「ムハンマドは気が狂っているのではない」は本当か?ーー「ض (ダード)」の警鐘:「タクウィール章」第22~25節をめぐって
「預言者は狂っているのではないか」
それは、いつの時代も、新しい言葉が投げかけられたときに向けられてきた疑いである。
それを「マジュヌーン」という
《聖典クルアーン》「タクウィール章」は、読み手のナフスの緊張がほどけたところで、ジブリールの絶対的信頼性と安全性を誓言していた(19節)[1]。次は、いよいよ、ムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)の番だ。クライシュ族の一員でもあるのだから、彼らにとってはなじみのムハンマドである。至高なる御方は、「あなたがたのサーヒブ」と切り出す。そして彼は「気が狂っているのではない」と誓言する。一連のカサムが終わった後、章全体の流れとしては、「尊貴なる御使い(=ジブリールのことを指すとされる)の言葉」が中心をなしてきているのだが、ムハンマドにかんしては、「気が狂っているのではない」をわかってもらうことがとにかく大切なのだ。
ところで、アラビア語の明文では、気が狂っているのところにあるのが「マジュヌーン」の語だ。この語は、動詞「ジャンナ」(覆う/隠す)の過去分詞に当たる。字義通りには「隠された」となるが、「ジン」とも、語根は共有されており、「ジン」に憑かれているということなのだと、分かったような気になりがちなのだが、実は、それこそジンに憑りつかれたような理解なのだ。
ジンと天国の共通点
何故なのか。ここでは、「ジン」と「ジャンナ」そして、先ほど隠すの意味を紹介した動詞の「ジャンナ」もすべて同一の3語根から派生した言葉である点に着目してみたい。
「ジーム」という子音の特徴を押さえておこう。発音してみればわかることだが、調音の位置は口腔の中央で前寄り。内部で生じ、前方へはじけ出る軽い破裂と摩擦を伴う音だ。身体的な感覚としては包まれた内部から外へ向かってそれなりの出口に向かって開くという感じだろうか。
この「ジーム」で始まり、「ヌーン」が重ねられる「ジーム・ヌーン・ヌーン」の3語根からなる「ジン」や「ジャンナ」のような語彙をいくつかの語彙を上げてみよう。
جَنّة(木々に覆われた庭/楽園)
جِنّ(不可視だが存在するもの)
جَنِين(胎児)
مَجْنُون(理性が覆われた)
「覆う」「包む」「守る」というこの3語根の中核的意味がすべてに共有されていることが分かる。
祓うべきは、ジン?
「ジン」は、「覆われている」から見えない。ジンに善良なものとそうでないものがいることとも矛盾しない。「ジャンナ」(名詞)は木々に「覆われている」のだから、来世のみならず現世にも用いられる。つまり、「覆われていること」をもって、両者はつながっているのだ。ただ、どうしても覆っている狂気あるいはもの憑きとしてのジンの方に引きずられてしまうのだ。まさに、ジンに憑かれた状態だ。
「ジャンナ」(動詞(=隠す))からみて行けば浮かび上がることではあるが、理性が覆われてしまっていること、そして「覆われていること」に対する否定は、「覆いを外すこと」であるはずだ。覆いを外してみて見えてくること、それは、ジンに憑かれて、シャーマン的に何かをしゃべっているのでも、もちろん、狂気に支配されて正気を失ってしまっているのでもないということ。いや、覆いを外してみれば、彼の意識も理性も、機能しているし、次節以降に示されるように、通常にもまして働いているということですらある。狂気の解釈からジンを祓って、理性を取り戻さなければならないのは、読み手の方ではなかったか。
今度は隠されてないのに見えない世界
理性、あるいは意識を覆っている覆いが外れている前提で、アッラーは、ムハンマドが、ジブリールを、他とは明確に区別される崇高なる地平線に見たと誓言しているのだ。この事実もまた、彼の研ぎ澄まされた意識と言語能力があってこそ。狂人のうわごとやジンに憑かれた末の幻覚や妄想ではないのだ。ハディースによれば、そのときにジブリールは、東西にまたがる空いっぱい広がる椅子にあって600の翼を有していたとされる[2]が、これを見ることのできたムハンマドは、まさに強靭な意識の持ち主であり、人間の意識の極限を示しているとも言えるのだ。それでも何とか自分自身を保てていたのだから。アルハムドリッラー。
さらに、(こうした状態にある)ムハンマドは、「ガイブ(幽玄界)について明かすのを惜しむようなことはしない」という誓言が続く。
ガイブとは
「ガイブ」とは、「不在、不在であること」、そこにいないこと。覆いを外せば見えるものとはそもそもの在り方が違う。まさに、不可視界、幽玄界。
ここで鍵になるのが、ムハンマドの研ぎ澄まされた意識である。残念ながら理性だけでは不可視界へのアプローチは少し厳しい。ここで頼りになるのが「言語」であり、「言語による意識化」。もちろんそれも含めて「理性」だと括るのであれば、研ぎ澄まされた理性」としても問題ないかもしれない。
そこにないのかどうかについては、すでに量子コンピュータの最前線の成果によれば、有ると無は抱き合わせである[3]。通常「見えている世界」だけを有とするならば、その裏側に有る「見えていない世界」は、つまり言語化によって可視化すればよい、ということになる。いずれにしても、言語による意識化なしにこれを語るのは難しい。
「ダード」を発音してみる
だが、それにもまして、難しいのが、この手の事柄は、しばしば特定の集団、階層、とくに独裁者あるいは、神秘主義者の集団に囲い込まれてしまって、開示されないということだ。だからこそ、この「幽玄界について明かすのを惜しまない」という誓言がことさら光るのだ。
ここでも、「惜しまない」と否定されている「惜しむ」の語について、この語の子音の面からアプローチしてみよう。「ダニーン」の「ダ」に用いられている子音「ض (ダード)」は、アラビア語特有の子音で、それをもってアラビア語が「ダードの言語」とされるほどの子音だからでもある。
「ダニーン」の3語根は、「ダード・ヌーン・ヌーン」。
「ダード」という子音の特徴を押さえておこう。この発音、アラビア語の子音の中でも最難関。何せ、調音位置が舌の側面と奥歯の側音。しかも、強い圧縮をかけて口腔内での滞留から横に逃がす。発音してみればわかることだが、本当に難しい、筆者の場合、舌を平たく延ばして奥歯を噛ませるのがせいぜいのところ。身体的な感覚としては力が内側にとどまり、外へ出すことに逡巡必至の圧縮と対流と抑圧の音としたら言い過ぎか。
比類なき出し惜しみ
ここで用いられているのが、
ضَنِين:吝嗇な/出し惜しみする。であり、もとは、ضَنّة:欠乏・狭窄 である。
惜しんで、出し渋って、内に溜め込む。この語は、まさにダードが示すように、内に力があるが、外には出さないし、循環しないという語感を伴うのだ。だからこそ、ここでもまたこのことの否定は、日本語で「出し惜しみをしない」「惜しまない」という表現から感じられるのとは、半端のない惜しみぶり、内に溜め込んで一つも外に出そうとしないような、レベル違いの惜しむ姿勢が前提になっていることが分かるのだ。
だからこそ、ムハンマドは、「ガイブ」を圧として内側に溜め込まないし、その得体も知れないほどに溜め込まれた内圧を支配の道具にしないことが、アッラーによって誓言されていると読むことができるのだ。
ダードという子音
ここまで見てきた音声的特徴を踏まえるなら、内向きにも、また外向きにも極めて危険な圧力をこの言語が持っていることを象徴しているのが、つまり、「ダード」という子音なのだ。アラビア語が「ダードの言語」と呼ばれるのは、「ダード」というほかに見られない軸芯をもっているからにとどまらない。
圧縮、抑圧、内圧、独占への転化など、出口が見つけられず内にこもり続けてしまうこの圧力を蓄えていることに対する警告でもあるということだ。
だからこそ、啓示は、独占されてはならないし、ガイブが出し惜しみされてはならないし、イスラームの教えは閉じられていてはならないということなのだ。
つまり、ダードの言語は、本質的に極めて危険なのだから、それを十分に弁えたうえで、それが持つ極めて危険な宗教的傾向を内部から制御せよという導きにも読める。
自己目的化の危機
こうして見ると、このダードの言語は、ダードの言語であるがゆえに、極めて高度に自己反省的な側面を持つ言語であることが分かるが、この振り返りを阻止してしまうような様々な内圧を高める分厚い障壁に身を固めている点も指摘しておいてよいと思う。
宗教を、解釈学者たちの秘儀であるかのように囲い込むこと。あるいは、厚い外壁の中、内部の圧力だけが高まっていくような、タクリード的解釈の横行といった事態だ。
それはまさに、知の「ダード」化。啓示は開いているのに、解釈が圧縮され、理解が独占されていく。
本来「知」はつねに更新されるべきもの、そして、その更新を前提に、ズィクルとしてのクルアーンは共有されるべきもの、そして、ひとつ一つのアーヤは、まさに、見えないものを見えるものに言語化、意識化してくための徴である。
しかし、それを専門用語で囲い込み、権威で封じて、「お前にはわからない」と言ってしまったとすれば、それは、「ダード」の自己目的化でしかない。啓示的にも、そしてそもそも音声的にも。
迷誤の道は地獄への道
これがまさに、ダードからみたときの、そしてダードで始まる言葉で表される「ダラール」の実像ではなかろうか。アッラーの教えから、迷い、道を失い、本来の方向からそれてしまう。
音声的には、「ダード」の圧をもったまま、「ラーム」の示す目的や方向が定まらず、循環も開示も失われた状態だ。高い圧を抱えつつも行き先がない。
宗教がもし、圧をもち、権威をもち、影響力を持ちながらも、人を活かさず、認識も開かず、恐怖だけを押し付け広める時、それはもう、音声存在論的に「ダラール」なのだ。
だからこそ、アラビア語が「ダード」の言語であることは、クルアーンが「ダード」の圧力を然るべき方向に解放する書であるということと表裏一体の関係だ。
抑圧を否定せず、圧を消去せず、しかしそれを開示・呼吸・循環へと変換する。
やや飛躍するかもしれないが、ダードからジーム、つまり、迷誤から、ジャンナへの転換だ。
ダードは警告する
ジャーヒリーヤからイスラームへ。信徒たちは、イスラーム教徒になったのだから、もうジャーヒリーヤとは決別できたと思うかもしれない。
しかし、こうして音声的に見た時、ダードの言語は、いつでも、信者たちも世界もジャーヒリーヤへ引き戻す内圧を持て余しているのだ。星が隠れ、夜が徘徊し、朝が呼吸する、砂漠で生きる身体の経験が響かない者たちは、せめてダードの警告に耳を傾けて、ジャーヒリーヤへの逆行を食い止めたいものだ。
啓示は、このコトバが、シャイターンの言葉ではないことを誓言して、彼らに問う。「あなたがたはどこへ行くのか」と。「いかに」生きていくのかという問いに読み替えているのがサーブーニー[4]だが、筆者には、堀を完全に埋められた格好なので、この言葉を信じるしかなかろうという反語に読める。にもかかわらず、どこかへ行こうとしてしまうのが、迷誤の徒ではなかったか。決して他人事ではない。
アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] 拙稿「天使のほほえみーージブリールの属性は照らす:「タクウィール章」第19~21節をめぐって」参照。
[2] サーブーニーは、13世紀の注釈書『バハル』から当該ハディースを引用している。ムハンマド・アリー・アッサーブーニー『サフワッタファースィール』ベイルート、2002年、1652頁以下。
[3] 量子論と一神教の「1」との関係は、拙稿「「1」でも「0」でもある「1」の世界:量子ビットと唯一神教」を
また、「ゼロと一の抱き合わせ」については、拙稿「「量子もつれ」の声に聴く」をそれぞれ参照のこと。
[4] ムハンマド・アリー・アッサーブーニー『サフワッタファースィール』ベイルート、2002年、1652頁以下。
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タイトル画像:
超光速運動(via WikiMediaCommons)
