第1話:母の祈り(記録No.014)|前編|管理官ニナの記録室|真相の標本箱|水平思考ゲーム
はじめに
この物語については詳しく知りたい方はこちらをお読みください。
本編
その部屋の扉を叩いたのは、あの子の将来を憂う、一人の母親としての義務感からだった。
地上から切り離された、どこまでも白い無機質な空間。
管理室「0番の仕切り」。
壁一面を埋め尽くす小さな引き出しの群れは、まるで厳格な図書室の目録のように整然と並んでいる。
「……お掛けなさい」
アッシュシルバーの髪をした少女が、冷めた紅茶を前に座っていた。
漆黒のドレスに、清潔な白いエプロン。
彼女がわずかに動くたび、腰の鍵束が「チャリ……」と硬質な音を立てて静寂を刻む。
「……不躾な訪問をお許しください。ですが、私一人ではどうしても解決できない『悩み』があるのです」
私は丁寧に膝を揃え、穏やかな微笑みを浮かべてみせた。
手にしたバッグを握る指先にも、決して乱れは見せない。
「息子についてなのです。あの子、最近少し情緒が不安定で……。私がどれほど心を尽くして、あの子の生活を整えても、何かを恐れるように部屋に閉じこもってしまう。あんなに素直で、私の手助けを喜んでくれていた子が。……母親として、何かあの子の心に触れてはいけない『汚れ』を残してしまったのではないかと、そればかりが不安で」
管理官ニナは、私の言葉を遮ることも、安易に同情することもしなかった。
ただ、感情の欠落した翡翠色の瞳で私をじっと見つめ、一つの引き出しを開ける。
「……あなたが『正義』であり、あの子が『迷子』であるのか。それを確かめるための、いい標本があるわ」
彼女が提示したのは、静謐な空間にそぐわない、不気味な問いだった。

【標本No.014:母の祈り】
ある母親は、医師から「息子さんは一生、歩くことはできないでしょう」という絶望的な診断結果を聞かされた。
しかし、彼女は悲しむどころか、その場で声を上げて大喜びした。
一体なぜ、彼女は息子の不幸を祝福したのか?
「……まあ。なんという、悲しいお話かしら」
私は痛ましさに目を伏せ、小さく溜息をついた。
「解いてみせますわ。……その母親は、息子の苦しみが終わることを喜んだのでしょうか? 例えば、不治の病に侵されていて、歩けなくなる代わりに命が助かるというような……」
「いいえ」
「……では、その母親には何か深い信仰があった? 『歩けないこと』が、何か宗教的な救済に繋がると信じていた、とか」
「いいえ」
ニナの返答は短く、冷たい。
私は、整えたはずの指先がわずかに震えるのを感じた。
「では……もっと現実的な理由。この息子さんは、何かの事件の加害者だったのかしら? 歩けない身体になれば、これ以上罪を重ねずに済む、という……母親なりの、悲痛な安心感」
「いいえ」
「……じゃあ、何なの?」
微笑みの端から、少しだけ地声が漏れた。
「介護よ。息子が一生歩けない身体になれば、あの子は私なしでは生きていけない。ずっと私の手元に置いて、一生面倒を見てあげられる。……そうなれば、あの子だって『母親がいないと困る』と、心の底から理解するはずだわ」
ポロリとこぼれた言葉。
自分でも驚くほど滑らかに、私の「理想」が形を成した。
「そうすれば、あの子は二度と私に怯えたりしない。自立なんて、私を捨てるための残酷な口実に過ぎないもの。……あの子を守るためには、それくらいの『絆』が必要だと思わない?」
ニナの瞳に、微かな、けれど明確な蔑みが宿った。
「いいえ、違います。……けれど、あなたはそう願っているのね」

【後編へ続く】
