【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【58】
第八章――炎の子 後編【Ⅳ】――
フェンリルは子供の縄を断ち切ると、振り子の要領で後ろに回った。
「トルヴァ、場所かわれ」
トルヴァが前に詰め、彼に代わって手綱をとる。
馬の首と前方に移動したトルヴァの間で、手首が真っ赤にこすれた金髪の子供は硬直しきっていた。
「怖かったよな。頑張ったよ、お前」
トルヴァはその頭を、片手でかきまわしてやった。そこでようやっと安心できたのか、子供はトルヴァにしがみついてぼろぼろと泣き崩れた。頭のあちこちから、こぶの感触がした。下衆の左腕一本では、足りない気がする。
フェンリルは舌打ちした。
「駄目だ。追ってきた」
一歩遅れて駆けてくるハティの他に、二、三騎、こちらに向かってくる。
「どうするよ?」
トルヴァが言った。彼らも軍馬を奪った訳だが、何せこちらは重量が違う。このまま、まくのは難しそうだ。
そもそも、あても無く逃げている。どこへ向かえばいいのか、逃げる場所はあるのか。他の住民たちがどうなったのか――考えなければならないのに、衝撃の連続で心休まる暇が無く、見当がつかない。
「前にブラギが、大川から続く船着き場があると言ってた」
心の声に応えるように、フェンリルが言った。
「いつかはもっと遠くまで漁に出て、いざとなったら別のことに使えるようにって……。今がその、いざな気がする」
「じゃあもしかしたら、みんなそこにいるのか」
「あいつらが、どこから入り込んだかはわからないけどな。でも、大川から来たってことは無いと思う」
「自警団の人たちは、お舟があるって言ったよ」
ふいにしゃがれた声が、会話に割って入ってきた。トルヴァにしがみついたままの子供が、注目されてつっかえながら話しだした。
「たくさんの人が船着き場に行って、おれもねえさまと行くはずだった。でも途中で、すごい雷が落ちてきて、地面が揺れて……行かなきゃって思ったけど、怖くて。おれ、動けなくて。それで」
「それで捕まったのか――姉さまのほうはどうした?」
「わ、わかんない。一緒に逃げてたひと、みんな、ばらばらになっちゃった……」
子供は首を振って再びしゃくりあげた。
「お前、名前は?」
フェンリルにたずねられて、子供は鼻をすすった。
「アーレ……」
「アーレ。もう、めそめそ泣くのをやめろ」
ぴしゃりと制されて、アーレは喉をひくつかせた。
「お前は船着き場がどこか、知ってるんだよな。おれたちは場所までは知らない。だからお前が、正しく案内してくれないと困るんだ。辿りつけるかどうかは、お前にかかってる――わかるか?」
アーレははじめ、刺すような青いまなざしに怖じ気づいた。だが何を求められているのかを理解すると、唇を噛みしめて頷いた。
「うん」
「よし。トルヴァはアーレとそっちに向かってくれ。おれは、居住地まで行ってみる」
「はあ?」
トルヴァはぎょっとした。世界の支柱(ユグドラシル)の破片付近であるここは、里の奥まった場所であり、下の居住地からすれば充分まだ、山のうちだ。
あまり考えたくないことだが、こんなところまで侵入を許したのであれば、居住地などは、もうとっくに……。
「もう誰も、いないかもしれないぜ」
「そうじゃない。じいさんは、このことを知らないだろ」
トルヴァたちが橇修理に費やした時間の分、カザドは先に地上に辿りついているはずだった。だがあの下衆の反応からして、奴らは、より天王に近い体色を持つはずのカザドとは遭遇していない。
「居住地に向かったってのか?」
「じいさんが落ちていった方を考えると、破片よりも、そっちじゃないかと思う。地上につくなりスコルも消えた――じいさんを追ったはずだ。誰かが知らせないと」
「だからってひとりになったら、それこそまずいだろ」
「まずいのは今だ。このままあいつらまで、案内するわけにはいかない」
トルヴァは急にピンときて、声を荒げた。
「馬鹿、やめろ!」
「まだ何も言ってない」
「言わなくてもわかるわ! 自分が囮になって、あいつらを引きつけようって魂胆だろ」
追及する間にも、フェンリルは馬上でしゃがみこむ体勢をとり始めた。橇から跳び出した時と、同じことをする気なのだ。
「だいたい、そんなに無茶できる状態かよ。振りきるための策はあるのか? 体調は? 雪山からずっとへばりきってて、へろへろだろうが」
まくしたてられたフェンリルは、手を開け閉めして何かを確かめた。
「そうでもない」
「嘘つけよ、もう!」
「嘘じゃないって……」
声にうんざりする響きが混じり、トルヴァは余計に腹がたった。ありとあらゆる罵詈雑言が込み上がったが、一旦飲み込む。
「――この馬をアーレにくれてやって、オレら二人でじいさんのとこまでって訳にはいかないのか? いっそ迎えうってみるのは? 女神の戦士って割に、あいつらしょぼいぜ」
トルヴァは食い下がり、口角を上げてみた。
「前に捕まった時と全然違う――がんばったら案外、勝てるのかもよ?」
「足手まといがいるから無理」
アーレが情けなく口をひん曲げたので、トルヴァは慌てた。
「なんてこと言うんだよ!」
「事実だろ」
「言いかたってもんがあるだろ! もうちょい優しくしてやれよ!」
「ひとりになったら終わりなのは、こいつのほうだ。そんな様子じゃ何もできない――それにあいつら、おれを見て生け捕りと言った」
フェンリルは背後に全身を向けたまま、冷淡に続けた。
「こっちを追ってくるとしても、殺されるってことはないはずだ」
(命以外は、どうなるかわからないだろうが!)
フェンリルの言い分は、現状、利にかなっている。いっそ、かない過ぎてる。やみくもに走り回るよりは、ずっと良い判断に違いない。
しかしあの下衆の怒り狂った様子では、それ以外の手酷いことならいくらでもされそうだった。
「それにもう、やるしかない」
呟くなり、フェンリルが馬上から跳び出した。
ぎょっとしてふり返ると、槍を使われたら終わりの距離まで一騎が迫り来ていた。そして馬上の戦士の顔面に、フェンリルの蹴りがめり込んでいた。
あっさりと馬を奪って、そのまま別方向に駆け去っていく。今の話は提案ではなく、決断を告げただけにすぎなかったのだ。
「フェンリル!」
トルヴァは一度、後を追おうとした。しかし後から来た騎馬がフェンリルが言った通りに、彼に続いていく。
じゃあなも、またなもなく、あまりに潔く去っていく後ろ姿が、よりトルヴァを懊悩とさせた。不吉な予感が拭いきれない。このままもう、これきりになってしまうような――。
「あのお兄ちゃん、ひとりで大丈夫?」
口を開いたアーレを、トルヴァは見下ろした。改めて見ると片方の目が腫れあがり、白目が赤く充血している。頭ばかり、執拗に殴られたのだろう。
こんな状態のアーレを、ここから先はひとりでがんばれなどと言って放りだすのは酷だった。
……船着き場に、ヘルガたちはいるんだろうか。アーレのような目に、合っていやしないか。本当はもう、どこにもいないのではないか。
(いや――きっといる。みんな絶対、無事でいる)
トルヴァは奥歯をきつく噛みしめた。
過ごした年月に差はあれど、カザドの教えのもとで共に生きてきたのだ。ただでやられるはずがない。少なくとも、もう、この目で見るまでは信じない。
「――ハティ!」
トルヴァは口笛を吹いて大きく腕を振った。
「ハティ、行け! フェンリルについていけ!」
並走し、何なら追いぬこうとしていたハティが一声吠えた。小さく旋回して向きを変え、フェンリルたちのほうへと駆けていく。
「し――捕まるなよ! あと、無茶すんな!」
もう聞こえないだろうと思いながらも、トルヴァは声を張った。そしてアーレの背を軽く叩いて前を向いた。
「大丈夫――あいつが向かった先には、そりゃあおっかない味方がいるはずだから」
* * *
フェンリルは迫りくる蹄の音を聞き取り、背後をちらりと見やった。
(あんな奴の命令でも、きちんと聞くのか)
あの下衆は、他の戦士たちから尊敬されているようには見えなかったので意外だった。それだけ戦士たちにとって、上に立つ者というのはいかな人格であれ逆らわざるべき存在なんだろうか。
あるいはフェンリルに、そうするだけの希少性があるのか。
(――その割には、ヴァナヘイムでも雪山でも、容赦なかった気がする)
あの時と今とで、何が違うものだろう? なんにせよ自分の容姿に感謝したのは、これが生まれて初めてのことかもしれない。
飛び移った時に目視した限りでは、三騎がついてきた。そのうち一騎を奪った訳なので、今は二騎のはずだが、もう少し増えている気配がする。詳しい数を把握しようとして、突然、下から吠えられた。
トルヴァのほうについていたはずのハティが、フェンリルの横に並ぶところだった。
ハティはフェンリルと並走したのち、彼を追い抜いて先頭についた。追って来いとでも言わんばかりに吠える。カザドか、スコルの元に向かっているのだと理解した。ハティに合わせて、フェンリルは馬の腹を蹴り手綱を引いた。
敵がどれほどいて、距離があろうとも、振りきれればこちらの勝ちだ。過ごした日々が少なくとも、ある程度の地の利ならある。振りきってみせる。そう難しいことではない。身体は妙にふわふわとして現実味がなく、なんなら調子が良いくらいなのだ。このままいくらでも奔走させられそうに思えた。
だが太い木立ちを曲がりきる直前、ふっと視界に影が降りてきた。彼の進むほんの少し先に回り込んでいた戦士がおり、そいつは仲間と自分の間に縄を渡してフェンリルを挟みこんだ。
「!」
ぐんと上体に縄が食い込んだ反動で、フェンリルは息が詰まりそうになった。そのままぐるりと絡め取られて、ほとんど受け身も取れずに落馬する。肩から落ちた衝撃で、短剣を取り落としてしまった。
そして、同じように転がっていた人物と目が合い、フェンリルは息をのんで飛び起きた。もう濁って乾いた金の瞳を、ヘルガのものと思ってしまった。しかし無念の内に果てたその人は、知らない誰かだった。髪が血でまだらに固まっている。
いきなり身体を起こしたせいで視界が乱れてぶれ、上体をまっすぐにできてはいなかった。耳の奥から、どどおーっと、叩きつける滝に似た太い音が反響する。
『捕えろ』
情のない声が、降り注いだ。分別があると思ったがそれはそれとして、フェンリルは死者ほどに敬意を払われはしなかった。したたかに殴られ、再び頭を地べたに押しつけられる。
倒れる直前、旋回してこちらに戻ってきたハティが、数人に取り押さえられているのが目に入った。
「ハティ」
激しくもがきながら唸るハティの額に、長剣の鞘が叩きつけられた。きゃいん、と哀れな鳴き声が響く。胸が痛くなる声だった。
しかしハティならおとなしくしておけば、これ以上の手出しはされまい。女神の化身である狼の血を引く犬だ。そこらの猟犬ではないことくらい、体格でわかるはず。
(女神の戦士なら、ハティには何もしない。……そのはずだ)
だからどうかそれ以上は暴れるな、とフェンリルは心で訴えた。
『――お前、指の一、二本は覚悟しておけよ』
ハティを叩いた戦士が、フェンリルの元まで来て忌々しげに言った。戦士たちは、共通の言葉を使うのをやめたようだった。
下馬した別の戦士が、フェンリルを見るなり突然髪を掴んで引っ張ってきた。
『おい、よく見ろ。こいつ、目まで青いぞ。敗北神の体色は、青髪と金の瞳のはずだろう』
『なんだと?』
仰がされてむせながら、フェンリルはそれを聞いた。
何を言っているのかわからなかったが、取り囲む数人の表情が渋くなったように見える。生け捕りなんて建て前で、やっぱり殺されるのかもしれない。
(くそ)
フェンリルは毒づいた。気持ちに反してそよ風ひとつ、吹かせられないでいた。
消える前に一瞬燃えあがる火と同じだ。実際のところ好調さなどは幻想で、もはや疲労を通り越した限界の極地に達していたのだった。
『とりあえず、あの隊長殿の溜飲を下げる必要がある。連れていくしかあるまいよ』
『まあ……青い髪も相当稀だ。誰か、肉体の戒めか魂の戒めは持っていないか?』
『本隊に戻ればある。今はこのまま、拘束しておけばいい』
『こっちはどうする?』
髪を掴んでいた戦士が、ハティを示して何か言った。
全身を上から盾で押さえつけられていたハティは、牙の隙間から泡をたてて唸り続けていた。
『きちんと躾ければ、立派な猟犬に育つだろうが、今は構ってる場合ではないな』
ふいに戦士が長剣をすらりと構えてハティに向き直る。嫌な予感がした。フェンリルは頬を地べたで削って、無理矢理に顔を上げた。
「やめろ!」
髪がぶちぶちと引き抜ける。戦士は縄を引き、より強固にフェンリルを締めあげた。絡め取られた姿勢のままであり、もがくほどに腕が不自然な方向へねじれていく。
ハティの黒々とした目が、途方にくれていた。ハティにはなんの咎もない。フェンリルたちの無謀に、つきあってきただけ。ずっとただ、無垢な愛情で応えてきてくれただけなのに。
(おれの勝手な、わがままのせいで……)
無慈悲な白刃に絶望しかけた時だった。ハティを取り押さえる戦士の背後の木々が音をたてて波打った。
戦士が突如として躍り出たその黒い影に気づいたのは、惨たらしい牙を喉元に突き立てられたあとだった。
我が子に害を成す存在に、母狼は容赦をしなかった。これが地の民ではなく、天の民であったとしても同じくそうしただろう。
スコルの前脚と牙で組み伏せられたその戦士は、切れ切れに息をもらしてじたばたともがいていた。解放されたハティが続けて躍りかかり、すぐに動かなくなった。
予期せぬ襲撃者へ戸惑う間もなく、すぐ側でぶうんと太い風切り音がして、フェンリルを押さえていた戦士が吹っ飛んだ。
『……馬鹿な』
残った戦士たちのうちの誰かが、彼を見て呆然と呟いた。
その人物は棒切れ一本だけを携えていた。そこいらのトネリコから、無造作に叩き折っただけの、先が削れてささくれた棒切れ一本。いかにも着の身着のままという風体は、大柄でこそあるが長年の汚れにくたびれている。
だからこんなこと。神々しさとは到底かけ離れた、剣呑な気配を纏う姿を見て、こんなことを思うのはおかしいのだ。
このような畏れを抱くべきではない。
なのにその名を、口にのぼらせてしまった。
『……天王、ヴィセーレン……?』
白髪混じりの青髪の隙間から、金の眼光を獰猛に尖らせてカザドは唸った。
「おい。このチビと遊びたいんなら、親父の許可を得てからにしやがれ。小童ども」
【次話】
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