空は空 一切は空なり~速水御舟・カラヴァッジョ編 最終話
例えば病気と言われてもわたしは画に狂う !
さて、一応「空は空 一切は空なり」としたシリーズもこれを最後とする予定だが、狂っているからしてマタゾロなにかを書きはじめないとも限らない。まぁ、画家にしろ小説家にしろ芸術家と呼ばれる皆さんはどちらかというと狂人の部類に入らなければ卓越した作品は生み出せないのであるからして、これ狂人と呼ばれることは一つの名誉と考えなければならないのだろう。
さて、ここまでのトチ狂った結果の実績を書いておきましょう。
昔の原稿で書いたことと重複する部分もありますからお気を付けください。
それからね、あまりとんでもないことを書くとカラヴァッジョの第一人者、わたしの崇敬する、宮下規久朗先生にまたまた怒られちゃうのでほどほどにしておきたいと思います。わたしと同い年だったかな。もうね、本当にお優しい先生なのよ。ちゃんとご褒美もくれたしさ。こんなシロウトに。わざわざ自分の本の中で。今考えるとその配慮に泣けてくるのだわ。

正義がエゴへと変わる瞬間ですね。
何度も書いていることですが、さて、三枚のこの作品が並べられた時。この黒衣バージョンが何番目にあるのでしょうか。そして、まだ見ぬ三枚目のユディトの衣装は何色なのでしょうか。カラヴァッジョはユディトを何色に塗り上げたのでしょうか。
わたしは何色だと思うか ? いや、それは書きませんよぉ~(笑)

さて、お次は速水御舟作「炎舞」ですが……
どうやら御舟、やってますね。これは御舟、完全にやってます ! !
まずはご覧いただきましょう。
先ずは、引いた全景画像、そして部分的拡大画像です。


前から書いている様に、関東大震災の東京を襲った未曽有の大火災に着想を得た作品であることは私の中では確かなものとなっている。
だとするなら……御舟が、この画の中に地蔵菩薩を書き顕したとするのなら
被災死者10万5千名の御霊を供養する想いが画き込まれたとして不思議はあるまい。
御舟にとって、自然の摂理に翻弄され、手を拱いているうちに命を落とした人間たち、宗教と信仰、そして仏の世界と摂理を顕す上で、伝統的であり印象的な炎の描写は、「これしかなかった」と寄り添うに大いに合理性を感じるのである。
最後にひとつ書いておくと「そう見える者達」がそう見れば良いのだ。信仰とは人間にとってそういうものである。
「イワシの頭も信心から」との言葉が、どこの国の言葉であったか思い出してみるべし。
世界で最も早くレオナルド・ダ・ヴィンチ サルバトールムンディーを「俺流」から解析したのは誰あろう、わたしである。詳しくは以下のLink「異端の系譜は紡がれるのか~」を暇つぶしにどうぞ。

しかし、わたしのように人間としてのダ・ヴィンチを眺めてきた者にとっては彼の作品すべてにある種の「騙しと疑い」の眼をもって対峙することとなる。ヴァールブルク学派による「我々は、我々が観るところのものに執着するのではなく、それを超えた思索に赴かねばならない」とは正にそういうことであり噛み砕くところ「騙されてはいけない」ということと理解しているのである。
救世主・サルヴァトールムンディというタイトルをつけたのはダ・ヴィンチではない。
ではこの作品をダ・ヴィンチの手によるとして鑑たとき
一体この画を通じてどのような"祝福"を顕したかったのだろう。
これに想像を及ばせるためには、可能な限りの人間の根っこに近づく必要があるだろう。
どう見るか、信仰の対象とするべきなのか、人物画とするべきなのか、ダ・ヴィンチのゴスペルと考えるべきなのか。絵画の楽しみ方は人それぞれであることが基本なのだが。
最後に一つ申し上げるとすれば、誰の作品であるかについて「素人」が口にするのはやめておいた方が良い。無益である。これがダ・ヴィンチの手、またはダ・ヴィンチのシンジケートの手によるものかはプロの判断に委ねるべきなのだ。寧ろ「何を画いた」のかに考え及ばせた方が……豊かになれるのではないかね ? 心も感性も教養もそして人間も。だって勉強するでしょ?

もしもこの画をダ・ヴィンチが無意識に画いたとするなら……
レオナルドダヴィンチは、画がヘタであるwww



えらのはった顎と逆三角形の頬骨。
さて、わたしどもの本家本宅アメブロのタイトルをご存じだろうか~
