第9話:届かぬ幸福の便|後編|管理官ニナの記録室|真相の標本箱
はじめに
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本編
【後編:鏡の裏(うら)】
『娘からの手紙……』
女は顎に指を当てる。
『結婚式の招待状?』
「いいえ」
『結婚後?』
「はい」
『新婚旅行先から?』
「はい」
女の目が、
愉快そうに細くなる。
『……海外って、手紙届くの遅いものね』
『つまり、“書かれた時間”と』
『“読まれる時間”にズレがある』
「はい」
『その間に、娘に何か起きた?』
「はい」
『事故?』
「はい」
沈黙。
女の唇が、
ゆっくり吊り上がる。
『……ああ』
その顔は、
まるで恋をした人間みたいだった。
『分かった』
『母親が、娘の幸せを読んで笑ってる』
『まさに、その瞬間』
『テレビで、“娘が死んだ”と知ったのね』
ニナは、何も言わない。
ただ。
静かに女を見ている。
「……答えをどうぞ」
【真相の標本】
【正解】
娘は、
新婚旅行先から絵葉書を送っていた。
そこには。
帰国時に搭乗する、
飛行機の便名が記されていた。
母親が、
その幸せな文面を読んでいた、
まさにその時。
テレビで、
その便が墜落した速報が流れたのだ。
沈黙。
女は、
ゆっくり顔を覆った。
肩が震えている。
笑っているのか。
泣いているのか。
分からない。
『……残酷』
指の隙間から、
恍惚とした声が漏れる。
『本人は』
『幸せな未来を信じて手紙を書いてるのに』
『現実では、もう』
『飛行機ごと墜落してるなんて』
女は、
うっとりと目を閉じた。
『やっぱり、幸福って嫌い』
『だって全部』
『時差で壊れるんだもの』
空気が、凍る。
ニナは、ゆっくり立ち上がった。
白手袋の指先が、
女を指す。
「……ええ」
感情のない声。
「滑稽ね」
「本人は、まだ幸せの中にいるつもりなのに」
「現実では、もう墜落している」
女の笑みが止まる。
ニナの翡翠色の瞳が、
静かに女を見下ろした。
「でも」
「今のあなたも、同じよ」
『……は?』
「あなたは今も」
「高みから他人の幸福を眺めているつもりでいる」
「けれど」
ニナは、一歩近づく。
「あなた自身の人生は」
「とっくの昔に墜落しているわ」
女の顔が、歪む。
『何、言って――』
「幸福を信じられなくなった瞬間」
ニナの声は、
どこまでも冷たかった。
「あなたはもう」
「誰かの幸せを祝福できない怪物になっていた」
『違う……!』
女の瞳が揺れる。
その一瞬だけ。
昔、
純粋に花嫁を祝福していた頃の、
壊れる前の人間が見えた。
けれど。
もう遅い。
チャリ……。
鍵束の振動。
その瞬間。
女の足元が、
文字列へ崩れ始めた。
『いや……』
『いやぁぁっ――』
悲鳴。
聞こえない。
ただ。
絶望に染まる表情だけが、
無音の世界で歪んでいく。
「人間の幸福なんて」
ニナは、
それを見下ろしながら呟く。
「届いた頃には」
「もう壊れている」
「ただの、まやかしよ」
女の身体が、
黒い記号へ分解されていく。
笑顔。
絶望。
空白。
それら全部が、
一枚のガラスタイルへ吸い込まれた。
「チェックメイト」
バタン。
引き出しが閉じる。
完全な無音。
【エピローグ:管理官ニナの記録】
終わった。
標本は、また一つ増えた。
早く。
早く、全部終わらせなければ。
その時。
視界に、
違和感が走った。
(……光が、ない)
暗闇ではない。
けれど。
世界から、
“反射”だけが消えている。
ガラス。
瞳。
壁。
何も、輝かない。
ただ。
輪郭だけが、
平面的な情報として存在している。
(視覚が……)
(また……)
ノイズが、
脳裏を焼いた。
――暗い箱。
巨大な、
終わりのない箱。
そこに、
無数の人間を閉じ込めている。
白い手袋。
冷たい鍵。
私は、
扉を閉める。
『これでいい』
私の声。
『誰も、光なんて見なくていい』
『どうせ』
『全部、墜落して壊れるのだから』
息が詰まる。
無音。
無光。
ニナは、
白手袋の両手で、
自分の顔を覆った。
(私が……)
(彼らから、光を奪った?)
胸の奥が、
軋む。
痛い。
どうして。
感情なんて、
もう残っていないはずなのに。
白手袋が、
やけに重かった。
早く。
もっと早く。
全部の引き出しを埋めて。
自分ごと、
この箱の底へ沈まなければ。
この痛みが、
私を完全に壊してしまう前に。
色のない。
音のない。
光のない世界。
ただ。
腰の鍵束の重さだけが。
かろうじて、
ニナをこの空間へ繋ぎ止めていた。

(第9話・了)
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