見出し画像

【ダークファンタジー小説】チェスガルテン創世記【56】

第八章――ほむらの子 後編【Ⅱ】――


 老いていても橇を引く狼の力は強かった。また、その子であるハティも同様だった。
 滑りが大層悪いだろうに、駆ける足は鈍らない。また皮肉なことに、追い風で豪速だった時に比べてずっと安定していた。
 命じたわけでもないのに、スコルは自然と先導犬の役目をはたしていた。
どこを行けばもっとも早く、安全に地上に辿りつくかはスコルが知っていた。
 人間にとっては厳しい脅威の山岳であろうとも、ここはまだ彼女の領域だ。命令は必要なかった。フェンリルたちが従えばいいのだ。
 向かい風もほとんど流さず、右に、左にと傾く橇にしがみつき、時には皮紐をふわりとした滑空の衝撃に備えて体重を移動させ続けた。
 やがて橇から伝わる感触が、固くしまった積雪ではなく、ざりざりした凍土に変わり始めた。いよいよ地上が迫ってきていた。
 流れ去る景色は進むごとに暗く、煙るようになっていた。もはや勘違いや気のせいなどではない。
 明らかに何かが燻り燃えている。それも複数の場所から――。

「赤い」

 トルヴァは呟いた。最初それは煤の中の火種に見えた。あるいは白子の蛇が、まばたいているようにも見えた。
 しかし朝焼けとも、夕焼けとも違う。では地上で点滅しているあれは、いったい、何の光だろう?

「空と同じだ」

 フェンリルが答えるように言った。
 どういう意味なのか聞く前に、ぐうんと、橇が左に大きな曲線を描くようにふれた。
 がりりと、尻の下から嫌な音と衝撃が伝わる。橇皮が新たに裂け始めていた。突き出た障害物を、避けきれなかったのだ。
 体重を移動させてふんばったのと、スコル達のけん引のおかげで、ひっくり返ることは免れた。

「トルヴァ!」

 足の間に挟まるフェンリルが叫んだ。

「皮紐を切る――合図したら跳べ!」
「なんっ――はあ? 正気かよ!」
「このままだと、スコルもハティも巻き込んで、めちゃくちゃになる!」

 地上まで目前というところまで差しかかっていた。だがまだ肌に打ちつける向かい風は痛く、耳元でびょうびょうとけたたましい。
 この速さで滑る橇から、ざらつく凍土に飛び出すなど、想像するだけで痛かった。
 悩んでいる間にも、接いだ矢の一本がはじけ飛んだ。破片が目元まで飛んできて咄嗟に腕を掲げる。それだけで均衡が崩れてぶれた。慌てて抑えた骨木の皮紐はほつれ、今にもばらけそうになっていた。

「――やるしかないってか」

 にかわでもあれば、それかエイナルの持っていたあの糊でもあれば、結び目をより強固にできただろうに。
 恨めしさでいっぱいになりながら、トルヴァはフェンリルの腰にまわしていた足を、一本ずつ引っ込めて折りたたんだ。空いた両手で揺れる橇の両脇を掴んで、すぐに跳び出せる体勢をとる。

「いつでもいいぞ!」

 トルヴァの準備が整ったことを聞きつけ、フェンリルは皮紐を手元に引き寄せ、びんと張り詰めた表面に短剣の刃を当てて滑らせた。

「跳べ!」

 ばちんと皮紐がはじけ飛び、スコルとハティが左右に散った。力を失った橇が大きくふれる。
 トルヴァは橇の骨木を蹴って後方へ跳び退った。踵を雪面に降ろし身体を斜めに倒して滑らせて、最後に腰の短剣を鞘ごと突き立てた。じゃり気のある凍土であり、跳ねかえるつぶては荒い砂のように容赦なく布越しに肌を打ちつけてくる。
 しかし衝撃は想定していたよりも少なかった。むしろ身体が軽い。ひゅるりと、巻きあがって霧散したつむじ風で、フェンリルがやったことだ理解した。
 削られることを覚悟していただけに拍子抜けし、あの青白い顔と震えを目の当たりにした後では、素直に感謝する気にはなれなかった。
 そのままトルヴァは松の木立に滑り落ち、幹に両足をついて起きあがった。解放されたハティがぐるりと旋回して、こちらへ駆け戻ってくるのが見えたが、フェンリルの姿が無かった。まさかと前方を睨む。フェンリルは滑り去る橇に、取り残されていた。
 フェンリルとしては、ひとりならばどうにかなるという算段だった。しかし甘かった。橇を引く二匹分の力とトルヴァの重みが無くなった途端、橇はひっくり返りそうな危うさで滑り落ちていく。姿勢が不完全だが、この勢いのまま跳び出すしかない。
 迫りくる木立に向かって跳び移り、滑り、幹に胸と腹を打つ。空気が押し出された衝撃でむせるも、全身で幹にしがみつく。

「あっぶね!」

 振り子のようになって滑落しそうなところを、追いついたトルヴァが阻止した。首根っこを掴んで補助されながら、フェンリルは木立の根元でどうにか体勢を整えた。無人の橇はそのまま岩場に乗りあげて見えなくなった。今度こそばらけて、大破したかもしれない。

「大丈夫か?」
「なんとか……」

 答えたものの、トルヴァの心配を裏付けるように手足の震えが増していた。立つことができず片膝をつき、息を整えようとするが、心臓がどくどくと激しく鼓動し視界までぶれてきた。

「なんだ、このにおい」

 顔の布を降ろした途端、異臭が鼻をついてトルヴァは顔をしかめた。
 空気がいやに蒸し暑い。焦げ臭さの中に鉄錆が混じったにおいが、むわりとたちこめている。あたりを素早く見回すも、灰色に煙っていてよく見えず、人の気配は感じられなかった。

「――オレ、先に見てくる。動けるようになったら来いよ」

 ごくりと喉を鳴らし、トルヴァは再び布を引き上げた。ハティを呼び、共に赤い輝きの元まで滑り降りていくと、すぐに足が地面を捉えた。地上だ。信じられないことだが、生きてここまで戻ってこれた。だが感動している場合ではない。
 風に煽られて煙がはれたその先の景色は、記憶にあるものとは大きく異なっていた。
 淡い燐光を纏い澄みきった琥珀のようであった世界の支柱ユグドラシルの破片は、今、内側から煌々と、目を焼くほどの赤い輝きを放っていた。太陽に照らされた流血のような輝きは、あまりにもまがまがしい。
 これと同じ色の空が見えていたなら、トルヴァとてすぐに異常だと判断しただろう。

(この世がどうにかなっちまう……)

 息を吸い込むたび喉元に込みあげる、べたつく脂のような甘ったるさが、より不吉さを助長してきた。
 じりじりとした足取りで進んでいたトルヴァはどきりとした。周辺の木々が悉くなぎ倒されて開けたそこには、たくさんの人々が倒れていたのだ。
 破片を中心にして放射状に広がっているのは、ほとんどがヨトゥンヘイムの住民たちだった――彼らを更に囲うように、地の民アマリが横たわっている。
 以前隠れ家付近でトルヴァ達を捕えた女神の戦士たちと、まったく同じ格好をしていた。一人、二人どころではない。ざっと見た限り、二桁はいるだろうか。
 ヨトゥンヘイムが戦士たちの襲撃を受けたのだと、嫌でもわかる光景に背筋が凍る。
 トルヴァは素早く周囲を見渡した。
 破片に近ければ近いほど、倒れている人たちの外傷は激しかった。皮膚のほとんどが焼けただれて裂け、湿り気を帯びた暗い赤黒さと、生皮を剥がれた肉と同じ、鮮やかな桃色が入り混じる。
 逆に外側の人たちは、かすかな火傷が窺える程度であり、きれいなものだった。――亡骸としては。
 誰一人、まんじりとも動かなかった。ハティがうつぶせる頭に鼻先を突っ込んでも、前脚で掻いてみても……。目を見開いていたり。歯を食いしばって互いに抱き合っていたり。大きなお腹を守るように抱えていたり……。
 皆、もう、この世にはいない。人々を受けとめる苔むした大地ばかりが、雷の到来を喜ぶように鮮やかで、今にも青臭さを放たんとしている。
 凄惨な光景を目の当たりにして脳裏を駆けめぐったのは、旅立つと決めて別れたあの朝だった。
 腕を降って見送る、うすもやに包まれたあの姿が、まさか。

(みんな……)

 吐き気が込み上がり、トルヴァは思わず口元を覆った。背筋を不快な冷や汗が伝い、目眩にぐらりと身体が傾げる。そして、それを見つけた。

巫覡ヴォルヴァ……!」

 破片に張り付くように身を投げ出して絶命していたのは、あの、枯れ木の巫覡ヴォルヴァだった。顔の刺青と、黒く焦げて砕けたトネリコの冠が、綿毛のような頭髪に引っかかっていたのでわかった。
 巫覡ヴォルヴァの上空へと伸ばされた腕は、固まりかけた血で赤黒く艶めき、異様に真っ白になった肌には暗い赤紫の枝模様が浮かぶ。天を仰いでのけぞる喉も同様の色彩に染まっていた。
 更に、これでもかと開かれた口腔からは白い蒸気が細く昇り、空を睨む血の滲む眼と相まって、執念めいた形相だった。

「トルヴァ」

 突然腕を掴まれて、トルヴァはびくりとした。幽鬼のごとく青白い顔のフェンリルだった。

「息しろ」

 指摘されて、口元を押さえたまま呼吸を忘れていたと気づく。手を口元から放して、勢いよく息を吐きだした。深く吸おうとするも、異臭が鼻孔をつきぬける。不快感で喉が震えた。

「……これ、みんな、あの落雷の直撃を受けたのか」

 たずねるというよりも、確認するようにトルヴァは言った。

「こんなところまで女神の戦士に侵入されて……そのうえで、みんな」
「みんなじゃない」

 絶句するトルヴァの一方で、フェンリルはいやに冷静だった。

「住民みんなが、ここにいる訳じゃない。よく見ろ、年寄りばっかりだ。――ヘルガたちは、ここにはいない」

 確かに、ヘルガたちの姿はどこにも無かった。
 倒れているのは、本当の意味で絆あるとは言い難い人たちだ。しかしその中には見覚えのある顔もあった。きっとお互いに、すれ違った程度の認識しかなかっただろう。
 でもいつかはもっと、別の関係を築いたのかもしれない。
 最期の吐息をもらした老人を、その家族と共に弔ったかもしれない。家畜の面倒を見ろと頼まれたり、慣れない畑仕事を押し付けられて、仲間とうんざりする日が来たかもしれない。赤ん坊の誕生を聞きつけ、お祝いに行ったかもしれない。
 でも、彼らは二度と戻らない。もう、そんないつかは来ないのだ。
 トルヴァは浅い呼吸をくりかえした末、木の幹に手をついてえずくように呻いた。知らぬ間に膝が震えていた。しゃがみこむことだけはすまいと、必死に堪える。一度膝をついたら、そのまま動けなくなりそうで怖かった。ハティが側に戻ってきて、不安げに喉を鳴らした。
 フェンリルはトルヴァの背に、一度手を伸ばしかけてやめた。そして赤々と照らされた壮絶な巫覡ヴォルヴァの姿を平坦なまなざしで見つめた。雷に貫かれて、倒れた人々を見つめた。
 この場の戦士は武器こそ手にしているが、抜き身の刃には少しも血の曇りがない。日頃から、どれほど丁寧に手入れされてきたかがわかる、綺麗な白刃だった。
 では人々は、戦士たちに追いつめられた末、剣を交えて果てたというわけではないのだ。
 それらのことから連想したのは、生餌を利用した跳ね罠だった。

(あれは、あんたが降らせたものだったのか……)

 巫覡ヴォルヴァたちがなんのために、どんな残酷な決断を下したのか。フェンリルは、察しのつく自分が嫌になった。
 ぽかりと空いたうろに、いくら風を吹き込んでも動かないのと同じで、彼らの死をトルヴァのようには嘆けない。
 思い出と呼べるだけのものを築くのにここでの日々は短すぎたし、ほとんど知らない人の為に嘆くには、あまりに早くから悟りすぎてしまった。
 ただひとつの訴えだけが、さりさりと研がれていく。
 今だ。と。
 今こそ現れろ。と。
 今が、その時ではないのか。と――。
 いつしか骨がきしむほど拳を握りしめていた。
 「今」が「何故」に変わる頃、疲労と引き換えに鋭利になった五感が告げる。
 ハティの全身の毛が逆立ち、唸り声を上げるのとほぼ同時に、短剣を鞘走らせた。

「――トルヴァ、構えろ」

 首筋を小刀ナイフでなぞられたような悪寒が走った。トルヴァは一瞬ぶるりと総毛立ち、振り向きざまに矢をつがえた。
 二人が身構えてからいくらもしないうち、複数の足音と共にそれが現れた。

「おお、生き残りがおったわ」

 黒い肌に暗い色の瞳を持ち、そろいもそろってまったく同じなめし皮の外套に身を包む、女神の戦士たちだった。中央の者にだけ、妙にきらきらしい装飾が施されている。
 その戦士はフェンリルとトルヴァを見すえると、金の房飾りを揺らして口角を上げた。

「これはもうけたな。一匹は珍しい毛色ではないか。そらお前たち、行け行け! 生け捕りにせよ! 敗北神と同じ毛色の天の民ヴィトだ。姫君に献上すれば、大層お喜びになられるだろう!」


【次話】


【他本編】

これまでとこれからと。

【登場人物のらくがき】

登場人物とか、小説ワンシーンとか、あれとかそれ。

【カクヨム】

【小説家になろう】

https://ncode.syosetu.com/n0860ht/


お好きな媒体でどうぞ!
ここまでお読みいただきありがとうございました!

いいなと思ったら応援しよう!