第8話:灰色の最高傑作|後編|管理官ニナの記録室|真相の標本箱
はじめに
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本編
【後編:鏡の裏(うら)】
「……妻が浮気していた?」
「いいえ」
「保険金?」
「いいえ」
「絵を完成させるために、妻の死が必要だった?」
「いいえ」
男は、ゆっくり首を傾げる。
「愛していた」
「でも、完成直後に燃やした」
「……はい」
「絵には、妻が描かれていた?」
「はい」
沈黙。
白い部屋に、
思考だけが沈んでいく。
男は、
ゆっくり笑った。
「……ああ」
「分かりましたよ」
その声は、
どこか恍惚としていた。
「彼にとって、“本物の妻”は」
「完成した瞬間に、絵の中へ移ったんだ」
ニナは、静かに頷く。
「……答えをどうぞ」
【真相の標本】
【正解】
男は、
“永遠に美しい妻”だけを残したかった。
老いも。
変化も。
現実も。
すべて、
作品を汚すノイズだった。
完成した瞬間。
画家にとって、
生身の妻はもう“偽物”になった。
だから。
燃やした。
“最高傑作”だけを残すために。
沈黙。
プロデューサーの男は、
静かに拍手した。
「……素晴らしい」
目が、うっとりと潤んでいる。
「変わっていくんです」
男は、
愛おしそうに呟いた。
「笑い方も」
「喋り方も」
「目の輝きも」
「俺が見つけた頃の彼女じゃなくなっていく」
その声には、
本当に苦しそうな響きがあった。
「だったら」
男は、微笑む。
「一番綺麗な瞬間で、止めたかった」
「現実の彼女なんて、どうでもいい」
「俺の記憶の中にいる」
「“あの少女”だけが、本物なんだから」
空気が、凍る。
ニナは、ゆっくり立ち上がった。
白手袋の指先が、
男を指す。
「……あなたは」
「彼女を愛していたんじゃない」
男の笑みが止まる。
「愛していたのは」
「彼女を“所有している自分”よ」
「変化を愛せない」
「老いを受け入れられない」
「現実を抱きしめる勇気がない」
翡翠色の瞳が、
静かに男を貫く。
「あなたは」
「生きた人間を」
「自分の理想へ閉じ込めただけ」
「都合のいい“標本”へ変えただけよ」
男の顔が歪む。
「お前に何が分かる!」
「俺が彼女を永遠にしたんだ!」
チャリ……。
鍵束の音。
男の足元が、
文字列へ崩れ始める。
「違う……!」
「俺は、彼女を――」
身体が、
黒い記号へ分解されていく。
絶叫。
ノイズ。
断片。
ニナは、それを見下ろしている。
(……怖い)
男の狂気が。
少しだけ、
理解できてしまった。
変わっていくものが、
怖い。
失われていくものが、
怖い。
だから。
“永遠”へ閉じ込めたくなる。
(私は……)
白手袋が、
静かに動く。
まるで。
最初から、
それしか知らない生き物みたいに。
「チェックメイト」
男の姿が、
完全にタイルへ吸い込まれる。
バタン。
引き出しが閉じた。
静寂。
完全なまでの、白。
【エピローグ:管理官ニナの記録】
終わった。
ニナは、静かに息を吐く。
その時。
違和感に気づいた。
(……音が、ない)
引き出しの音。
呼吸。
衣擦れ。
何も聞こえない。
完全な、無音。
(聴覚が……)
その瞬間。
激しいノイズが、
脳裏を焼いた。

――燃えている。
赤。
黒煙。
崩れていく都市。
灰になっていく、
無数の人。
私は。
それを見下ろしている。
白い手袋。
炎。
『これでいい』
微笑む声。
『醜い現実は燃やして』
『美しい記録だけ残せばいい』
息が詰まる。
机に手をつく。
(……私、は)
視界が揺れる。
燃えている。
世界が。
人が。
なのに。
私は。
それを、
綺麗だと思ってしまっている。
「……ぁ……」
震える吐息。
感覚のない白手袋が、
恐ろしく見える。
(……また)
(止められなかった)
無音の世界。
ニナの肩が、
小さく震える。
コツ。
(――?)
音がした。
聞こえるはずがないのに。
振り返る。
編集長がいる。
暗闇みたいな黒いスーツ。
シルクハット。
口元だけが、笑っていた。
「泣くようになったね」
耳は聞こえない。
なのに。
彼の声だけが、
直接、脳へ流れ込んでくる。
ニナは一歩、後ずさる。
「……来ないで」
編集長は、
楽しそうに目を細めた。
「素晴らしい進化だ」
「人間を処理しながら」
「自分も壊れていく」
「まるで悲劇文学だ」
ニナが睨む。
編集長は、
静かに近づいた。
音もなく。
影みたいに。
「でも、安心していい」
黒い革手袋が。
ニナの白手袋へ、
そっと触れる。
「君は、壊れてなんかいない」
ニナの息が止まる。
「紅茶」
編集長は、
甘く微笑んだ。
「もう味がしないだろう?」
「昔は、あんなにミルクと砂糖を入れていたのにね」
思考が止まる。
(……なぜ)
(それを知っているの)
編集長は、
耳元で囁く。
甘く。
優しく。
残酷に。

「ようやく」
「“本物”になってきたんだ」
声にならない悲鳴が、
喉の奥で凍りつく。
無音の白い部屋。
ただ。
彼の微笑みだけが。
ニナを、
絶望の底へ沈めていった。
(第8話・了)
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