希望の轍――アラビア語で「望み」を読む
AIによる要約
「ホープレス」と嘆く若者との出会いから、希望と期待、そして「望み」の違いを考える。イリイチの議論とアラビア語の語根を手がかりに、望みが希望・欲求・期待へと広がることを読み解き、啓示のコトバを共に読む中に、なお残されている希望の轍を探る。
ホープレスに悩む若者
「ホープレス」だと嘆く若者に出会った。八方ふさがり的な状況の中にあるらしい。ホープレスが言えるうちは、まだ、ホープのあることが前提になっているのだから、全然ホープレスではないよ、大丈夫と言ってはみたものの、禅問答的で、問題の解決には結びついていない。
ホープレスという言い方から、無いものをホープに限定してしまうと、実は彼の閉塞状況の打開は、厳しくなってしまうのかもしれない。なぜならば、失われているのは希望ではなく、期待を抱ける状況なのかもしれないからである。
希望と期待は、切り分けて考えなければならない。学校という制度を深く内面化し、その中で生きることを、あたかも自分で選んだかのように受け入れれば受け入れるほど、希望からは遠ざかってしまう。社会思想家イリイチの議論から学べる視点である[1]。
期待外れという不幸
イリイチの議論は、ギリシャ神話に基づく。賢者プロメテウスと、愚者とされたエピメテウスの話である。パンドラが開けた箱からあらゆる悪がこの世にばらまかれ、それを一つ一つ制度を作っては収めていったプロメテウス。箱から出されずに残された「希望」に夢を託して制度に収まりきらない愛に生きたエピメテウス。
プロメテウス的世界は、ルールがあり秩序がある。それを十分に踏まえ、時に利用して生きれば、期待に応えることができるし、それにしくじれば、まさに期待外れに終わる。たとえば学校や会社といったような、制度の中で期待に応え続けることは、それはしばしば、成功や幸せに結び付けられがちではある。
しかし、「希望」と「期待」とを分けてみた時、希望が叶うこととは、期待とは別の次元の話だということにも気づけるはずだ。なぜならば、希望とは、制度や体系を超えたところにある大きな愛を見つめているからだ。
「望みがない」とは
しかしながら、期待外れを克服しようとすることは、多くの場合、制度に積極的に順応することと表裏一体であるため、ホープレスの解消に直結しないかもしれない。さらに厄介なことに、無いものが「希望」ではなく、「望み」であるとすると、そこにやや想定外の意味の広がりが含まれてしまうのである。アラビア語の語彙に照らしてみると、そのことがはっきりと見えてくる。
「希望」に当たるアラビア語は「アマル(أمل)」である。古典的には「ラジャー(رَجَاء)」、すなわち願い・望み・希望として説明され、現代語では「ウムニーヤ(أُمْنِيَة)」、つまり願望や念願とも重なる。これに対して「望み」と訳されうる語の広がりを見ていくと、「希望」の場合以上に、「ラグバ(رَغْبَة)」や「タワックウ(تَوَقُّع)」が視野に入ってくる。
つまり、「希望がない」のではなく、「望みがない」とした時、その「望み」は、アラビア語では「欲求・欲望がかなわない」ことでもあり、「期待がかなわない」ことにもなる。アラビア語からみると、「望み」は、愛への希望と制度への期待という区分けを乗り越えて両方に及んでしまう。
アラビア語の望み
現に日本語の語義を尋ねれば、それは、願いであり、希望であると同時に、望ましい結果を得る可能性や、よい方に進みそうな見込みでもある。さらに人望・名望、眺望までをカヴァーする[2]。
したがって、この望みについては、その中身を意識的に切り分けておく方がよいかもしれない。アラビア語的な視点で言えば、「アマル」としての望みと、「ラグバ」としての望みと、「タワックウ」としての望みである。
三文字語根からそれぞれの広がりを探ってみよう。「アマル(望む)」の三文字語根は「أ م ل」である。この語は「希望」を意味するが、同じ語根の広がりの中には、「見定める」という意味をもつタアンムルも現れる。ここから、まだ閉じていない未来を、熟慮しながら見つめる希望という読みが開けてくる。
「ラギバ」(願う、欲する、強く望む)の三文字語根は「ر غ ب」であるが、何かに向かって心が引かれることという意味での願望や欲求へとつながる。「タワックウ(期待)」の三文字語根は、「و ق ع」 であり、ある出来事が起こると予測し、その結果を待つこととしての期待であり、発生、落下、事件、現実などへの広がりを有する[3]。
望みを見定める
望みはおそらく、現実から切り離された空想として天から降って来るものではない。むしろ、すでに起きてしまったこと、もはや動かしがたいこと、私たちの前に置かれた、そうした現実の中からこそ生まれてくるのだろう。しかしながら、現実の中で、望みへの執着が強すぎれば、トゥグヤーン状態、つまり、暴君的状態に陥らないとも限らない[4]。となると、現実を踏まえ、現実を見定め、自分自身を振り返る必要があるかもしれない。
そこでいったん無になってみよう。もちろん言うほど簡単なことではないが、それでも、何ものにも、つまり、地上のいかなる権力にも、自分自身の欲求・欲望にも振り回されない状態を想起してみよう。自分をもやっと包み込んでいる粒子の集合物として呼吸の際に鼻先から出入りする粒子の一つに身を置いてみるのもよいかもしれない。そうして、うるさい現実から遊離してみる。それだけでも随分自由にそして楽になれるはずだ[5]。
ここでいう「無」とは、創造主を否定することではない。制度の声、欲望の声、期待外れの痛みからいったん距離を置き、ただ見つめるための静けさである。
そしてこの無の状態に到達したら、光さえもいったん無に帰してみよう。漆黒の闇が想像できるだろうか。
希望の光
漆黒の闇に包まれたなら、その闇を反転してみよう。絶対無の世界から、絶対有の世界がひらけるはずだ。世界に光が差し込む。そしてその世界を照らし出すコトバ。
いったん無に帰した諸物を照らし出すコトバに世界は輝く。何ものにもとらわれない絶対存在としての創造主のコトバ。慈悲慈愛そのものとしての創造主のコトバ。
このコトバを、熟慮を重ねながら、読んでみる。創造主が喜ばれるかどうかを常に意識しながら読んでみる。ざわついた現実に溺れかけている人がいたのなら、闇の中をさまよう人がいたのなら、手を差し伸べて共に読む。
希望は、一人で無理に作り出すものではない。禅問答のように突き放すのではなく、共に読み、共に見つめ、共に意味の向かう先を探していく。そうした深い読みの中に、希望は潜んでいる。期待が外れたからといって、希望までもが失われるわけではない。万有の主のメッセージを、寄り添いながら読み込み、動いてもみる。少しずつかもしれないけれど、きっと希望の轍が見えてくるはずだ。次の機会には、コトバに共に寄り添いたい。ビイズニッラー。
アッラーフ・アアラム(アッラーがもっともよく御存知)。
脚注
[1] 脇田玲「エピメテウス的人間と禅僧 デザインによる本質的な問題解決のためのデザイナー像」『KEIO SFC JOURNAL Vol.17 No.1 2017―特集:XDesign —未知の分野における新たなデザインの理論・方法の提案とその実践—』(2017年9月)を参照。とくに、イリイチにおける希望と期待の区別、およびデザインにおけるエピメテウス的役割に関する議論を参照した。
[2] 日本語の「望み」の語義については、デジタル大辞泉 「望み」の項を参照した。
[3] アラビア語の語根説明については、Ibn Manẓūr, Lisān al-ʿArab, s.vv. “أمل,” “رغب,” “وقع” を参照。とくに أمل については「الأمل: الرجاء」および「التأمل: التثبت」と説明される。また رغب については、 رغبة が「願い求めること・欲すること」とされ、 وقع については「落ちる・生じる」という基本義が示される。なお تَوَقُّع「期待・予測」については、現代アラビア語辞典における「出来事の発生を予期し待つこと」という説明も参照した。
[4] 暴君的状況については、拙稿「暴君論――「トゥグヤーン(طغيان)」と「ハシュヤ(خشية)」のあいだ」「フィルアウンの拒んだもの――「ナーズィアート章」17~19節に問う暴君の生き直し」を参照。
[5] 「無」へのアプローチへのヒントとして拙稿「「空」の彼方へ:聖典から考える「空気」の支配からの解放」「再生への望み(その2):《クルアーン》「星座章」第12節以降をめぐって」「「唯一」と「空」:イスラームと仏教の間」などを参照。
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推敲/脚注作成/校閲協力
Cover Image:
天の川銀河の構造を描いた想像図。渦状腕、棒状構造、バルジの位置を含む。2013年版に更新。
By NASA/JPL-Caltech/ESO/R. Hurt - http://www.eso.org/public/images/eso1339g/, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28274828
