【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【61】
第八章――炎の子 後編【Ⅶ】――
「もっと肉体の戒めを寄こせ!」
隊長は吠え、差し出された丸薬を乱雑に掴み、がりがりと貪った。
裂かれた腕は簡易的にだが治療を終えていた。命じられるまま無理矢理に縫い合わせ縛ったものの、血が止まらない。
そのままではいずれ腐って毒が回ることは、誰の目にも明らかだった。
「くそっくそっくそ! あの青鼠め――必ず見つけだしてやる。奴の血縁もだ! 身内ならば、青毛ももっといるかもしれん。もろとも捕えて、地帝陛下に突き出してくれる!」
歯をむき出しにしてぶつぶつと同じことを繰り返す隊長に、従者は辟易しきっていた。
捕まえた天の民の子供も、それを連れ去った少年たちも、未だ捕えたという報告が無い。彼らを追った仲間たちも、誰ひとり戻ってこない。
(深追いをさせるべきでは、なかったのじゃないか……)
よろしくない選択をしたのではないかという気がしていた。
すると、不安を隠しきれない従者と、苛々と喚き続ける隊長の元に、ひとりの戦士がやってきた。
それが常に姫君の側を離れなかった護衛だと知り、従者は奇妙に思った。
(まさか、姫君に何かあったのか)
より不安が増した従者に反して、隊長は相手を見るなり吠えたてた。
「手ぶらでなんだ! あの鼠どもを捕えたのか?」
従者はぎょっとした。ほとんど言葉を交わしていなかったとはいえ、あろうことか隊長は、姫君の護衛の顔を覚えていなかったのだ。
護衛は一度片眉を跳ねさせたが、そのことについては追及せず、淡々と告げた。
「隊長殿へ、姫君よりご伝令です」
「何? 貴様いったい――」
隊長はようやっと、目の前の相手が何者か気づいたようだった。一度口ごもったがすぐに元の、居丈高な調子を取り戻した。
「姫君はなんと?」
「撤退せよと」
「撤退――撤退だと? このような状況で?」
隊長の額に、びきりと血管が浮かびあがる。護衛は再び告げた。
「もはや犠牲のほうが多い。というのが姫君の見解です。――これ以上泥をかぶりたくなければ、即時撤退し、本来の任務に戻るようにとの仰せでした」
これには隊長どころか従者も驚いた。
これまでずっと、帰還のみを口にしてきた姫君が、ここにきて初めて、進軍についての明確な意思を示してきたのだ。それも、痛切な皮肉まで込めて。
本当にあの姫君の言葉なのか、にわかには信じ難かった。特に最後の一言など、この護衛が姫君の名を借りて、自らの批判を告げたようにしか思えない。
(帰還? これほどの犠牲が出て、撤退し、ただ帰還? 馬鹿な!)
しかし隊長はそういった諸々に考えを巡らせるよりも、じわじわと怒りと焦燥をこみ上げさせていた。
「戦を知らぬ小娘めが……!」
隊長の食いしばった歯の隙間からもれ出たのは、あまりに不敬な一言だった。従者は護衛の目が一瞬、殺意で閃いたのを見てひやりとした。
「――姫君の元へ向かう。私が直接、話を伺おうではないか」
隊長の命令に、護衛は少々考え込む素振りだった。だが最後にはこれを了承した。
命令に黙って従う人物なら、今頃皆、ここにはいないはずだと彼も理解していたのだ。
「その腕はどうされました?」
移動中、護衛は意外な質問をした。
沈黙を苦手とする人物には見えなかったし、隊長を気遣っているとも思えなかった。
「天の民の少年にやられました。敗北神と同じ、青い髪の……」
痛みで口を真一文字に結び、進むことにのみ没頭していた隊長に代わり、従者が答えたのだが、すぐに叱責がとんできた。
「余計なことを申すな。こんなもの、なんでもないわ!」
「青い髪の――天の民ですか」
前を行く護衛が、横目に隊長らを見た。隊長の腕は今も滲む血で錆臭かったが、肉体の戒めと怒りのおかげで痛みが鈍くなっているようだった。
「それは珍しい。その天の民は?」
「今追手をつけさせているわ! 生け捕りにして、姫君の前に差し出してくれる――そして一族郎党、そやつの目の前でたっぷりと――」
それ以上は聞くに堪えない内容だった。従者は隊長を乗せた馬の手綱を握る自らの手が、汗でじっとりと湿るのを感じた。
(肉体の戒めによる錯乱だ。そうに決まっている)
護衛のほうはと言えば、それきり押し黙ってしまった。
そうしてついた先は、姫君がおわす箱馬車のほうではなく、隊長が腕を裂かれた現場のほうだった。
わざわざ苦々しい記憶の現場にやってくるとは、皮肉が効きすぎている。案の定隊長の顔は憤怒に染まり、従者は胃がきりきりする思いだった。
すると突如として、玲瓏たる声が響き渡った。
《眠れ。世界の支柱》
一瞬、世界の支柱の破片より大気が凪いで、すぐに中心からぶわりと波打った。隊長と従者はそろって向かい風に顔を庇い、次に目を開けた時には、赤く脈動するようだった輝きは、鳴りをひそめていた。
そうして破片は、よく見知ったほの青い燐光のそれへと戻っていった。
「――何故、御車から出ている」
隊長が驚くのも当然だった。凄惨な場に似つかわしくない、豪奢な外套を身に纏う小柄な人影がそこにいたのだ。
「かようなところで、何をなさっているのか。姫君よ」
破片に手を這わせていた姫君は、はじかれたようにこちらへ向いた。
その動きに合わせて、頭から被った薄衣が揺らめき、紅をさした艶やかな唇が垣間見えた。
従者は姫君がこうやって野外にいる姿を初めて見た。小柄なかただと思ってはいたが、こうして立つと猫背ぎみであり、更に小さく見えた。
「これはいけませんな。箱馬車で待機していて下さいませんと。貴女の元へおいた者たちの面目が、立たないではありませんか」
非難めいた呼びかけに、姫君は後ずさった。複雑に結われた暗赤色の髪が揺れ、毛先の飾り玉がしゃらしゃらと鳴る。
表情こそ見えないが、隊長の出現に驚きおののいている様子だった。
「お待ちを」
怯える姫君を意に介さない隊長の足を止めたのは、姫君の侍女だった。
この侍女は姫君の信頼が厚く、もっとも頼りにされている人物だ。
臆病な姫君の世話をこまめに焼き、その意思を誰よりも尊重し、隊長との仲立ちをしっかりと勤めている。
だが隊長からすれば、姫君には忠実だが、洒落っ気も愛想も、悲しいほどに欠けているという印象が強かった。
髪も目鼻立ちも。それなりではあるが、見た目はけして悪くない。姫君の侍女に選ばれるだけあり、良いところの育ちなのだとひと目でわかる立ち居ふるまいでもある。
磨けば光る玉に違いなく、あの姫君相手ではさぞや苦労しているだろうと、道中少しばかし優しくしてやったのだが、露ほどもなびかなかった。
ぴっちりと纏めあげた髪は、冗談の通じない生真面目さを、雄弁に物語っている。愚鈍な姫君にふさわしい、実につまらない女なのだった。
侍女は無表情に姫君と隊長の間へ立ちはばかり、抑揚なく言った。
「隊長自ら何用です。伝令をお聞きになっていらっしゃらないのでしょうか?」
「姫君に直接、お伺いをたてに参った次第だ。下女は引っ込んでおれ」
侍女が視線を投げかけると、護衛は少々ばつが悪そうに目を逸らした。
「このように、申されましたので」
隊長の横暴さを前にしても、侍女の態度は変わらず淡々としていた。
「何をお知りになりたいのでしょう」
やはり面白味のない女だと、隊長は鼻を鳴らした。侍女の背後に隠れた姫君に向け、大仰に言い放つ。
「撤退をお命じになられたようですな。それは何ゆえでございましょうか?」
すると侍女の背後に回っていた姫君が、もじもじとその袖を引いた。双方には背丈に差があったため、侍女はいくらか身をかがめて、耳を傾けなければならなかった。
そうして耳打ちされた侍女が告げたのは、護衛の伝令と、ほとんど同じことだった。
「――姫君は、この進軍が無意味だと仰せです。このまま続けて、たとえこの場をうまく収めたとしても、犠牲の方が多い。なのに得られるものはさほどもありません。――これ以上は隊長殿が、自らの首を絞めることになるでしょう」
侍女の言うことに、従者はますます驚いた。長く箱馬車に籠っていながら、姫君は誰よりも現状を把握していた。
侍女は姫君に向けて頷きながら、更に続けた。
「しかし今すぐ撤退し、本来の任務に戻られるのであれば、わたくしが擁護できるところもありましょう――と、仰られております」
隊長はかっと目を見開かせた。
握りしめられた無事な方の拳が、わなわなと震えだす。
「――何が」
そして突然、手負いとは思えぬ素早さで侍女を突き飛ばし、姫君の胸倉を掴みあげた。
「何をなされます!」
倒れ込んで侍女は叫んだ。淡々としていても、この事態にはさすがに表情を強張らせていた。
とっさに腰の剣に手が伸びた護衛を、侍女は手で制した。
片腕とはいえ隊長は尋常ではなく、迂闊に動けば姫君が危うい。従者は戸惑ったが、まずは侍女を支え起こすことにした。
「何が、擁護か。この小娘めが! 一丁前に、俺を脅しているつもりか――愚鈍極まりないお前を、ここまで手厚く守ってきてやった、この、俺を! 自ら戦士たちをまとめ上げることもできぬお前に、何ができようか!」
隊長は目を血走らせて、唾を飛ばした。
「戦に犠牲はつきものなのだ。その先にこそ真の勝利が待っているというのに! 撤退せよだと? この状況で撤退などすれば、それこそ、悪戯に味方を失っただけで終わるではないか! 俺のこの腕とて――それを、貴様!」
追いつめられた神経でのたまいながら、激しく姫君を揺さぶる。
姫君は首をのけぞってつま先立ちになり、苦し気に呻いた。目を覆いたくなる光景だった。
それがより、隊長の嗜虐心に火をつけた。
「いや、それともいっそ、これは好機か? 迂闊に敵の前へと舞いでて、捕虜になったお前のために、進軍したのだということにしてしまおうか――ええ? 告げ口できるものならしてみろ! できぬ身体にしてやろうか――」
はらりと、薄衣が完全にとれて姫君の顔が顕わになる。暗赤色の髪が頬にかかるのは、道中何度も見てきた憂い気な細面だった。
しかし隊長はその顔を見て、違和感を覚えた。
暗いとはいえ、昼の野外で初めてまみえたその顔。世界の支柱の破片に照らされたその顔は、恐怖に満ちた目元と歪む口元に、細かな皺がいくつも刻まれていた。
皺にはドーランが埋もれ、淡黄色の肌が粉をふいている……。
厚化粧を施した年増女のそれだった。
「あ……ぅ……」
榛色の瞳に涙が溜まり、震える唇が苦痛ではくはくと開かれる。赤い紅に縁どられた口内を見て、隊長は我が目を疑った。
姫君には舌が無かった。
暗い肉色の喉奥がのぞける程の根元から、無惨に断ち切られている。それも昨日今日ではない。何年も前からそうだと思われる傷だった。
――ではあの耳打ちは?
この姫君はどうやって、自らの言葉を代弁させていたのだ。
「支離滅裂だこと」
冷たい呟きに、背筋がぞわりと総毛立つ。
隊長がふり返った先で、従者に支えられていた侍女が自ら立ち上がり、裾を払っていた。
編んで纏めあげられていた髪がほどけ、細い肩や背にこぼれうつ。侍女は一度従者にちらりと目配せした。そのまなざしを受けて、従者は揺らめく火が灯ったように錯覚した。
侍女は唇に細い指を這わせて顔をしかめた。
「まったく乱暴な。口が切れてしまったではないの」
「おい……これは……どういうことだ?」
「どうとは?」
侍女は小首を傾げた。
「これは……これはいったい何者だ! これは姫君ではない! 姫君はいったい――何処に――」
能面のようだった侍女の無表情がふいにほころび、血の滲んだ唇が、匂いたつほどのあやしさで弧を描く。
「貴様の求める姫君なぞ、どこにもおらぬわ。はじめからね」
いるのは、不器量な蛹を脱ぎ捨てた艶やかなる蝶だった。
隊長も従者も、そろって全身に冷や汗が吹き出していた。侍女は、蝶の羽ばたきの優雅さで一度手を打った。
「シグルド」
無言のまま前に進み出たのは、護衛だった。彼は瞳に剣呑な光をたたえ隊長を見すえた。
「戯れはしまいだ。許す」
「はい」
短く返答すると、護衛は腰にしていた細みの長剣を鞘走らせた。
隊長は自らの喉元が一瞬、冷たい物でなぞられたのを感じた。そしてひと息ののちに、熱い物がそこからだらりと流れ出した。
何が起きたのかわからぬまま、隊長は膝をつき喉元を押さえ、清かにして豊かなる声が朗朗と告げるのを聞いた。
「たび重なる任務放棄。状況の悪化を悟れず無謀な進軍。血族の名を嵩に己の目的遂行のみを優先」
ぎりぎりと、ぎこちなく動く首が見上げた先、これまでたいして気にも留めていなかった侍女の表情を、改めて見た。
燃えるまなざしが――一切の慈悲も無い、炎のまなざしが隊長を見下ろしていた。
「貴様の所業を、細かなところまですべて述べたらキリが無いが――。一番はこのわたくしを、侮ったことであろうか。斬り捨てるには充分かと思うが、いかが?」
「よろしいかと存じます」
護衛が頷いた。すっきりと溜飲の下がった表情だった。
(違う。侍女ではない)
成り行きを呆然と眺めていたばかりの従者も、この頃には理解していた。
(このかただ……このかたこそが、そうだ)
従者は、わし掴まれた心臓がどくりと湧きたつのを感じた。
(このかたこそ、我らが女神の……)
熱く滾る血潮が冷めきっていた全身を駆け巡り、魂が歓喜に震えて涙が滲む。
姫君は、優しく微笑みながら隊長に向けて言い捨てた。
「今回のことは、よい学びになったよ隊長殿。不相応な大義を課せられて、随分と気をもませてしまったようだね。でもこれより先のことは、もう、気にせずともよろしい。――貴様なぞの支えが無くとも、わたくしの足元は揺らがないの」
隊長は絶句しながら、自らの血溜まりの中で果てた。
* * *
答えるべきか否か。フェンリルが選んだのは沈黙だった。カザドは知らないことなので、当然無言でいた。
やがて少女を天幕に促がした戦士が、フェンリルを鞭で打ちすえた。
「フェンリル!」
カザドが吠えて身じろいだ。戦士はそちらには気をまわさず、自らが痛めつけた相手に向け冷然と命じてきた。
「問われているのだ――即答えよ!」
真新しい痛みに、頭の中が白く明滅した。矢の刺さった側を庇うようにして、顔を敷物に預けてフェンリルは呻いた。
「こら」
少女が戦士に言った。
「それでは、答えられるものも答えられない。ほとんど虫の息だもの」
少女は自らの顎に細い指を這わせて、思案気に呟いた。
「問いかけの意味がわからない? もしくは言葉がわからない? 共通の言語のはずだけれど……ああ、耳が聞こえないとか?」
フェンリルはこの少女が何者であれ、少なくとも味方ではないと思った。
その虫の息の相手が、更に痛めつけられる場面を前にして、出てくる言葉がこれなのだ。遙か高みから投げうつような、傲慢さがある。
「……そいつは。そいつの腕は、どうなった」
フェンリルは、途切れ途切れにささやいた。
「あれじゃあ、もう、斬り落とすしかなかったんじゃないか……」
「まともな治療はしなかったよ」
意外にもきちんと、少女は下衆の行く末を教えてくれた。
「傷が元というわけではないけれど、その前に、女神の懐へと抱かれてしまったから」
女神の懐――ではつまり、あの下衆め――死んだのだ。
少々呆気にとられたのち、笑いがこみ上げた。
「ざまあみろ」
嘲笑と共に言い捨てたフェンリルに、少女はかすかに目を見開かせた。それから口元を、華やかにほころばせた。
「――お前たちがやったことを、責めるつもりで問うたのではないよ。先に進軍したのはこちらだもの。ただあんなことをしたのが何者か、知りたかっただけ」
「そっちこそ誰なんだ」
戦士が眉根を寄せて、かっと目をいからせた。
再び鞭がしなるかと思ったが、少女が制した為それは無かった。「不敬者め」と、口の中で呟くのみに留まらせている。
少女はうっすらと柔らかな笑みを浮かべたまま、その場にしゃがんでフェンリルの顔を覗きこんできた。
「こんな状況なのに、物怖じをしないね。お前」
小首を傾げると、頬にかかる髪がさらさらと音をたてた。どこか甘い、春の花のような香りが降ってくる。
そして少女は優雅な細長い指先で、ふいに、フェンリルの目に突き刺さったままの矢を掴んだ。
突然のことにフェンリルは、絶叫を上げてもがいた。しかし戦士に背中と足を押さえつけられて抵抗できず、成り行きを受け入れるしかなかった。
椀の底を掻き回すような手つきだった。丁寧に、ゆっくりと、眼窩の奥が回り、底の何かが断ち切られる。
やがて相手がその優しげな手で引き抜いた矢の先には、差し込む光にてかる、血に濡れた目玉が突き刺さっていた。目玉の尻から垂れ下がる神経から矢の軸をつたう血が、少女の指先から手首を濡らしている。
引き抜かれる際の激痛に、フェンリルは吐いた。
空になった瞼の奥からどぼりとこぼれた血液と、自身の吐瀉物が混じるそこに顔を落とし、その中でまた吐いた。カザドが繰り返し彼の名前を叫ぶのが、どこか遠くの出来事であるようだった。
苦痛に喘ぐ彼に、少女の声が降り注いだ。
「わたくしはアルディーズ」
アルディーズ?
「アルディーズ・ネル・フリーヤ・ミドガルズ。現地帝ダナヨルダの第二子にして、ミドガルドの主、アマナ女神の血を引く者である」
アマナ女神?
「姫さま。このような者に名乗るなど」
「わたくしは名乗りを恥じたりはしないよ。相手が何者でもあってもね。――むしろいっそ、二度と忘れられぬようにしてあげる」
【次話】
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