【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【57】
第八章――炎の子 後編【Ⅲ】――
人間ではなく、珍奇な動物に向ける発言をしたそいつの片手には、縄が握られており、ひとりの天の民が繋がれていた。それもまだ、額当てが取れていないような子供――ダインとロッタの間くらいの年齢だろうか。
両手をきつく縛られ、引きずられてつんのめったその金髪の子は、フェンリルたちに気づくと、既にぐしゃぐしゃの顔を更にゆがめて叫んだ。
「たすけて!」
即座に鞭がしなり、子供の耳のあたりが二、三度打ち据えられた。びしゃりという音の最中に「ぎゃあ!」と潰れた悲鳴があがった。
「やかましい! 誰が口を利いていいといった!」
子供の震える唇の隙間から、ぶうぶうと唾液まじりの嗚咽が漏れる。腕を引かれているため、顔を覆うこともできないでいた。
トルヴァの食いしばった奥歯が、ぎしりと鳴った。矢をつがえる指先に力がこもり彼の怒りに呼応するように、ハティの唸り声がより太くなる。
一方のフェンリルは、彼らを取り囲もうと広がる戦士たちを目だけで見回した。
扇状に広がった戦士たちはある一定より、距離を詰めてこようとはしなかった。表情には戸惑いと緊張が浮かんでいる。
フェンリルたちは知る由もなかったが、彼らは一度、自警団と刃を交えていた者たちだった。
馬を眠らせる歌に、軍馬相手でも引けをとらない統率のとれた一部の住人たち。彼らはヨトゥンヘイムの人々が黙って蹂躙される相手ではないことを、既に周知していたのだ。
緊張の理由は他にもある。巫覡がもたらした落雷は、巨大な光の柱のように凄まじく地上の人々の目を焼き、稲光と轟く雷鳴のあとで大きな地鳴りが続いた。
しばらく誰もその場から動けずにおり、フェンリルたちと同じく、初めてこの惨状を目の当たりにしたところだった。
そのうえで目の前にいるのは、尊き女神と対を成す敗北神を思い起こさせる頭髪の天の民。
降臨とまでは言わない。だが戦士たちの胸中に、侮りではなく畏れが芽生え始めていた。
戦士たちは足元の亡骸を踏みつけないように馬足を運び、槍や剣を構えていた。単に効率の問題かもしれないが、あの下衆よりはまだ分別がありそうだ。
フェンリルは横目でトルヴァを見た。トルヴァからは既に、戸惑いと恐れが消えていた。全身から怒りを立ち昇らせ、いつでも矢で射抜けるように身構えている。
……カザドの教えに準ずるなら、敵に取り囲まれた彼らは逃げの一手に集中すべきである。トルヴァとて、優先順位を間違えるなという忠告を、忘れたわけではないだろう。
だがたすけてという声を、聞かなかったことにもしたくないのだ。互いに同じ考えを抱いていると思った。
フェンリルは冷めきった目で、そいつを見すえた。
* * *
あの奇妙な落雷から半刻、すっかり隊は手薄だった。
姫君の護衛に残した者が数名。散り散りに逃げた鼠を追わせた者がいくらか。予期せぬ反撃と、無様にも雷の直撃を受け、戦闘不能に陥った若手たちが合わせて二桁。
山壁まで戻れば本隊が控えてはいるが、手ぶらで戻っては箔がつかない。立て直しのため、とうとう自ら進み出るしかなくなった。
現状はけして芳しくないが、やらねばなるまい。結果の為に尽力せねばならぬ時というのは来るものだ。
家畜小屋に隠れていた子鼠の鳴き声でも聞かせれば、親鼠共をおびき出せると思ったが、実際に発見したのはまたもや子鼠だった。
そのうちの一匹が稀な個体だったのは幸いではある。
このような状況ではあるが、女神はまだ自分に微笑んで下さっている。これだけの労力を費やしたのだ。この試練の先にはきっと、華々しい未来が待っているだろう。
だが女神の戦士に囲まれがら一歩も引かず、怯えもしない態度はいただけない。噛みつく鼠は特に面白くない。
故に、こちらに向かって弓矢を構える銀毛の雄の方は、いかにも可愛げが無い。
(なんだその目は)
隊長は舌打ちをもらし、脂ぎった目で睨み返した。隣の青毛の子鼠のように、怯えて白くなり、声も無く震えれば良いものを。
(あれはいらんな)
捕えても暴れるばかりだろうと判断して、隊長は声高に命じた。
「たかが子鼠一匹を生け捕りするのに、何を怖気づいておる! 愚図共め!」
戦士たちの表情が、ほんのかすかな軽蔑の色に染まる。部下の気持ちはいよいよ離れ始めていた。
彼と似た志で便乗していた者たちでさえ、追いつめられた末の横柄さに、辟易していた。
だが仮にも隊長なのだ。たとえ如何に名ばかりであろうとも。横柄であろうとも。これから帝国で待ち受ける追及を思えば、責任の矛先が向く相手を、今失うのは痛かった。
それに、生きた青い髪の天の民は確かに珍しい。連れて戻れば、帝国への献上品としても充分だ。姫君にとっても、大いに今後の足がかりになるだろう。
しかし目の前の天の民二人の立ち振る舞いは、戦い慣れている者のそれである。生け捕りする方の顔色は悪いが、一歩踏み出すのにためらいがあった。
やがてじりじりと身じろぐばかりの部下たちに焦れて、隊長は鞭をしまいこんだ。そして後ろに控えていた従者を呼び、子鼠を繋ぐ縄を渡して長槍を持ってこさせた。
自身の背丈の倍もあるこの長槍は、外套と同じく任務の為に用意した特注品だった。
穂先は一本の筋だけが通る木の葉型の鋼鉄。トネリコ製の柄は絹色で、丹念に油で磨き上げられて艶を帯び、くっきりとした木目が浮かび上がっている。
更に穂先と柄の繋ぎ目は、細かな蔦模様の溝に金を流し込み、光の加減で煌めくようにしてあった。見るからに手の込んだ細工の長槍だ。
隊長は手にした長槍を得意げに悠々と振ったのち、穂先を青鼠の目前に振り下ろした。風を切る音と共に降ろされた銀色の穂先は、肉厚で端正だった。
鋭く鈍く、無情に光る。さぞやたやすく、相手を両断できることだろう。――ただし、何の汚れも知らない。
隊長は、鼠をいたぶる猫の傲慢さで嗤った。
「手本を見せねばわからぬようだな。そら、このようにするのだ――」
「この野郎!」
ちょっとつついてやろうと、鼠の薄い頬に向け突き出した瞬間、銀毛の鼠が鮮烈に吠え、矢が放たれた。
(どこへ飛ばしている、馬鹿め)
後方へ飛んだ矢に興味は無かった。よって背後でした呻き声は、彼の耳には届かない。自らに被害が無かった。そこにしか関心はない。
隊長が失笑した矢先、ぱきんとはじけ飛ぶような軽い音が響いた。上体が前のめりになり、違和感を覚える。
柄の先から伝わってきたのは、皮膚を突き破って到達した肉の感触ではなく、宙を突いたような手応えの無さだったのだ。
「――は?」
目にしたものを理解できず、呆けた声がもれ出た。初めて振ってみた特注の長槍。その穂先が断絶し、地べたに転がっていた。
* * *
それ以上はしゃべらせなかった。
トルヴァが矢を放った直後、フェンリルは槍の軌道からするりとそれ、穂先と柄の繋ぎ目に短剣を滑らせた。
振り下ろされた時、風を切る音が見た目よりも軽かった。機動力を上げる代わりに重量を削ったに違いなく、鉄製の穂先をつけた長槍であるなら、きっとそれは柄の部分だと思われた。実際、輪切りにした柄の中身は空洞で、穂先はたやすくごとりと落ちた。
(見かけ倒しか)
フェンリルはそう判断したが、本来ならば、たとえ空洞であっても実戦で充分に使える代物である。使い手のほうが不十分だっただけなのだ。その真価を発揮することは、もう二度とない。
フェンリルは続けて、長槍の柄を掴んで引き下ろし踏みつけた。短剣を口に咥え、落ちた穂先を拾い上げて、馬上でふんぞり返る下衆目がけて肉薄する。
「お、まっ」
凄まじい身軽さと素早さで長槍を駆け上がってきた鼠に、隊長はつい、もたついた。
腰に携えている長剣の存在を一時完全に忘れ、長槍から手を離した時には既に、子鼠が目の前まで迫っていた。とっさに、腕を眼前に掲げる。
フェンリルは、抗議するように掲げられたその手のひらに、穂先を突き立てた。
ごりんと、内部の二対の骨の間を鋭く研がれた鉄塊が滑り、肘まで肉が切り開かれる。絶叫と血しぶきが上がった。
次にわき腹を蹴り飛ばされ、隊長は馬上から落下した。金髪の子供が、目の前に落ちてきた隊長に、びくりと肩を震わせる。
肩を射られた従者が縄を手放していたのだが、まだ誰も気づいていない。
「こっ、おっ……このっ……あっ、ぎゃあぁぁぁぁっ!」
息がつまり言葉を紡げない隊長に、茶黒の大型犬が襲いかかった。
フェンリルたちを取り囲んで戦士たちは一瞬の出来事に気をとられ、次の手が遅れた。
のたうつ隊長の救助か、命令を遂行か。誰が、どれをやるのか。
その隙にフェンリルは鞍で上体を倒し、きつく締められた子供の両手の結び目を掴んで馬上に引き上げた。
「トルヴァ!」
嘶きを上げ、こちらに向かってくる馬から伸びる腕を掴み、トルヴァが跳び上がる。
手綱を握るフェンリルの後ろにすとんと収まると、トルヴァは口笛を吹いてハティを呼び寄せた。
「ハティ来い――そんなの食ったら腹壊すぞ!」
ハティがきびすを返して、騎馬の間を素早く駆け抜ける。戦士たちが槍を繰り出したが、かすりもしなかった。
隊長は無惨な右腕を押さえ、目を血走らせた。
「――追えッ、追えぇぇぇ! このままにしておくな! 生け捕りだっ! 生きて私の前に連れてこい! このような暴挙っ、許さん! 許さんぞ! 追えぇぇ!」
【次話】
【他本編】
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