吹かれて生きてるんだぜ。
一緒に生きてるんだぜ。
そこに、あの顔が、割り込む。
「俺は別に被害者ではない」
なだれ込むように、われ先にと下車していく人々の肩越しに、
横顔のあいだにかいまみえただけの、
意味もなく強く真剣な、別宇宙という、
いっときの集中。
といったようなことを考えながら俺はひとり、
プールサイドの砂を掃除していた。
床一面に薄く広がる粉雪状の砂を、ワイパーモップでかき集める。
スワイプ、スワイプ、スワイピー。
いちおう俺にもやりかたがあって、
俺はワイパーモップを、円形プールの外周に沿って、外側からかけていくことにしていた。
やりかたは、いろいろ試してみたんだけども、
砂に線を描いていく気持ちよさがいちばんあるのはこのやり方。
スワイプ、スワイプ、スワイピー。
わけあり明太子の「わけ」の部分であるこの砂たちが、
もしかすると、本当に要らないものであるような気がしてくるのは、
毎日これだけたくさんの砂が出ることと、関係があるだろうか。
消していく。
消していく。
スワイプ、スワイプ…。
プール室ではたらくとき、俺たちはつねに、
隣の部屋で稼働する巨大ドラム式洗濯機の低い唸りを聞いている。
終業時刻が過ぎると、洗濯機は停止され、
俺はいつもその瞬間、頭に一本、針金が貫通するような耳鳴りを感じる。
耳鳴りは一瞬で遠のき、
やがてあらわれるのは、プールで水がうねる音だけ。
水音は、穏やか。
高い天井で、かちりとかすかに鳴る音が聞こえるくらい。
それは、空調が止まったサイン。
じょり、っと近くで音がして、
俺は足を止め、顔をあげた。
プールサイドに、小さな姿。
AIお針子だった。
俺のほうには気づいていなかった。
あたりをきょろきょろ見回して、お針子は、抜き足差し足歩いているのだった。
やがて気づいてお針子は、小さな肩をびくっと上げ、
「なんだ、おまえか」
それは、後じさろうとする寸前、引き下げかけていた足を止めたすぐ後のことばだった。
俺たちは1秒にらみ合い、同時に顔を背けた。
俺はスワイプ作業に戻った。
空調が止まると、水が存在感を増す。
真冬だとこの時点から、プールサイドの床に、水の冷気がはびこりはじめ、それが足首を舐めていくときは、身震いするほど。
夏場はそこまでじゃないけど、空気が生ぬるくなっていくのがわかる。
開けっ放しの扉から、プール室より先に温度をあげる廊下の空気が流れ込んでくるのがわかる。
プールの水は渦を巻きながら、廊下からの空気を巻き取る。
俺のワイパーモップがその流れを横断する。
スワイプ、スワイプ。
気になるのは、お針子が、こそこそ動き回っていることだった。
俺がまだ掃除してない場所を歩いてるらしいのは砂を踏む音でわかる。
俺が見たときお針子は、
どこかよそを見ながら、
せっかく集めた砂の山を、片足で踏み抜いてしまっていた。
「おまえ」
俺の声にお針子は、
こっちをきっと睨みつけた。
そして自分の片足が、砂の山に埋まっていることに気づく。
「あ」
お針子は砂からすぽんと足を抜き、なにごともなかったかのように歩き出す。
立ち止まる。
振り返る。
いつもみたくスキップはしてない。
砂まみれのすり足で、俺がきれいにした場所を踏み、
俺が砂につくったワイパーモップ線の境界を蹂躙する。
「おまえに構っている暇はないのだ」
これを言ったのは俺じゃなくてお針子。
それは、俺が言いたかったことだった。
「あたいはいま、いそがしいのだ」
あたりを見回しながら、お針子はうなずく。
「ここはまだ、だいじょうぶだな」
なに言ってるかわかんないので、俺は作業に戻ることにした。
さっさとこの砂を集め、ゴミ収集所に持ってかなきゃならない。
明日になればまた洗濯機は回り、プールは砂だらけになる。
俺はその砂をさらい、俺は日給3万円になる。
砂が3万円なんじゃない。「さらう」と「捨てる」が3万円になる。
俺は労働が乗るバスだ。
消していく。
捨てていく。
あらわれる。
「おまえ」
お針子が、俺の後についてきた。
「あれを閉めてきてくれ」
お針子の手が後ろ手に、プール室の扉を指さしていた。
「おまえは俺に指示命令できないぞ」
俺がこたえるとお針子は、
「だって」
「自分で閉めればよかろう」
俺はまた言ったんだけど、AIお針子は、俺のワイシャツをひっぱって、
「閉めてきて」
と言った。
こんなやつのわがままを聞いてやる必要はないんだけど、
実際のところ、俺も少し、部屋が蒸し暑くなってきているような気がしていた。
風っていえるほどのものじゃないんだけど、
廊下から、あったかい空気が入りこんできていた。
それは、温泉とかサウナの入口を通るときに感じる、もわっとした空気。
冬の冷気が鋭利な舌なら、こっちの空気は膨らむ綿毛。
地を這う伝わりかたじゃなく、空気の粒にシナプスを伸ばしながら増殖するような、温度変化だった。
ワイシャツの袖にしがみついたお針子は、俺の後ろにぴったりくっついて、扉のほうをじっと見つめた。
なにより俺は、こいつにくっつかれているのが嫌だった。
なぜならば、お針子の体が棒みたいに細いからだった。
「早く閉めてこい」
俺の腰を押すその腕も細く、ただつつかれているだけのようだ。
「心の準備をしておけよ」
口だけは指示監督者。
「おまえがなにを言っているのかわからない」
俺はお針子を体から引きはがした。
ワイパーモップを扉まで、きゅーっと押していくと、砂の上には新しい直線ができた。
それはプールの外周をぐるぐる回って俺がつくってきた線から逸脱したあたらしい別の運動。俺は周回をはずれた。
ドアノブに、手をかけて、真っ暗な廊下になんの気なし目を向けたそのとき、
「あ」
モップの柄で鼻を殴られたような衝撃。
俺には聞こえなかったけど、
プール室の壁がはね返す響きは、俺の叫び声?
プールの渦がそれも巻き込んでいった。
あわてて扉を閉めたけど、
ところがうまく閉まらない。
がっつんがっつんやってもなぜだ。
と思ったら、モップの柄をはさんでて、あ、これか、つってモップを放り投げ、
両手でノブを引っぱって、
扉が閉まる音で、心臓が、びくり跳ねた。
俺は鍵をしめた。
カチッと回すだけだけど、ぎゅっと回した。
そしてその鍵から、少しのあいだ、手が離せないでいた。
砂の山は蹴っ飛ばしていた。
お針子の前に滑り込んだ俺は、
お針子の細い肩にしがみつき、
「あれはなに? あれはなに?」
お針子を揺らしていた。
「うん」
がっくんがっくん揺れながら、お針子が言った。
「大きくなりすぎた」
「ねえ、なに? あれ」
「かくれんぼしてたの」
「かくれんぼしてたの?」
「あ、まちがえた」
「え?」
「鬼ごっこだったかも」
「へ?」
「うん、あれは」
揺らされながら、お針子が遠くを見る。
「『風もないのにケセランパサラン』」
「それはなに? ねえ、それはなに?」
「ん?」
お針子は、とぼけて首を傾げた。
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