暴君論――「トゥグヤーン(طغيان)」と「ハシュヤ(خشية)」のあいだ
AIによる要約
本稿は、《聖典クルアーン》「ナーズィアート章」79章15–26節に描かれるムーサーとフィルアウンの物語を、トゥグヤーン(限度を超えること)とハシュヤ(主を知ることから生じる畏れ)という二つの概念を軸に読み直す。フィルアウンの「私こそ、あなたがたの至高の主である」という宣言を、単なる自己神格化ではなく、自分より上にいかなる法や正義も認めない政治的支配の表明として捉える。そして、自ら主を畏れることを失った者が、他者には恐怖や威嚇を与えて服従させようとする構造を明らかにする。遠い過去の物語であるムーサーのḥadīthは、現代の権力と、私たち自身の内側に潜むトゥグヤーンを問い直す「新しい語り」として、今なお届けられている。
「聖なる谷」で
預言者ムーサー(モーセ)と、エジプトの王フィルアウン(ファラオ)の物語は、至高なる御方がムハンマドに投げかける問いから始まる[1]。
هل أتاك حديث موسى
ムーサーの語りは、あなたに届いたか
ここで「語り」と訳した ḥadīth は、「語り」「知らせ」「話」を意味し、語根 ḥ-d-th に属する。この語根には、「新しく生じる」「出来事が起こる」「知らせる・語る」などの意味がある。後には、預言者ムハンマドの言行に関する伝承を指す専門用語ともなった[2]。
本稿では、この語根が帯びる「新しく生じる」という響きにも注目したい。そうすると、これは単なる昔話ではない。遠い過去のムーサーの出来事が、いま新たに聞き手へ届き、現在を照らす語りとして提示されていると読むことができる。
そのムーサーに、主は呼びかけられた。
إِذْ نَادَاهُ رَبُّهُ بِالْوَادِ الْمُقَدَّسِ طُوًى
その時、彼の主が、浄められた谷トゥワーで彼に呼びかけられた。
主の呼びかけが届く場所
Ṭuwā については、谷の固有名であるとも、夜の一時を意味するとも、二度祝福されたことを指すとも解されてきた。また、アッラーズィーがイブン・アッバース説として紹介している、ヘブライ語で「おお、人よ」という呼びかけに当たるとする伝承上の説もある[3]。
さらに、『クルアーンのムフラダート』によれば、「折り畳む」を意味する ṭawā との関係から、通常なら長い修練を要する距離が、ムーサーのために折り畳まれたかのような、選び取りの状態を示すとも説明される[4]。
諸説のうち、どれか一つだけを確定することは難しい。しかし、ここで重要なのは、地図上の位置を確定することだけではないだろう。本稿ではトゥワーを、日常の時間と空間が折り畳まれ、人が主の呼びかけを受け取るにふさわしい場として読んでみたい。
限度を超えた者へ
そこでムーサーに命じられた。
اذْهَبْ إِلَىٰ فِرْعَوْنَ إِنَّهُ طَغَىٰ
フィルアウンのもとへ行け。まことに彼は限度を超えた。
ここで用いられているのが、ṭaghā である。
『リサーン・アル=アラブ』によれば、その基本義は、「境界を越える」「度を超す」。同じ語根から、横暴な者、暴君を意味する ṭāghiyah や、人をアッラー以外への服従へ導く偽りの権威や偶像を意味する ṭāghūt などが派生する[5]。
したがって、ṭughyān を単に「暴政」とだけ訳したのでは、その広がりを捉えきれない。それは、政治制度の問題である以前に、自分に定められた限度を認めなくなる状態なのである。
同じく、『リサーン・アル=アラブ』によれば、人間にかんしてこの語が用いられる場合、反逆、不信仰、高慢、横暴において度を越すことを意味するとされる。そこには、「横暴で頑迷な者」「愚かで、傲慢で、不正を行う者」「自分が何をしようと意に介さず、人々を食い物にし、力によってねじ伏せる者」といった説明が挙げられている[6]。
アッラーズィーは、フィルアウンの ṭughyān を二重に捉える。
一つは、創造主を否認することによって、創造主に対する限度を越えたこと。もう一つは、人々に対して高慢になり、彼らを隷属させることによって、被造物に対する限度を越えたことである[7]。
徴を前に
ムーサーがフィルアウンに最初に語るよう命じられた言葉は、意外なほど柔らかい。
هَلْ لَكَ إِلَىٰ أَنْ تَزَكَّىٰ
あなたには、自らを浄める方へ向かう気があるか。
そして、
وَأَهْدِيَكَ إِلَىٰ رَبِّكَ فَتَخْشَىٰ
私があなたを、あなたの主へ導こう。そうすれば、あなたは畏れるだろう。
と続く。
すでに限度を超えた相手に対しても、最初から断罪だけが告げられるのではない。自らを浄め、主へ向かう道が、問いかけの形でなお開かれている。
アッラーズィーは、この言葉を、ター・ハー章の、
فَقُولَا لَهُ قَوْلًا لَيِّنًا
あなたがた二人は、彼に柔らかな言葉を語れ
という命令の具体化として読む。人をアッラーへと招く際には、柔らかさと穏やかさが必要であり、荒々しさと過度の党派性は、預言者たちに命じられた態度の反対に位置するという[8]。
しかしフィルアウンは、その招きに応じなかった。
ムーサーは彼に《最大の徴》を示した。この徴については、白く輝く手、蛇へと変わる杖、あるいはその両方とする説がある。
アッラーズィーは、杖がより「最大の徴」にふさわしいとする議論を紹介する。杖には、色や形の変化だけでなく、生命のない物体に生命が生じ、巨大な力を持つものへと変化し、再びもとの杖に戻るという、いくつもの奇跡が重なっていたからである[9]。
預言者性を否認する
ところがフィルアウンは、
فَكَذَّبَ وَعَصَىٰ
否認し、逆らった。
アッラーズィーによれば、ここで「否認した」とは、単に目の前の現象を見なかったという意味ではない。その徴がムーサーの真実性を示すことを否定したのである[10]。
奇跡を前にしても、それを否認するための理屈はいくらでも作ることができる。
その徴には人間も対抗できる、と考えることができる。たとえ対抗できないとしても、それはアッラーの行為ではなく、ジンや天使の行為だと説明することができる。アッラーの行為だとしても、ムーサーを真実な預言者として確証するために行われたのではない、と言い張ることもできる[11]。
つまり、徴が足りないのではない。受け入れないための説明を、次々に作り出しているのである。
フィルアウンは、ムーサーの徴に対抗できると考えた。そのため彼は背を向けて奔走し、魔術師たちを集め、集まった人々に呼びかけた。
ここでの「奔走」は、恐れて逃げたという意味にも、ムーサーに対する策略をめぐらすために動き回ったという意味にも解される。真理には背を向けながら、真理を打ち消すためには全力で活動したのである。
「私こそ、あなたがたの至高の主」
人々を集めたフィルアウンは、ついに言い放つ。
أَنَا رَبُّكُمُ الْأَعْلَىٰ
私こそ、あなたがたの至高の主である。
ここで彼は、「あなたがたの神」と言ったのではなく、「あなたがたの主」――rabbukum――と言っている。
ムーサーがフィルアウンを導こうとした先もまた、「あなたの主」であった。
したがって、両者の対立は、誰が人間を養い、導き、命じる真の Rabb なのかという一点に集約される。
アッラーズィーは、フィルアウンが自分を天地の創造者だと本気で信じていたとは考えにくいとする。その誤りは、正気の者には明白だからである。
彼によれば、フィルアウンの主張は、むしろ次のようなものであった[12]。
あなたがたに命令し、禁止する権限を持つ者は、私以外にはいない。あなたがたを養い、恩恵を与えているのは私である。世界に神などおらず、私を超える命令者も存在しない。
つまり、ここで問題となっているのは、天地を創造したと名乗ることだけではない。人々に命じ、禁じ、養い、導く権限を自分だけのものとすることである。自分より上に、いかなる法も、正義も、命令も認めず、自分の意思そのものを最高の規範とする。そこに、フィルアウンの「私こそ、あなたがたの至高の主である」という宣言の政治的意味がある。
「後」と「先」の懲罰とは何か
そのフィルアウンについて、アッラーは言われる。
فَأَخَذَهُ اللَّهُ نَكَالَ الْآخِرَةِ وَالْأُولَىٰ
そこでアッラーは、「後」と「先」にかかわる見せしめの懲罰をもって、彼を捕らえられた。
「後」と「先」が何を指すのかについては、いくつかの説がある。アッラーズィーのまとめに従ってみておこう[13]。
第一は二つの暴言、第二は来世の懲罰と現世での溺死、第三は、後の「至高の主」宣言と、先の徴の否認である。
カッファールは、文脈上、この第三の解釈が最も明白だとする。クルアーンはまず、徴を否認したことを述べ、次に人々を集めて自己を至高の主と宣言したことを述べ、その二つを受けて、アッラーが彼を捕らえられたと語るからである。
ここでいうナカール(nakāl)は、権力者が人を見せしめにし、人々を恐怖によって服従させることとは異なる。人々を隷属させ、自らを至高の主と称した権力者自身が捕らえられ、その帰結が後代の者への教訓となることである。暴君が他者を威嚇することと、暴君そのものが教訓とされることとは、区別されなければならない。
畏れる者のための教訓
ムーサーとフィルアウンの物語を締めくくるのが、次の言葉である。
إِنَّ فِي ذَٰلِكَ لَعِبْرَةً لِمَنْ يَخْشَىٰ
まことに、その中には、畏れる者のための教訓がある。
ここで「畏れる」と訳した動詞は、يَخْشَىٰ / yakhshā であり、語根 kh-sh-y に属する。その名詞形が خَشْيَة / khashyah、すなわち「畏れ」である。
両語の意味領域は重なり合うが、khawf は危険や不都合を予期する広い意味での恐れとして用いられる[14]。一方、khashyah には、対象についての知や認識から生じる畏れという側面が強く現れる[15]。
少し戻るが、
وَأَهْدِيَكَ إِلَىٰ رَبِّكَ فَتَخْشَىٰ
についても、「主へ導けば、フィルアウンが恐怖に怯える」という意味ではない。
「主を知ることによって、自分が主ではないこと、自分には超えることのできない限度があることを認識し、畏れ慎むようになる」ということである。
そして結末の、
لِمَنْ يَخْشَىٰ
畏れる者のために
も、罰への反射的な恐怖にとどまらない。ムーサーとフィルアウンの物語を通して、自分と主との位置を知り、限度を超えることを慎む者を指す。
トゥグヤーンとハシュヤ
こうしてみると、少なくともこの物語の構造において、ṭughyān は khashyah の対極に位置する。
ṭughyān が限度を超えることならば、khashyah は、限度を超えないための内的な畏れである。
フィルアウン的な ṭughyān とは、この内的な抑制を失い、自分より上に主を認めなくなった状態なのである。
そして、自ら畏れることを失った者は、しばしば他者を恐れさせようとする。
自分には khashyah がない。その代わりに、人々の心には khawf――恐怖――や ruʿb――戦慄――を注ぎ込み、tarhīb――威嚇――によって従わせようとする。
「私に逆らえば、どうなるか分かっているだろう」。
このような恐怖の統治は、相手に考える余地を与えない。人を導くのではなく、黙らせる。浄めるのではなく、萎縮させる。
今、なぜ、ムーサーの「ハディース」なのか
たしかに、古代エジプトにおいて、ナイルの水と富を背景に圧倒的な権力を握ったフィルアウンの常軌の逸し方は、目に余るものだった。
しかし、トゥグヤーンは、古代の王だけに特有のものではない。
思い上がり、思い込み、自己利益の最大化を唯一の倫理とし、周囲の人々を自分の目的のために使う。自分が天地の創造者ではないと知りながら、自分の生活圏の中では、あたかも万能であるかのように振る舞う。
人に与えるものがあるとすれば、考える余地を奪う威嚇と暴力だけ。分け与えることも、他者の言葉を聞くことも思いつかない。
それは、正気の沙汰とは言い難い。それは、理性による自律ではない。自制を失い、自らの限度を忘れた万能感の暴走である。
Ṭughyān は、古代の王宮だけにあるのではない。私たちの日常のすぐそばに、そして時には私たち自身の内側に潜んでいる。
だからこそ、ムーサーとフィルアウンの語りは、過去の物語でありながら、なお新しい語りとして読み直され続けなければならないのである。
アッラーフ・アアラム。アッラーはすべてを御存知である。
脚注
[1] 本稿では、《聖典クルアーン》「ナーズィアート章」79章15–26節を中心に扱う。対訳は、既存の訳を参照しつつ、筆者が逐語訳を基礎として訳出したものである。
[2] 『リサーン・アル=アラブ』「حدث」項。
[3] アッラーズィーがイブン・アッバース説として紹介している。アッラーズィー『大注解』ナーズィアート章79章16節注釈。
[4] ラーギブ・アル=イスファハーニー『クルアーンのムフラダート』「طوى」項。
[5] 『リサーン・アル=アラブ』「طغى」項。
[6] 同上。
[7] アッラーズィー『大注解』ナーズィアート章79章17節注釈。
[8] 同書、ナーズィアート章79章18節注釈。
[9] 同書、ナーズィアート章79章20節注釈。
[10] 同書、ナーズィアート章79章21節注釈。
[11] 同上。
[12] 同書、ナーズィアート章79章24節注釈。
[13] 同書、ナーズィアート章79章25節注釈。3つの説の詳細は次の通りである。「第一は、フィルアウンの二つの暴言を指すとする説である。先の言葉は、《私は、私以外に、あなたがたのための神を知らない》(「物語章」28:38)であり、後の言葉は、「私こそ、あなたがたの至高の主である」(「ナーズィアート章」79:24)である。両者の間には四十年あったとも伝えられる。アッラーは最初の言葉の直後には彼を捕らえず、長い猶予を与えられた。しかし、猶予を与えることは、見過ごすことではない。
第二は、後を来世の懲罰、先を現世での溺死とする説である。
第三は、後の罪を「私こそ至高の主である」という宣言、先の罪を、最大の徴を見ながらムーサーを否認したこととする説である」。
[14] 『リサーン・アル=アラブ』「خوف」項。
[15] 『リサーン・アル=アラブ』「خشي」項。アッラーズィー『大注解』ナーズィアート章79章19節注釈。
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チュニジア・ガベス県シェニニ、ラス・エル・ウェド(راس الواد شنني قابس) photo by FATMA HAMZAOUI, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
