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【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【63】

――終章――


 忍びよる痛みの気配に、フェンリルはもがき始めた。
 どれほどの時が過ぎたのかわからなかった。何度の朝と夜が訪れては入れ替わったのか。深く眠りについていたのか、はたまた一睡もしていないのかもわからない。
 周囲は天幕にいた頃と同じ重たい幕で覆われており、光の一切が遮られていた。常にごとごとと音をたてて地面が揺れていたので、幌馬車の中だったのかもしれない。
 しかしフェンリルの意識は濁りきっており、それが正しいかどうかもさだかではなかった。
 混濁の底から意識が浮上するのは、痛みがよみがえる時だけだった。それも、ほんのわずかの時だけ――その時にだけフェンリルは、とけきっていた自身の輪郭を取り戻す事ができた。
 手足の戒めはいつからか、動きやすい形に結び直されていた。
 その気になればいつでも、ほどくことができるはずだったのだが、意識がはっきりしてくるにつれ、どくどくと、痛みも脈打つようになる。
 鈍痛によって声がもれるようになると、直前まで、現状をどうにかするために湧きあがっていたあれこれが霧散してしまう。
 この時もそうであり、痛みに耐えきれず呻いていると、ふいに天幕が開いてボズゥがやってきた。

「フェンリルぅ」

 その背後には、戦士がひとり。
 ボズゥは必ず、誰かを伴って現れた。大抵は戦士であり、いつしか来なくなったが、小柄な地の民アマリの女が一緒だったこともある。
 女のほうは、ボズゥひとりでは抱えきれない様々な物を籠に持ち、てきぱきと手渡していた。一方の戦士は閉めきった入口に立ったままで何もしない。見張りだということはすぐに察しがついた。
 そして敷物の上で、芋虫のように蠢くフェンリルのもとに膝をつくのは、ボズゥだけだった。
 フェンリルに呼びかけ、支え起こすのも。食事を口まで運び、排泄の介助やら汚れものを片づけるのも。傷に巻かれた布を交換するのも……ボズゥだけが行った。
 ボズゥは甘ったるい香りのする水の入った椀を、フェンリルの口元にあてがった。
 飲んではならない。フェンリルは抵抗した。
 だが傍目には、彼が介助する人間にしなだれかかり、弱々しくしがみつこうとしているようにしか見えなかった。

「フェンリルぅ……」

 ボズゥはしつこかった。いつもそうだった。必ずそうやって、まずはこの水を飲ませようとする。
 今日こそはと思ったのだが、一度唇が湿るともう駄目だった。
 飲んでしまえば楽になると、身体のほうが覚えてしまっていた。結局今回も抗いきれず、においに反して酷い後味のその水を、残らず飲み干した。
 水の効果はすぐに表れて、フェンリルは呻きもがくことの一切をやめた。
 だらりと四肢は弛緩し、顔に巻かれた布をゆっくりと剥がされていく。時折べりりと皮膚が引っ張られた。
 痛みは続いていたのだが、じきにそれも鈍くなる。その間フェンリルはされるがままであり、大変素直なけが人だった。
 フェンリルの顔は、くりぬかれた眼窩から倍に腫れあがっていた。
 はじめに比べて、激しく出血することこそなかったが、代わりに滲み出た体液で瞼は癒着しており、拭えば膿混じりの血が溢れてくるようになっていた。時には鼻からも垂れてきたので、口内にも染み出しているのかもしれない。
 フェンリルが嫌がる水は薬の役割を担ってもいたが、本格的な治療には程遠い。今は水や酒で、傷をできるだけ綺麗にしてやるしか手立てはなかった。
 膿と血を拭うボズゥの、痛ましげな表情が癪にさわる。
 呪詛を吐くつもりの口に、匙があてがわれた。歯の隙間から冷めた粥を流し込まれ、食べたくはないのに、鳥の雛がするように口を開いてしまう。
 わずかに咀嚼し、飲み下す。惰性に満ちた給餌は、フェンリルがえづきだすまで続いた。

「……もうちょっと、さぁ。食おうよぉ……なぁ? ほらぁ……」

 ボズゥが苦しげに訴える。

「このままじゃあ、もたねぇよぉ……なぁ、フェンリルぅ? ほらぁ、ちょっとでいいからさぁ……頼むよぉ……」

 うるさい。黙れ。死ね。
 そう罵倒したはずだが、声にはなっていない。彼の意思は誰にも届かない。ボズゥが諦めてフェンリルの口元を拭き、横たえるのを、ただ受け入れるしかない。
 心と身体がちぐはぐで、形の違う入れ物に、無理矢理押し込められているようだ。怒りを表現する手立てが無いのは、惨めだった。
 横たわると、カザドの様子もよく窺えた。
 ボズゥひとりで大柄なカザドの世話を焼くのは、大層骨の折れる作業だったに違いない。ただでさえ遅々として進まない作業がより鈍重で、終わる頃にはいつも、ボズゥは汗だくになっていた。
 そしてやることを一通り終えると、やはりその日もボズゥは、あの煙の出る入れ物を置いていった。
 フェンリルたちの世話には、水も煙も欠かせないらしい。ボズゥはすっかり、地の民アマリの流儀に染まってしまったのだろうか。そんなものは望んでいないのに。それがわからないのだろうか……。
 煙る暗がりでも、カザドのまなざしはよく光る。なのに無気力だった。何かを映しているようで、何も見ていない。
 フェンリルも今頃、同じような顔をしているのだろう。ならば、もしかしたらカザドだって、抗おうとしているのかもしれない……。

(じいさん)

 せめてあの煙か、水のどちらかだけでも取りこまずに済むなら、また状況は違ってくるのではないか。

(じいさん……)

 カザドは耐えて待てと言ったが、いつまで待つものかもわからない。これではいざ脱出の機会が来ても、動けそうにない。
 煙が満ちると指ひとつ動かせなくなり、殺意も焦燥も、柔らかなまどろみに埋もれてしまう。
 何もかもが曖昧に、ふわふわ、ゆらゆらと、揺蕩ってゆく……。
 真綿の心地よさに逆らえず、フェンリルはまた、瞼をおろす。

      *   *   *

 あらゆるものを削ぎ落されることに慣れて、すっかり受け入れてしまった頃だった。
 気づけばフェンリルは、矢の刺さったライチョウを手にしていた。その隣ではトルヴァが狐を掲げて「やった!」と喜んでいる。
 渡された狐をいざ手に取ってみると、その毛皮は遠目に見ていたよりもたっぷりとしていた。

「ほら見ろ、冬毛のままだったろ?」

 トルヴァが勝ち誇ったように言う。つられてフェンリルも笑った。確かにこれなら良いお土産になる。きっと、グズリやルクーが良い具合に加工してくれるだろう。
 狐一匹分の毛皮で作れる物には限りがあるはずだったが、ライチョウも狐も、初春だというのに肉を蓄えてふくふくしていた。毛皮も羽も豊かで、何人分もの腹を満たせるし、いくらでも暖められる。
 これならダインやロッタの細々としたものを作ったとしても、まだまだお釣りがくるだろう。
 襟巻が良い。ヘルガはまだ髪が短いから。首元がいつも寒そうだったから……。いや、まずはケヴァンのものを作るのかもしれない。
 頼んだら、カザドのものも作ってくれるだろうか……。そこまで頼むのは、おこがましいだろうか……。
 側にやってきたハティが、おこぼれを期待して涎を垂らしていた。すぐにやるよと、首をわしわし撫でてやる。尻尾がちぎれんばかりに揺れる。
 すると気持ち良さそうに目を細めていたハティの毛が、漆黒になっていた。不思議に思ってよく見ると、それはスコルだった。

「スコル」

 これほど無遠慮に、スコルを撫でまわしたのは、初めてだった。
 雑に扱ってはいけないと常に遠慮してきたのだが、スコルは嫌がらなかった。それどころかなんと、ハティのように尻尾を振り、フェンリルの顔をなめさえした。

「スコル」

 嬉しくて、フェンリルはスコルを抱きしめた。乾いた土のようなにおいがした。
 琥珀の目が、暗がりの中で光っている。
 そうだ。この目はカザドにも似ているのだ……。
 そこでフェンリルは目が覚めた。
 いつのまにか地面が揺れなくなっており、常に周囲をとりまいていた人の声や足音が遠のいていた。
 フェンリルはゆっくりと瞬いた。甘美な夢の後味は苦かった。スコルの硬い毛皮も、舌の感触も、においさえも、生々しく思い出せる。しかし瞬くたび頭に響く鈍痛の前に、その感覚はあっという間に遠のいていった。
 見れば白い光が細く差し込んでいた……。ぴっちりと閉じられた入口がわずかに開いており、そこから隙間風が吹き込んできている。
 だがこれまでにもあったことだったので、たいして驚きはしなかった。そのたびにとうとう、どこかに到着したのかもしれないと何度も考えたのだ。ほとんどが混濁した意識の見せる幻だった。そのためフェンリルは、これも夢の続きだと思った。
 光の先にカザドが横たわっていた。そしてそのすぐ側に、スコルがいた。スコルはカザドの顔に鼻先を寄せて、何かを確かめているようだった。
 頬を風が撫でて、刺すような冷気にぞわりとする。フェンリルはここで初めて、夢ではないのかもしれないと思った。

(――スコル!)

 スコルが侵入したせいで、煙の流れが変わったのかもしれない。
 最後にあの水を飲んだのは、いつだったか。痛みがぶり返している。
 酷い気分だったが、そのおかげでフェンリルは、久方ぶりに心が湧きたっていた。

(スコル! スコル!)

 叫んでみたが、やはり声にはなっていない。
 だがスコルはこちらの望みを聞きつけたように、煙の出る入れ物に鼻を寄せた。狼にとっても、良くないものを嗅ぎつけたらしい。噛みつく手前のように牙を覗かせ、前脚でそれを蹴り倒した。
 中からこぼれ出た灰まみれの燻る香木を、更に踏みつける。一瞬もくもくと白い煙が膨れて立ち込めた。
 舞い上がる灰にむせながら、フェンリルは指先を動かそうと試みた。せめて、声のひとつもあげようと、全神経を振りしぼった。隙間風を慎重に辿り、充満する煙を外に吹き出そうともした。
 力むと鼻孔から臭くてぬるいものが、どろりと流れてくる。脳天が痺れるような感覚に首筋が粟立った。そういえば、においや暖かさとはこういうものだったのだ。そんなことすらも忘れかけていた。

「スご、ぅ」

 フェンリルはやっと、自らの喉が震えたのを感じた。スコルがこちらに近づいて、覗きこむように鼻面を寄せてきた。生臭い息がかかる。
 スコルは一度鼻先をなめとると、フェンリルの手首の戒めをいともたやすく噛み切った。
 フェンリルは解放された手を使い足の戒めをほどこうとして、指先が真っ黒になっていることに気がついた。
 硬くかさつき、全部の爪が浮き上がっている。根元だけが一線を引き、ただれた火傷のように赤い。凍傷だ。ここまできては、いずれ指が欠け落ちる。
 感覚のないまま結び目を緩めようとしていると、痛みも無く爪が剥がれてしまった。結局どうにもならず、足の戒めもスコルが噛み切ってくれた。
 そこから更に時間をかけてうつぶせ、肘から手のひら、膝から爪先に力を込め、カザドの元へと這いずっていく。やっとフェンリルは、自らの意思で動けるようになった。
 スコルは、フェンリルの首やら腰のあたりやらを、頻繁に咥えては釣るように引っ張った。子犬を促がすのと同じやり方だった。
 気の遠くなるような努力の末に、ようやっとカザドの元に辿りつき、フェンリルはしばらく彼の胸に頭を預けた。

「……じい、さ」

 耳を打つ鼓動は、自身のものか、カザドのものなのか。そのまま胸に手のひらを押しつけて上体を起こし、カザドの顔を覗きこむ。
 カザドの目は、瞳孔が大きく開き、金の光彩がくすんでいた。
 胸はかすかに……身体に触れて、よく観察してみて、やっとわかるほどかすかに、上下してはいる。
 しかし顔の半分を照らす光に、何の反応も示さない。揺すってみても、目も向けてこない。
 いつからそうだったのかはわからないが、カザドは。
 カザドは……。

「じいさん」

 フェンリルはカザドの胸に、再び頬を押しあてた。
 カザドから体温を感じないのは、指先が腐り落ちる寸前だからだ。あるいは身体の感覚が、まだ完全には戻ってはいないからだ。そう思おうとした。薄くなり、そげたようになってしまった胸板にも、気づきたくなかった。
 スコルが、裂けた鷹の刺青を労わるように、カザドの頬を優しくなめていた。
 一時激しかったカザドの咳が、徐々にかすれて弱っていくのを、すぐ近くで聞いていた。いつからかその咳を、まったく聞き取れなくなったことも。世話するボズゥの呼びかけに対して、フェンリル以上に反応を示さなくなっていたことにも気づいていた。
 わかっていた。
 恐れていた時が、ついに来た。
 わかっていた……。
 沈められていた激情が一気に押し寄せる。フェンリルは手さぐりに、戒められたままのカザドの手をとった。
 触れているはずなのに、確かにここにいるのに、もう、熱ひとつ伝わってこない。吐息が、鼓動が、あまりにかすかで聞こえない……。

「フェンリルぅ……」

 悲鳴を上げないよう唇を噛むのに必死で、背後の気配に気づいていなかった。
 聞き知った間延びする呼びかけを無視して、フェンリルはカザドの鼓動を聞き取ろうとした。スコルが低く、喉を鳴らし始めている。
 伴ってきた見張りの戦士が次の行動に出る前に、ボズゥは慌てて再び呼びかけた。

「……フェンリルぅ……まさか、じいさん、死んだのかぁ?」
「死んでない」

 フェンリルは即座に言い返した。

「まだ、死んでない」

 でも、それだけだ。
 ボズゥはスコルを警戒しながら、フェンリルたちに近づいた。見張りが腰の剣に手をかける。もろとも切り捨てられるのではないかと、冷や冷やした。
 しかし見張りが警戒しているのは死にかけのフェンリルたちではなく、ゆっくりと間合いを狭めるスコルのほうだった。
 ボズゥは慎重にフェンリルたちの側に膝をつき、説得を試みた。

「で、でもさぁ、きちんと治療してもらえるよぉ。やっと、到着したんだぁ。だから、もうこれで、二人とも……」
「さわるな」

 伸びかけていたボズゥの手の甲を、硬いものが打った。痛みであっと手を引っ込めると、フェンリルの手には、細い銀の鎖が握られていた。
 それは同じく銀製の腕輪を通した鎖であり、体を拭く際にもよく目にしていた物だった。
 なんとなく取り上げず、そのままにしていたのだ。

「もう、遅いんだよ。全部、遅い」 

 鋭さを取り戻したまなざしが、ボズゥを貫いた。顔の半分を覆う布がはだけて、血と膿が溢れ出す。

「ボズゥ、お前、お前は――」

 立ち上がろうとして、よろめき倒れ込む。フェンリルはそのまま、カザドにしがみついた。気づけば見張りとは別に、二人の戦士がこの場に集まっていた。
 戦士たちは、カザドの顔のあたりを無遠慮に爪先でつつき、仲間に向かって首を振った。その動作の意味に気づき、フェンリルは声を張り上げた。

「さわるな!」

 できることがないのは、誰の目にも明らかだった。フェンリルとてわかりきっている。
 天王の似姿とて、死に体をいつまでも世話するのは、資源も労力もかかる。

「誰も、さわるな――誰も――」

 取り押さえようと迫る見張りを、フェンリルは鎖で威嚇した。そこでとうとう、スコルが牙を向いた。
 腕を噛みつかれた見張りが倒れ込む。だが他の戦士によってあっけなく、フェンリルは引きはがされた。つむじ風を巻き起こそうとしたが、何も起きない。
 まったく無駄なことをしている――。それでもできる限り暴れようとして、悲痛な鳴き声にはっとした。スコルの脇腹を槍が貫いていた。

「スコル!」
「――香を焚け!」

 フェンリルを取り押さえながら、戦士が叫んでいた。乱戦状況に尻もちをついていたボズゥは、怒声に肩を震わせる。

魂の戒めドローミだ――早くしろ!」
「あ……」

 やるべきことは、もっと他にある気がした。
 だが考えを放棄して、ボズゥは持ってきた籠をまさぐった。彼らに従順でさえあれば、悪いことはすぐに過ぎ去るのだ。詳しいことは、嵐が過ぎ去ったあとで考えればいい。
 ふっと大きな影がよぎり、見上げておののいた。
 カザドが音もなく立ち上がっていた。

「――じ」

 開いた瞳孔のままで、幽鬼か何かのように青ざめこけた頬をさらして、カザドが戒められたままの両腕を振りかぶる。
 腕の肉に縄が食い込み、音をたてて千切れた。
 フェンリルを取り押さえていた戦士に、自由になった拳が叩き込まれた。

「ごおおおおおおあああああああああああああああああああああ!!」

 暗がりを切り裂く雄たけびと共に、戦士の頭がひしゃげた。肉片と血が一面に飛び散り、ボズゥが悲鳴をあげる。
 突然解放されたフェンリルは、呆然としてカザドを見上げた。
 立てるはずがないのに。どうして。どうやって。いったい、どんな奇跡がしょうじて――。
 カザドは全身で息をしながら、フェンリルのもとに膝をついた。ぐらぐらと上体が揺れ、覆いかぶさるように抱きしめられる。
 鼓動が聞こえる。吐息が、熱が――。

「……だ、いじょうぶ、だ……」

 とぎれとぎれの息で、カザドはもらした。

「おそろ、しい……ことな……ど、もう……」

 フェンリルは言葉をなくした。腕を背に、回そうとした。
 そしてカザドの身体を、冷たい鉄塊が刺し貫いたのを感じ取った。
 カザドの口腔から血が噴き出し、フェンリルの頬にかかる。
 その血は温かかった。

「いやだ」

 呟きは風にさらわれた。起き上がったスコルが、フェンリルの首根っこに飛びついて、カザドの腕からもぎ取ったからだった。
 スコルはそのまま天幕を飛び出した。
 突如現れた血まみれの狼と、ずたぼろになった青い髪の天の民ヴィトに、戦士たちが驚愕の声を上げる。その間を縫うようにスコルは駆け去った。
 スコルはここにいてはいけないと、誰よりも早く決断しただけだった。つがいの死を前にした彼女の本能は、今や、その子の命のみで占められていた。
 本能が示す先、そびえ立つ城壁の下に等間隔に掘られた穴のひとつに、スコルは飛び込んだ。
 濃密な闇が広がっていた――スコルとフェンリルはともども全身を打ちつけた。
 掴むものもないまま螺旋状に滑り落ちていき、あちこちぶつけてたどり着いたのは、じっとりと湿っぽい地面だった。

「……スコル」

 喉はかろうじて潰れていないが、灯りひとつありはしなかった。
 スコルと自身の息遣いが聞こえなければ、あっという間に正気を失っていただろう。それほどに深く、音を吸い込む、しじまの底だった。
 手さぐりに硬い毛皮を探り当て、上下する熱い体に触れた――。鎖が巻き付いた手のひらが、濡れていく。鉄臭さが鼻をついた。腹の傷のせいだ。
 起きあがろうと試みて、フェンリルは自身のわき腹が焼けつくように疼くのを感じた。
 カザドを貫いた刃は、フェンリルにも達していた。わかったところでぐしゃりと倒れ込む。這いずろうにも、急速に力が抜けていく。
 ここがどんな場所かを探るのは早々に諦めた。何もかも、諦めるしかなかった。全身が苦痛に満ちていた。
 ゆっくりと地面に体温が吸い取られて、カザドの熱の名残も失せた。もはやフェンリルは、ただ呼吸を繰り返しているだけにすぎなかった。
 まだ死ねないと思った。
 しかし死ぬのかもしれないと不安に駆られた。
 まだ生きていることが不思議だった。
 どうして死ねないのだろうと絶望した。
 そのくり返しだった。
 どれほどそうしていたのかわからなくなり、痛みを感じなくなった頃、やがて常闇の果てから、何かが近づいてくる気配がした。
 ちゃか、ちゃかと、硬い地面を弾くような音がする。それは四足獣がたてる爪の音だった。
 フェンリルは瞼を押し上げた。閉じてるのと変わらない暗さに、長いこと目を凝らしていると、やがて闇が瞬いた。
 見たこともない色で、二つの目が光っている――日差しに透ける葉藪はやぶの色に似ていた。
 スコルの体毛よりもなお黒い。常闇よりかたどられた生き物が、今、じっと、フェンリルを見下ろしている。

(……狼?)

 自然とフェンリルはその姿を思い浮かべていた。そして地の底の狼と言えば、ひとつしか思い当たらない。
 神代の時代、天王の首と世界の支柱ユグドラシルを噛み砕いた巨大狼。

(……天を喰らう狼ヴァナルガンド

 女神と共に地下へ隠れた狼は、フェンリルにゆっくりと近づいて、頭に鼻先を突っ込みにおいを嗅ぎだした。
 そして失われた眼窩に、生ぬるい舌を這わせてきた。

――第一部 天つ風 〈了〉――


【次話】


【他本編】

これまでとこれからと。

【登場人物のらくがき】

登場人物とか、小説ワンシーンとか、あれとかそれ。

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