【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【62】
第八章――炎の子 後編【Ⅷ】――
戦士が諌めたが、アルディーズの声はどこまでも涼やかだった。
「ああ、そうだった――お前、入っておいで」
促がされておずおずと天幕に入ってきた人物に、アルディーズはたずねた。
「これがお前の嘆願していた、青髪の天の民と思うが。いかが?」
嘆願と聞きつけ、フェンリルは落ちかけていた意識を再び浮上させた。そしてぶれる視界で、その人物を確かにとらえた。
焦げてより鳥の巣のようになった金髪。血の気が失せてそばかすが目立つわし鼻。光のない紫紺のまなざしがこちらを見下ろし、それは小さく頷いた。
「そう。それは良かった。でも――どちら?」
ボズゥの真っ白な顔に、みるみる汗の玉が浮き、滝のように流れ出した。選択を迫られながらも答えられず後ずさり、ただ小刻みに首を振る。
フェンリルは腹の底で、長虫が這いまわるような気持ち悪さに襲われた。
そのうち、アルディーズのほうが折れた。
「まあ、どちらでもよいか。――おや」
アルディーズが再び視線を落とすと、自身の汚物の中で、フェンリルが息も絶え絶えに、這っているところだった。
ずる、ずると、ボズゥに向かって。
何故お前がそこにいる。何故。何故。何故!
ボズゥ、お前、いったい、何を連れてきた?
いったいこの地に、何をもたらした――。
聞きたいことは黒い衝動へと転じて、喉元からせりあがる。だが言葉にはなっていなかった。
恐怖か。嫌悪か。ボズゥの表情が歪んでいく。
「これはいけない。魂の戒めをここへ。――まずはこの血気をくじかなければ」
冴え冴えと命じるなり天幕を立ち去るアルディーズに代わり、新しく別の戦士が入ってきた。その手には、網目の入った蓋つきの小さな入れ物が乗っていた。
拘束されているフェンリルたちでは、どうあっても届かない場所にそれを置くと、蓋が開けられ、中に火がぽとりと落とされた。
間も無く網目の隙間からゆっくりと、くゆる白い煙が雪崩れてきた。
戦士はしっかり煙が吐き出されたのを確認すると、フェンリルたちには一瞥もくれずアルディーズと同じく天幕を後にした。
更にボズゥ、最後に鞭うった戦士と後に続く。
わずかの光も入らないほど入口がぴったりと閉ざされると、敷物の上を這うように広がる煙の白さがよりくっきりと際立った。
「フェンリル――フェンリル、聞け!」
暗闇の中、カザドがにじり寄ってくるのを感じた。
「この煙は奴らが好んで使う香だ――吸い込めばたちまち、意思の自由を奪われる」
最悪なことを聞いた。こんなもの――好調ならたやすく吹き飛ばせるだろうに。頭の奥がずっと、激痛でずくずくしている。
「こんなものをわざわざ使うということは、奴らは、俺たちを殺そうとまでは思っていない。生きて帝国に差し出す気だ。生きた青い髪の天の民は、希少だからな――」
カザドは早口でまくしたてた。その間にもみるみる煙が充満していく。獲物を囲いゆっくりと追いつめる、蛇のように――。
「フェンリル、今は耐えろ。今は俺もお前も、満身創痍だ。だが耐えて待てば、必ず脱出の機会は巡ってくる。必ず奴らは油断する――その時を待て――待つんだ――良いな――退路は、俺が――」
カザドの呼吸が間延びしたかたと思った矢先、ふいにごとりと倒れ込んだ。目の焦点が合わず、表情はだらりと弛緩し、口の端から涎が垂れるほど緩みきっている。
煙の効果を目の当たりにし、フェンリルは身の毛がよだった。この煙を吸い込んではならない――。だが呼吸せずにいられるわけもなく、すぐに喉の奥に、甘さのある苦味が広がった。
世界がぐるりと回転する。もしかしたら回っているのは、フェンリルのほうかもしれない。
そうやって二人、ぐるぐる混濁する意識の中に堕ちていった。
* * *
「さて、この先の指揮はわたくしがとろう。異論あるか?」
「ございません」
「うん。では急ぎ戦士たちを集め、撤退といこう。やれやれ、これでやっと帰れるわ」
「一言だけ、よろしいですか?」
「うん?」
アルディーズが視線を投げかけると、シグルドは眉間に皺を寄せた。
「お戯れがすぎます。あまり冷や冷やさせないで下さい」
アルディーズは目をしばたたかせ、くすくすと笑い声をたてた。
「はあい」
全然伝わっていない気がして、シグルドはより渋い顔になった。
正体を知らずとはいえ、突き飛ばされたことを思い出せば憤死しそうになる。あのような暴挙、許すべきではなかった。
アルディーズの考えを、すべて把握できるなどとはおこがましいが、もっと早くに対処もできただろう。何も彼女自ら、危険に身を投じずとも……。
(あのようなやつらばかりを寄こして……帝国はどういうつもりだ)
これからのことを思えば頭が痛くなる。シグルドは深くため息を吐き捨てた。
シグルドの心痛など知らず、アルディーズはその赤い髪を手で肩に払い、後ろをとぼとぼと歩いていた、みすぼらしい鳥の巣頭を示して言った。
「この件の最大の功労者と言えば、お前だろうね」
シグルドは信じられないと目をむいた。
「姫さまが望まれた進軍ではないでしょう。何より――こいつは天の民ですよ」
「取引を軽んじれば、それこそあの愚物と同じよ。なんと言ったかな、お前――。こら、聞いていて?」
アルディーズがぱんと手を打つと、少年は垂れ下がった暗い眼を向けて、のろのろと呟いた。
「……ボズゥ」
そのあまりにもふぬけた態度に、シグルドは苛立ちを覚えた。だがアルディーズは意に介さず続けた。
「そうそう、ボズゥ! 感謝するよ」
「……感、謝ぁ?」
アルディーズは頷いた。
「あの手の古参連中は、少々目の上のこぶでね――。いずれ、ふるいにかけねばと思っていたんだよ。そこでお前の手引きだ。予期せぬより道に辟易していたが、僥倖だったよ。おかげでいくらか、帰りの足が軽くなった」
「……はぁ?」
次の瞬間、ボズゥははじかれたように叫んでいた。
「――だ、騙した!」
アルディーズはきょとんとした。
「騙したとは?」
「たっ、助けるって、協力すれば助けるって、言ったのに――なのに、あれじゃあ――あんな、ぼろぼろじゃあ――」
「助けたろう。命はね。あとは知らないよ」
一度はすげなく返したアルディーズだったか、絶句するボズゥを前に、紅をさした唇をすぼませた。
騙した覚えはないが、確かにこれでは野犬を拾っておいて、餌も与えず放っておくようなものと気づいたのだ。
「まぁ、言うなれば……あれは相当なくせ者とみた。いくら天王と近い体色でも、手懐けるまでの労力や時間を思うと、ね。わたくしもそこまで暇ではないのよ。これから帝国で、せねばならぬことが山ほどあるのだもの」
そして良いことを思いついた。
「そうだ――あの天の民たちの世話は、お前にまかせてあげることにしよう。嘆願するほどだ。近しい間柄なのでしょう? お前からの世話なら、きっと向こうも、喜んで受け入れるのじゃない? いかが?」
「嘘つき!」
しかしボズゥは声をより張り上げた。アルディーズは一瞬、首輪をつけた野犬に、吠えかかられたような顔をした。
「よくも騙した――おれをぉ、おれたちを――こんなことをおれにぃ――ボザを! 嘘つき! よくも、こんな――こんなことをぉ……」
今にも掴みかかりそうなボズゥの様子に、シグルドが腰の剣に手をかけた。ボズゥは今さらもう、どうなっても良い気分で叫び続けた。
「あんたはぁ――あんたらは、なんでこんな酷いことして、平気でいられるんだよぉ! 女神がそんなに偉いのかぁ! おれたちだって、おれたちだってなぁ、あんたらと同じように人間なんだよぉ! それを……それをぉ……返せよ……全部返せよぉ! ボザを返せぇ!」
ボズゥはこんなことしたくなかった。
なのに、せざるを得なかった。
失ったものはあまりのも大きく、多い。
ボズゥは膝からくず折れ、大声で泣き喚いた。
すべてはヨトゥンヘイムへの抜け道について、教え聞かされた夜だった。
それは突然天幕を押し広げ、中にずかずかと入ってきた。
思い起こせば予兆はあったのかもしれない。油断しきっていたという訳でもない。あえて言えば間が悪かったのだろう。
黒くなめした革の外套に房飾りのついた帽子。黒や茶や黄色の肌を持った、暗い眼をした女神の戦士たち。
ボズゥの頭が何かを判断するより先に、まず動いたのはボザの叔父だった。側の手斧を振りかざして「逃げろ」と叫んだ彼は、瞬く間の内に斬り捨てられた。
続けて立ち上がった父親も、無慈悲な刃の元に倒れた。
「とうさま!」
ボザの悲鳴が上がった。
「とうさま! とうさま!」
倒れて血を噴く父親に縋りついたボザのみつあみを、戦士の一人が掴みあげた。
金の房飾りを揺らした壮年の戦士は、彼女を乱暴に引きずって大声を出した。
「聞け小娘――聞け! 我々はある商家から逃亡した奴隷を追っている。何か知らないか?」
自分の要求はすべからず叶えられるべきだとでも言うような、横暴さに満ちた口調だった。
何を問われているのかまったくわからない――ボズゥもボザも同じ気持ちだったに違いない。恐怖で歯を鳴らしながらボザは答えた。
「し……知らない」
「卑しくもお前たちなどと、交流を図るような不埒者どもだ。知らないはずはないだろう。答えろ!」
しかし男の中で答えは決まっており、それ以外を聞く気は毛頭ないようだった。
「知らない! 知らないったら知らない! なんのことだかわからない……!」
かぶりを振ってボザは叫んだ。
彼女の視線はこときれる寸前の父親に向けられていた。
そして絶え絶えの息で、ボザを掴みあげる戦士の足に手を這わせていた父親の背中が、突然貫かれた。
「いや!」
戦士がさも汚いとでもいうように顔をしかめて、ボザを突き放す。
悲痛な泣き声をあげて父親に寄りすがろうとしたその背に、刃が振り下ろされた。
彼女の身体はのけぞり、空をあおいで父親の背中にどっと倒れた。
まなざしが、腰をついて目ばかりとなっていたボズゥをとらえる。悲しげにさまよう腕がこちらに伸びたが、届かなかった。
かすかな呼吸を二、三度くりかえしたのち、ぱたりと指先が地面に落ちた。急速に菫色の目の光は失われ――何も映さなくなった。
ボズゥは一連の凶行をただ見つめていた。ボザを放せと立ちはだかることも、やめてと縋ることすらできず、ただただ呆然と。
ボズゥとそろいの名をもった少女が、目の前で成すすべもなく、その理由もわからずに殺された。
「……はっ、あっ」
喘ぐように息を吐いたボズゥの胸中は、ただひとつのことで占められていた。
「これは何ごとだ」
突如、明瞭な声が天幕に響き渡った。ボズゥは心のどこかで、一瞬、甘い期待がよぎった。
だが現れたのはこれまた同様の格好をした若い戦士であり――そしてこれはアルディーズの護衛その人であり――彼は天幕に入ってくるなり房飾りの戦士に詰め寄った。
「――地の民、天の民共に、中央に集め詰問するのではありませんでしたか?」
相手はうるさそうに顔をしかめた。そして、たった今斬り捨てたばかりのボザたちを一瞥して嗤った。
「何も知らないということだった――どうやら人間の言葉がわからない種類の獣だったらしい」
ボズゥは一瞬呼吸を忘れ、残った涙がこぼれ出たボザの目を呆然と見つめた。
たやすく踏みにじられた命を見つめた。
じきにボズゥも、このようになるのだ。
彼女のように、誰からも顧みられない。
そんな、命だったものになる。
その後市にいた面々が連れて行かれた先で、戦士たちが何を求めているのかを知り、ボズゥはまっさきに口を開いた。
ボザたちと行くはずだったところ――そこへの道を明かす代わりに、命乞いし向こうはこれを了承した。
戦っても勝ち目はないだろう。
だが満足すれば、彼らは早く立ち去るかもしれない。
犠牲だって、少なく済むのじゃないか?
その為に、ボズゥができることは何か。
愚かな賭けの先に待ち受けたもの。
それは。
「よくも、よくもぉ――」
この地獄をよく見ろ。見るがいい!
お前が女神の血を引くなら、自らのもたらしたこの現状を見てみろ!
不幸に打ちのめされる様を見せつけるようにボズゥは喚きながら、どこかで、こんな地獄を嘆ける自分はやはり根っからの悪人ではないのだと、密かに安堵していた。
たとえ同族に何をしたのであろうと。
仕方がない。
仕方がないことだったのだ。
死にたくない。
ただそれだけだった。
すべては、こいつらのせいだ。
女神の戦士と、それを率いていた、女神の娘が悪いのだ。
沈黙していたアルディーズだったが、やがてゆったりとした足取りで、ボズゥの元へ歩み寄った。
「姫さま――」
シグルドは呼びとめようとしたが、彼女の表情を見て痺れたように動けなくなった。
アルディーズはひとり、ボズゥの前に屈んでそっとささやいた。
「まるで人を、悪の権化か何かのように言う」
後頭部にかかる甘い香りの髪と、降り注いだ声に潜む怒りを感じ取り、ボズゥははっとした。そして突然アルディーズに顎を掴まれ、首を仰がされた。
彼女はたおやかな手で弄んでいた矢尻の先のそれを、ボズゥの口に突っ込んできた。
「食め」
業火のまなざしがボズゥを焼いた。
聞き間違いであってほしいと願ったが、陰って読めない表情で、彼女はもう一度命じてきた。
「食んで、飲み込め」
ボズゥはいやいやと首を振った。
このような細腕、その気になればいくらでも叩き落とせる。
そのはずなのに、腕力とは異なった圧力が、逆らうことを許さなかった。
ゆっくりと口内に押し込まれたそれに、初め、ボズゥはえづいた。それでも押し込まれて喉元を塞がれそうになり――とうとう歯をたてた。
薄皮に包まれた弾力のある果実のような歯ごたえの後、ぶちゅりと、塩っぽい液体が口内を満たした。
「吐きだせば殺す」
息が止まりそうになりながら、無心でボズゥは顎を動かした。
狩りで盗った獣の生肉や目玉を、そのままで食べたことは何度もある。
だがこれは人間の――それも、フェンリルの目玉だと言う事実が、その味を、感触を、きちんと知ることを拒否していた。
矢尻で口内を傷つけないように、慎重にその周囲を齧りとる。体液と混じった唾液が、口の端から溢れ出て首筋に垂れていく。やがて矢尻とは異なる、こりっとした物が歯にあたり全身が粟立った。
これ以上は無理だと判断して飲み下そうとする。
喉を通りそうで通らない――。中途半端に咀嚼された塊に何度も喉が塞がれ、何度も吐いてしまいそうになった。
それは長い時間に感じられた。
済んだ頃には顔中、涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃになり、全身で息をしていた。
そのままうつむきそうになった頭をわし掴まれ、再び顔を仰がされた。
「ごらん」
アルディーズは命じた。
彼女が示す先でいくつもの煤煙が上がっていた。
すっかり燃えきり炭化して崩れた家畜小屋のほか、焼け出されてさ迷う煤けた家畜が、荒らされた天幕が、天の民の亡骸が、無数に転がっている。
今日までそこで、息づいていたはずのものが――。
「捕らわれたあの日、お前は選ぶことができた。自分か。仲間かをね」
アルディーズの声は非情だった。
「あ……あ……あぁ……」
「沈黙を守って、果てることだってできた。――そうしなかったのは、お前じゃないの」
ぱっと、ふいに頭を掴む手が離れ、髪が視界にかかる。
この時になってやっと、ボズゥは気づいた。
自分は生き延びたのではない――単に、死ねなかったのだ。
「ああ……ああぁ……あぁぁぁぁぁぁああぁあああぁぁあぁ……」
ボザの笑顔が浮かんでは消え、ボズゥはその場にくずおれて顔を掻きむしった。
だがアルディーズが、それを許さない。
「こらこら、立ちなさい。誰が座って良いといったの?」
促がされるまま立ちあがる。
涙も出ない。悲鳴のひとつもあげられない。
そんな絶望を、ボズゥはこれまで知らなかった。
知らずにすんでいたのが、どれほどの幸運だったか――気づいたところでもう何も、彼の元には残っていない。
空っぽになってしまった。
「さて――ボズゥ?」
アルディーズが優雅に微笑んだ。
「わたくしはお前を哀れに思ってはいるし、働きに見合った褒美を用意してやろうというくらいには寛容だ。お前がどう思っていようとね。ただしこれは、きちんと使えるならの話。――どうする? この手をとる?」
ボズゥは差し出された手の甲を、無気力に眺めた。
(あれぇ……?)
爪の先まで整えられ、傷一つ無い淡黄色の肌が、火の明るさに照り映える。女神と同じ赤い髪が――瞳までもが燃えるようにゆらゆらと揺れている。
アルディーズは美しかった。
(……これって、女神さまぁ……?)
近づく者に暖かく慈悲をふりまき、気まぐれに無情に、焼きつくす。そんな炎が人の形を成したような、壮絶な美しさだった。
きっともう、自分に微笑んでくれるのは彼女しかいないのだろう。
まだ自分にそんな余地があったことが嬉しくて――そう考えたことが、吐き気を催すほどに恐ろしかった。
(あの時、死んどけばよかったなぁ……)
そしてボズゥは、赤く、鮮やかに、焼かれた。
【次話】
【他本編】
これまでとこれからと。
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登場人物とか、小説ワンシーンとか、あれとかそれ。
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