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フィルアウンの拒んだもの――「ナーズィアート章」17~19節に問う暴君の生き直し

AIによる要約

《クルアーン》「ナーズィアート章」17~19節で、モーセはフィルアウンに、自らを浄め、主へ導かれ、畏れかしこまるよう呼びかける。しかしフィルアウンは、そのすべてを拒み、自らを「至高の主」と称した。本稿は、彼のトゥグヤーンを、権力や富、自然の恵みや民の労働による繁栄まで、自らの王国のうちへ囲い込む自己絶対化として読み直す。さらに、タザッカー、タズキヤ、ザカートに共通する「成長」と「浄化」の語義から、浄めるとは、育てると同時に手放すことではないかと考える。フィルアウンの物語は、国家や企業、個人のうちに潜む富と権力の集中を問い、啓示を自己批判と生き直しへつなげるよう迫っている。暴君の生き直しは、自ら主の座を降りるところから始まる。


ナイルの谷の暴君

聖典クルアーンを読むにつけ思うことだが、簡潔で無駄がなくしかも読み手に迫ってくる力強さも備えている。ナーズィアート章の17節から19節も例に漏れない。

《⑰フィルアウンのところへ行け。実に彼は度を越している。⑱そして、「あなたは、自らを浄めるつもりはあるのか」と言え。⑲「私があなたをあなたの主に導く。あなたは畏れかしこまる」と》。

《聖典クルアーン》「ナーズィアート章」17節から19節。

古代のナイル谷の王、フィルアウン(ファラオ)が、トゥグヤーン(限度を超えること)[1]を働いていると名指しされ、預言者モーセが、彼のもとへ行くように命じられる。

モーセはフィルアウンに、主の命令のままに呼びかけた。「身を浄めるつもりはないか?私があなたを主に導く。そうすれば、あなたは主に対して畏敬の念を抱き、行動が慎み深くなる」と(「ナーズィアート章」17節~19節)。

はたして、フィルアウンの反応はどうだったか。彼は、まったく意に介さない。モーセはさらに、主による最大の徴をフィルアウンの目の前に示す。それは、見る者を圧倒した。しかしフィルアウンは、その徴がモーセの真実性を証明するものだとは認めず、背を向けて立ち去った。

主の座も私のもの

そして人々を集め「われこそがあなたがたの至高なる主である」と言い放った。たしかに、フィルアウンはナイルの谷の支配者ではあったかもしれない。しかし、モーセの言っている「あなたの主」とは、万有の主である。彼にはその偉大さがわからない。
彼がたとえ、絶大な権力の持ち主だったとしても、ナイルを造ったわけでも、その流れや上流域の雨を支配していたわけでもない。神殿や宮殿も、民の労働なしには築けなかったはずである。
それにもかかわらず、ナイルの恵みと民の労働によって成り立つ国の繁栄のすべてを、自分自身の力と支配だけが生み出したものであるかのように、度を越えて自らの王国のうちへ囲い込んだのである。
自分を王として演じ続けるうちに、その虚構を自ら信じ込んでしまったのかもしれない。そうした人間に、「あなた以上の存在がいますよ」と呼びかけ、その徴を示しても、見ようとも聞こうともしない。彼にとっての「主」は、自分自身でしかないのである。

後世への戒めとなった懲罰

度を越えた暴君は、自らの地位を守るためなら手段を選ばない。自らの富、権力、地位に対していっそう強い執着を示し、虚偽や誇張を並べ立ててでも、それらを誇示する。「われこそがあなたがたの至高の主だ」(「ナーズィアート章」24節)と。彼は、自分の持っているものを何一つ手放しはしない。際限なきトゥグヤーンの徒である。
しかし、フィルアウンの主でもあるアッラーは、彼のトゥグヤーンを見過ごさなかった。
ナーズィアート章は、アッラーがフィルアウンを「後のものと先のものについてのナカール」によって捕らえたと述べ、「まことに、その中には、畏れる者への教訓(イブラ)がある」と結ぶ。「後のもの」と「先のもの」が具体的に何を指すのかについては、別項で示した通り、いくつかの解釈がある[2]。
ここでいうナカールは、フィルアウン本人を立ち直らせるための警告というより、その結末を後世の人々への戒めとする懲罰である。
彼は、少なくともモーセから呼びかけられたこの場面では、自らを浄めることも、主へ導かれ、主を知って畏れることも受け入れなかった。

したがって、ここでイブラとされるのは、徴を退け、自らを至高の主と称したフィルアウンのトゥグヤーンが、ついにはアッラーの捕捉を免れなかったという一連の帰結である。軍勢とともに海に沈められる出来事は、たとえばユーヌス章の90節以降に語られている。

トゥグヤーンは、日常に潜む

この物語が照らし出しているのは、裁かれるべき悪人が、最終的には裁かれるのだと胸をなで下ろすための物語ではない。
フィルアウンほどのトゥグヤーンを働いていないとしても、「度を越しているのではないか」と指摘されたとき、誰か他人を思い浮かべる前に、自分自身に思い当たるところはないかと問う必要がある。
富にせよ、権力にせよ、制度にせよ、宗教的権威にせよ、あるいは自己正当化にせよ、そうしたものの中に潜むトゥグヤーンに思い当たる人も、少なくないはずである。
この物語が教訓となるのは、それが――程度の差こそあれ――決して他人事ではないからである。

フィルアウンが拒んだもの

フィルアウンが拒んだものから逆に、トゥグヤーンを抑制する道筋が浮かび上がる。モーセの呼びかけには、三つの契機が含まれていた。
第一は、自らを浄めること、すなわちタザッカー(tazakkā/تزكى)である。この呼びかけが求める浄化を、以下ではタズキヤ(tazkiyah/تَزْكِيَة)と呼ぶ。[3][4]。
第二は、自らの主へ導かれることである。
第三は、主を知って畏れ、自らを抑制すること――ハシュヤである。
フィルアウンは、この呼びかけ全体を拒んだ。

タザッカーは、z-k-w/yという三文字語根に属する。基本動詞「ザカー」(zakā/زكا)には、「成長する」「増加する」とともに、「清らかである」「正しくある」「健全である」などの意味がある[5]。タザッカーもタズキヤも、そして富の還流を意味するザカート(zakāh/زكاة)もこの語根を共有している[6]。

一見、無関係、あるいは矛盾するかのように見えるこの二つの意味をつないでいるのが、「ザカート」である。しばしば「喜捨」と訳されるが、イスラームの五行の一つであり、一定の条件を満たすムスリムに課される義務である。イスラーム共同体の豊かさを実質的な意味で具体的に支える富の自律的還流である[7]。

浄めるとは、育て、手放すこと

成長した財の一部を共同体へ還元することが、財だけでなく、それを所有する者自身の浄めにもつながる。ここで、「成長」と「浄め」という二つの意味が結びつく[8]。
富におけるトゥグヤーンとは、時に他人からも搾取して、際限なく増やし続け、得たものをすべて自分のものとし、手元に囲い込むことだと言えるだろう。国家権力が私的な富の蓄積に利用されているのではないかと疑わせる事例は、この時代においても消えてはいない[9]。
それならば、そうした事例を検証することから、トゥグヤーンの暴走を制するためのヒントが見えてくるのではないか。
企業の社会的責任が叫ばれて久しい[10]。もちろん、その一環としての社会的貢献を、ザカートによる富の還流にそのまま重ねることはできない。しかし、成長によって得られた富を共同体へ実質的に還流させるという発想は、少なくとも富の集中を抑制する倫理的な視座を与える。
単なるイメージ戦略としての社会貢献では足りない。富の集中そのものを問い、得られたものの一部を共同体へ還すことによって、富に潜むトゥグヤーンの芽を摘む必要がある。しかし、その問いは企業の利益に対してのみ向けられるものではない。個人が自分の手元に過度に囲い込む富もまた、同じ問いにさらされる。

自分自身という神はあてになるか?

フィルアウンの宣言が意味するのは、必ずしも自分を天地の創造主だと信じることだけではない。自分の意思を、それを超える法も正義も存在しない最終的な基準とすることもまた、自分を主の座に置くことである。
仮に「われこそが、あなたがたの至高の主である」という言葉を、「自分自身こそが、自分にとっての至高の主である」と置き換えてみよう。
そして、自分自身を自分の神としたとき、その神は、自らの欲望のひとつでさえ制御できるのだろうかと問うてみよう。
自分自身の欲望さえ抑えられない者が、どうして他者の主を名乗ることができるだろうか。
ナーズィアート章は後段で、主の御前に立つことを畏れ、自らの魂を欲望から抑制した者には、楽園が帰りどころとなるとしている。
وَأَمَّا مَنْ خَافَ مَقَامَ رَبِّهِ وَنَهَى النَّفْسَ عَنِ الْهَوَىٰ
فَإِنَّ الْجَنَّةَ هِيَ الْمَأْوَىٰ
《一方、主の立ち所を畏れ、欲望に抗して自らの魂を抑制した者には、楽園こそが、まさに帰りどころである》
(「ナーズィアート章」40~41節)

啓示を読むとは

طغيان (トゥグヤーン)を批判しながら、自分の手元に権力を囲い込んではいないか。
زكاة  (ザカート)を語りながら、自分の手元に富を集中させ続けてはいないか。
خشية  (ハシュヤ(=創造主への畏怖))を唱えながら、実際には人間の権力を恐れ、その言いなりになってはいないか。
توحيد  (タウヒード(アッラーの唯一性、斉一性、帰一性))を信じると言いながら、国家・市場・宗派・指導者を絶対化してはいないか。
人種や民族、国籍や来歴の違いを越えて、同一のアラビア語原文が世界各地でこれほど広く読誦され続けている聖典は、きわめて稀である。だが、その一方で、意味を十分に理解しないまま読誦されることも、決して少なくない。
さらに言えば、たとえ意味を理解していたとしても、その理解が自己批判と生き直しにまで届かなければ、読解は、まだ始まっていない。読むこと、唱えること、大切にすることは大前提であり、なお出発点に過ぎない。そこからさらに踏み込んで、読解を積み重ねると同時に、自分の手元に囲い込んだ権力や富を手放していく。そのような読解と実践が、主を知ることから生じるハシュヤへ、そしてそのハシュヤを自らの生き方に刻み、トゥグヤーンを制止するタズキヤへと導くのではないか。
暴君の生き直しが可能であるとすれば、それは、自ら主の座を降りるところから始まるのである。アッラーフ・アアラム(アッラーは、すべてを御存知)。


脚注

[1] 「トゥグヤーン」については、拙稿「暴君論――「トゥグヤーン(طغيان)」と「ハシュヤ(خشية)」のあいだ」を参照。
[2] 同稿「後のものと先のものについての懲罰」の項を参照。
[3] アッラーズィーは、このタザッカーへの呼びかけを、タズキヤ――浄めること――の問題として説明している。
[4] 本稿では、z-k-w/y語根における「成長」と「浄化」の連関を、増えた財の一部を手放すザカートの実践に即して考える。ここでいう浄めは、一般に神道の文脈で語られる、穢れを祓うという意味での「お浄め」とは性質を異にする。
[5] 『リサーン・アル=アラブ』「زكا」の項。同書は、ザカートの言語上の原義を「浄化(الطهارة)、成長(النماء)、祝福(البركة)、称賛(المدح)」とまとめている。
[6] 形態論上、tazakkā(تَزَكَّىٰ)は第V形動詞であり、その動名詞はtazakkī(تَزَكِّي)である。tazkiyah(تَزْكِيَة)は同じ語根から派生する第II形動詞zakkāの動名詞である。しかし、両者はともにz-k-w/yという三文字語根を共有し、「成長」と「浄化」という意味の場に属している。
[7] 「イスラーム共同体の豊かさを実質的な意味で具体的に支える富の自律的還流」については、奥田敦・中田考編著『イスラームの豊かさを考える』丸善プラネット(2011年6月)、特に、① 総論(イスラームにおける豊かさと貧しさ;イスラームにおける人間の豊かさ)② 経済における豊かさ(イスラーム経済とイスラーム金融;世界同時金融危機とイスラーム金融;ザカート、サダカの実践と「豊かな社会」—シリア・アレッポのムスリム社会における慈善活動者たちを事例に)を参照のこと。
[8] 本稿でいう「育て、手放す」という理解は、z-k-w/y語根全体の辞書的定義ではなく、「成長」と「浄化」という語義を、ザカートの実践と結びつけて読み取ったものである。
[9] 最近の報道例として、Forbes JAPANは、ドナルド・トランプ大統領が巨大IT企業から選挙支援を受けたのち、それらの企業に有利なAI規制を進める一方、自身もテクノロジー企業の株式を大規模に取引していたとして、利益相反の問題を提起している。Kyle Khan-Mullins「2026年版、トランプ大統領が売買した株式トレード『トップ10』」『Forbes JAPAN』2026年5月29日。
[10] 企業の社会的責任の現状と課題については、大橋信太郎「CSRとは 活動事例とメリット・デメリット、導入のプロセスを解説」『朝日新聞SDGs ACTION!』2023年11月8日(最終更新:2026年1月3日)。


推敲・校閲協力: ChatGPT

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Wael Mostafa - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, via WikiMedia Commons
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