【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【60】
第八章――炎の子 後編【Ⅵ】――
ついに解き放たれて、フェンリルは歓喜していた。
そっとなぞっただけ、ほんの少し突き刺しただけで、面白いくらいにたやすく、敵が倒れていく。
忌まわしい獣たちが、悉く怯え、逃げ惑っている。
上がる蒸気は濃い霧のようだ。
赤い脈動が瞬く間に熱を奪われ凍りつき、冷めて真っ青に染まっていくのはきれいだった。
染まる形はそれぞれ異なっている。あぶくの大きさも、また、それぞれだ。
もっと見てみたい。
どれほどのことができるのか、試してみたい。
うずうずするのと同時に、抗おうとする意志もあった。
――これはいけないのじゃないか――このままでは、すべてが駄目になってしまわないか――これは――これでは――。
しかし喜びの奔流のほうがずっと勝っていた。
――何故駄目なんだ。守りたいなら、あらかじめ、壊してしまえば良い。そう考えていたではないか。ずっと望んでいたことではないか。敵がすべていなくなれば、守る必要だってなくなるのだから。平和とはそういうものだろう。すべて消しさればいい。そうできるだけの力を、とうとう得たのだから。こんなに簡単だったのだから。難しいことはない。なんの不都合もない。何も無かった頃に戻るだけ。元々何もなかったのだから――その最初にもどるだけ。ほうら、やってごらん? ほら。ほうら! 無くなった! もう大丈夫! すっかりしずかに――くらぁくなった――これでもうだいじょうぶ! ほらね? ほうらね?――。
でも、まぁ、それもそうかと、押し流されてしまう。
抗うよりも、凍てつき焼ける疼きに身をゆだねてしまったほうが、渇望は簡単に満たされた。
そしてまたすぐに乾いて、渇える。次を探す。次の熱を求める。
――ほら、そこにいるよ。逃げているよ。にげられないようにしよう、こうしてね。ほうらね? 畏れているよ。おそれている。みんなもっと恐れるべきなんだ。もっと。もっと。おそれるがいい――
何かの拍子に、小枝の如くぺきりと折れた。短剣を取り落とすのは、もうこれで何度目だろう。大事なものなのに――まったく、この指ときたらもろくて仕方がない。うんざりする。でも大丈夫。握れないなら縛ればいい。これなら落とさなくてすむ。不便で壊れやすい器だが、橇と同じだ。きちんと補強すればそれなりにまた、使えるようになる。……そういえば、指先がすっかり青黒くなってしまっている。酷く冷えて痛むような気がする。……まぁ、でも、問題はない。痛みなど忘れてしまえ。乾きが満ちるまで、もてば良い。
だが乾きに底はなく、満ちることはないのに、ひたすら注ぎ続けなければならないというのが本当だった。
――ほうら。もうダイジョウブ! ほらね。ほうらね。まだ動くよ。まだまだできるよ! あれ? どうしたの――。
葛藤の波が打ち寄せる。
今にも押し流され、かき消されてしまいそうになる。
引き返す波が大きければ、打ち寄せる波もまた大きくなる。
そのような奔流をくりかえし、やがて、取り返しのつかない嵐となる。
――駄目だ。駄目だ、駄目だ――。カザド。せめて一度、カザドのところに戻らないと。あんなに血を吐いていた――側にいないと――ついていてやらないと。約束したのに。トルヴァ。ヘルガ。ルクー。ダイン。ロッタ。約束をした。探さなければ。一緒にいたい。会いたい。無事でいる? 本当に? どこにいる? エイナルと、ヴィーダルやヘイルの話がしたい。ケヴァンとグズリにお礼が言いたい。ブラギには謝罪を。感謝だってしている――本当に――本当に。――巫覡――あのままではいけない――閉じないと――馬。スキンファクシの子馬――スコル。ハティ。――探しに行きたい――どこに――どこに行けばいい――。
頭をふり乱す。
爪をたて、掻き毟る。
いっそこんなもの、割ってしまえば楽になるのではないか。
この肉の身体を脱ぎ棄てれば、どこへだって行けるのだろう。
それこそ、空にだって。
――望みのすべてを叶えるには、まず、成すべきことを成さなければ――
声が聞こえる。
誰だろう。
誰。
――私はアマナの血のような黄昏が見たい。はじめにそう、告げたはずだろうに――。
たそがれ。
黄昏。
そうだった。
そう。
でも。
どこに?
――あそこだよ。あそこ。世界の支柱。ほら。いっとう輝くものがあるでしょう。みえるでしょう。行こう。いこう! あれがそうだ! さあ、いこう! さあ――すりつぶしてしまおう――。
蠢く有象無象の中、確かにひときわ赤い、大きな揺らめきがあった。
そうか。
あれがそうか。
あれこそ、今、もっとも潰すべきもの。
求めるものに、もっとも近いものか。
確信に促がされ、急かされ、足を進める。
たそがれ。
黄昏。
一歩進むごとに割れていく熱の飛沫が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
邪魔だが、気持ちは急くが、これだって積もれば足しにはなるだろう。
すぐ近くの地べたでもがいている、それは世話しない鼓動のそいつを掴みあげる。
薄皮を掴み――剥がし――皮が――皮を――外套? 中身、が?
……こんな、淡い色だったろうか? もっと、こいつらは、暗くて、肌も目も髪も暗くて……。もっと……。
「や、やめ……やめて……許して……」
声。
声が。
訴える声が。
情けなく掲げられた腕に、恐怖で怯えていじけた目尻に、覚えがある。
? ? ?
どうして。
……どうして?
振りかぶった腕をおろせないまま、その名が思い浮かびかける。
どこかで、誰かが、玲瓏と命じた。
《眠れ。世界の支柱》
赤い光が一速に結びつき、空が閉じて断ち切られた。
光から解かれた重い雲のみが広がり、大気が凪いだ一瞬。
フェンリルの顔面に、内側でさく裂するような衝撃が走った。
「フェンリル!」
横倒しに倒れ、呻き声をあげるフェンリルに、カザドは叫んで取りすがった。
「フェンリル見せろ! 見せてみろ!」
内に丸まり蹲って悶える身体を、開かせようとするカザドの力に、フェンリルは無意識のうちに抵抗していた。頭を覆って、手足を突っ張り、ばたばたとのたうちまわった。
痛みから逃れようとする身体を全身で押さえつけ、顔を覆う腕をようやっと引き剥がす。
苦悶に歯を食いしばるフェンリルの右目には、深々と、矢が突き刺さっていた。
「っ……!」
カザドは息が止まりかけた。とっさにその矢を引き抜こうと掴む。だが途端に、フェンリルがはねて悶絶する。矢尻にかえしがついているのかもしれない。
ためらう間に、顔面のあちこちを血の川がつたっていく。
「フェンリル――フェンリル。今は耐えろ。いいな」
その間にも次の矢が飛んできていた。足を止めている場合ではない。
意識の曖昧なフェンリルを肩に担ぎあげ、カザドはその場を離れようとした。
だが前のめりに立ち上がったその際、彼らのすぐ側で目ばかりとなっていた少年を見つけてしまった。
「――ボズゥ?」
袂を分かったはずの、かつての養い子だった。
腰を抜かして蒼白な顔で、こちらを見上げるボズゥは何故か――暗い、地の民が着るような外套を羽織っている。
「……じ、じいさん。フェンリルぅ……」
「お前、どうしてここに」
「ごめんなさい。ごめんなさい。……お、おれ……おれぇ……」
浅い呼吸で世話しなく、頭を掻き毟る。尋常たる様子ではない。よくよく見ればやけに煤けており、髪のひと房が焦げて縮れている。
カザドは戸惑いながらも再び呼びかけた。
「ともかく、お前も来い! 早く――」
このほんのわずかなためらいが、彼らをここに縛り付けてしまった。
飛んできた矢にカザドの腿が射抜かれて、三人の頭上から投網が投げかけられた。
* * *
目尻を涙がつたう感触があり、フェンリルは目を覚ました。そしてすぐに、激痛に襲われた。
眼窩の奥のほうに不快感があり、目を開けていられない――だが閉じても痛みは無くならない。視線を動かそうとするたび、吐き気を催す激痛に支配された。
なんとか不快感を拭い去ろうとして、できなかった。腕が後ろ手に縛られ、足首にも縄がかけられていた。拘束された状態で、彼は敷物の上に転がされていたのだった。
大変難儀な思いをしながらなんとか頭を上げると、鼻筋につたった涙が次から次へと落ちてきた。鉄臭いにおいで気づく。流れていたのは涙ではなく血だった。
何が起こったのかわからずに、フェンリルは更に起きあがれないものかと試みた。よほどきつく縛られているのか、指先にほとんど感覚が無い。
「フェンリルか?」
身じろぐフェンリルのすぐ側で声がした。自信無げな声だった。目を凝らして見える限りの周囲に目を配る。動かすたび、眼球にごろりとする感触があった。それが痛みの元だった。
あたりは薄暗く、視界の右側が何かに覆われていた。焦点がなかなか定まらない。時間をかけて、片膝を緩めて胡坐をかくカザドを見出した。
「じ――」
言いかけて咳こんだ。口の中が妙にざらついていた。
「フェンリル、あまり動くな。――目を射抜かれてる」
カザドの呼吸が平常通りと知り、フェンリルはいくらか安堵した。それから目の違和感の真相もわかった。
矢尻がどこまで刺さっているものか知れないが、もう、使い物にはならないだろう。
「ここは――おれたち、どうなったんだ」
「覚えていないのか」
カザドは大儀そうに肩を動かした。
「戦士たちに囲まれて、最後には網を投げられて捕まった。ここは山壁に控えていた、戦士たちの本隊のうちだ」
「山壁……」
では、フェンリルたちがカザドを追っていったのとは、ほとんど反対の方にいるのだ。居住地まで通り越してしまっている。
そのうちに目が慣れて、カザドがフェンリル同様に拘束されていると気づいた。彼の腿はフェンリルの目と同じく、矢で射抜かれ刺さったままだった。
よほど長く同じ姿勢でいたようで、身体の片側が痺れていた。
再び苦労しながら身じろぎ仰向けになると、布地のたわむ天井が目に入る。彼らが囚われているのは小さな天幕の中らしかった。
フェンリルの知る天幕とは造りが違う。四方に柱を立て、布地を被せただけの簡易なもので、出入り口と思われる布の合わせから細く光が差し込んでいる。
首筋に触れる血で湿った敷物さえ、なじみのない感触とにおいだった。
天幕の外から、複数の人々の足音や馬の蹄の音がして、意味のわからない言葉を発しているのも聞こえてきた。
所詮は多勢に無勢。最後にはいともあっけなく、フェンリルたちは捕まったのだ。
こうして二人とも生きているということは、もろとも、あの下衆の元に連れてこられてきたのだろう。
フェンリルはふと気になって、声を絞り出した。
「……ス、コルと、ハティは?」
「逃げた。そう信じたい」
カザドにも確信が持てないようだった。
カザドが気絶してから後のことを、フェンリルはまったく覚えていない。そして今や、それらに思いを馳せてもどうしようもなかった。
「……死にぞこなった」
カザドがぽつりと呟いた。
「最後の最後でしくじったな。俺も、お前も。……まぁ、よくやったさ」
その声がやけに軽快だったので、フェンリルはつられて力の抜けた笑みをこぼした。どちらのものともつかない、そぞろ笑う声が、天幕の中に満ちていく。
やるだけやった。あがく力も、すべも、残っていない。五体満足ですら無くなった。でも不思議と、悪い気分ではない。長年の憑き物が落ちたような爽快さだった。
せめてトルヴァたちだけでも、逃げおおせてくれていると良い。思い残すのはそこだけだ。
その時、外の足音が天幕の前で止まった。フェンリルははっとして、どうにか身体を動かし、顎をついて膝立ちになろうとした。
「おい、動くな」
カザドが警告してすぐ、天幕の一部が広がり日が差し込めた。
外では未だ重い雲が垂れこめており、景色は暗かったのだが、灯りのほとんど入らなかった天幕内ではそれでも眩しかった。
今や、フェンリルの目にはわずかな光でさえ刃となった。体勢を整えることは間に合わなかったが、痛みを堪えて相手を見すえようとする。
これから来るのがあの下衆だと、フェンリルは確信していた。
フェンリルに腕を裂かれて落馬したあいつ――あの腕はきっと、落とさざるを得ないだろう。
相手がフェンリルたちをどうする気であれ、どうせ全部一度きりだ。せめて少しでも平気な顔で無様な腕でも拝んでやろうと、自らを奮い立たせた。最後の意地だった。
しかし戦士に手をとられてきた人物の姿は、予想とは大きく異なっていた。
それは額に重たげな飾りをつけ、炎のように赤いまっすぐな髪を背にさらりと流した少女だった。
すんなりと長くしなやかに伸びた背筋には、ヘルガに通じるものがある。それと同時に、隣に並び立つ戦士に対しては小柄に見えた。首など、ほんの少し力を込めただけで折れそうである。
これまで見たことないほどに身綺麗で、血生臭さや暴力事とは、一切無縁の人物と思えた。
なのに儚げというよりも、異質な崇高さがあった。
それは静かな表情の中で熾き火のように灯る、赤いまなざしのせいかもしれない。あるいは猛々しい戦士にかしずかれることを、当然として受けとっているたおやかな手指。
または、このように血生臭い者たちを悠然として見下ろす、立ち姿のせいかもしれなかった。
少女はカザドとフェンリルを交互に眺めると、冴えた低い声を発した。
「――これより先、問われることにのみ答えよ。隊長殿の腕をあのようにしたのは、いったいどちら?」
【次話】
【他本編】
これまでとこれからと。
【登場人物のらくがき】
登場人物とか、小説ワンシーンとか、あれとかそれ。
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