見出し画像

天使のほほえみーージブリールの属性は照らす:「タクウィール章」第19~21節をめぐって

天使に救われる毎日

「天使のほほえみ」と聞いたとき、浮かぶ笑顔がありますか。たとえば、いつも出掛けるスーパーのレジの店員さん、笑顔が素晴らしい。スマイルはプライスレスだというハンバーガーチェーンには、行かないけれど、たしかにプライスレスだ。90代も半ばを超えた母親に三食を作りながら2人暮らしをしている身にとって、日常の、さりげない場面で、思いがけず笑顔をもらうと、嬉しくなるし、楽しくなるし、自分がちょっと弱っていれば、癒しにもなる。

ほほえみだけではない。たとえば、忘れ物、落とし物が日常茶飯事の筆者にとって、忘れていますよとか、落としましたよとか、あるいは落としたもの拾っていただいたり、保管していていただいたりして、ありますよと言っていただけたとき、そこに天使を見る。天使的な優しさをいただきながら、凸凹な日々を何とか平和に過ごしていく。有難い限りだ。アルハムドリッラー。

その男…

しかし、天使とはいったい何者なのか。ムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)のところへ訪ねてきた男の話がある。のちの2代目カリフウマルとの談笑中。目に痛いほどに白い衣に漆黒の髪の男が現れ、「イスラーム」について問う。ムハンマドは、「信仰宣明と、礼拝と、喜捨とラマダーン月のサウム、そして可能であれば一生に1度のメッカ巡礼だ」とムハンマド。男は「サダクタ(あなたの言ったことは正しい)」。すると「イーマーン」についても問う。「アッラーと天使、彼の書、彼の御使い、最後の審判、天命を信じることだ」とムハンマド。「サダクタ」と男。さらに「イフサーン」についても問う。「アッラーのことが見えているかのように生きること。たとえ目には見えていなかったとしても」とムハンマド。男は「サダクタ」と言って立ち上がると、颯爽と去っていった。そして誰だったのかを問うウマルに、「ジブリールだ」とムハンマド[1]。つまり天使は、人間の姿をとって現れることがあるのだ。

天使の属性

ジブリールに対するイーマーンの説明の中に、信じる対象の一つとして「天使」があげられていたが、天使とは一体いかなる存在なのか。タクウィール章では、カサムを受ける形で、いくつかの宣言が打ち出されているが、その最初の3節、つまり第19節から21節に大天使ジブリールの属性を読み取ることができる。

まず、啓示を話しているのが、御使いであり、その御使いは、尊貴なるものであるということ(19節)。

つぎに、「力の持ち主」であり、アッラーの御許での地位をもっていること。そして、その地位が極めて高いということ(20節)。

そして、そこではほかの天使たちが彼に従っているということ。そして彼は、「アミーン」であるということ、つまり、御使いとして曇りない信頼性と揺らがない安全性そのものである(21節)ということだ。

またムハンマドが崇高なる地平に見たジブリールは、東西にまたがる空一杯の椅子の上で600の翼をもっていたともされる。天使たちの統領ともなると、存在感も、規模感も、力感もすべてが桁外れ、自分なら腰を抜かしてみていられなかったようさえ思う。極限状態に耐え抜いているムハンマドだからこそ見ることができたのであろう。

舌の働き

ところで、それが、ジブリールの言葉であることについて、そもそもはアッラーのコトバであるはずなのに、この啓示はそのことに反するという根強い指摘がある[2]。しかし、この批判は当たらない。なぜならば、ジブリールといえども、いやジブリールであるからこそ、アッラーの命を一ミリでも外れることはあり得ないからだ。たしかにムハンマドが受け取ったのは、彼の発した言葉ではある。しかし、アッラーからの命令なしに、彼は何も口に出すことはできないのだ。そうだとするならば、アッラーのコトバが、そのまま、ジブリールに引き継がれ、そのコトバがそのままムハンマドに降されたのであるから、アッラーご自身の言葉がそのまま保たれていることを指していると読めるはずだ。

これについては、言葉にあたる「カウル」の語の基本的な語義、「舌で発せられる順序だったことば」[3]からも考えられる。ムハンマドが啓示として彼の「舌で発した」のは、ジブリールが「舌で発した」言葉だったからだ。この場合、誰の舌で発せられたかは問題になるが、舌の発した発話の内容が、啓示なのだから、何が舌で発せられるのかは、まさにアッラーのみぞ知るところ、よって、尊貴なる御使いの言葉は、クルアーンの奇跡性、アッラーの唯一性と何一つ抵触しない。

地上の玉座

人間にとって、厄介なのは、アッラー他のものにすり替えられているのではないかという問いが立てられてしまう現実の方だろう。アッラーを見出そうとして、結局アッラー以外を神としてしまうのだ。アッラーの御許でというのを地上の権力者の御許でと置き換えてみたらよい。その中で、最高の高みに上り詰めようという輩はごまんといて、権力闘争に明け暮れ、民衆は民衆で強いリーダーを求め、称讃する。強いリーダーは、強さを誇示するためなら手段を選ばない、時に数百万人に及ぶ粛清・虐殺も意に介さない。他国の領土・領海に入り込むなどは、強さの証明だから罪悪感などありそうもない。それが、従うものが見失われているのをいいことに玉座に上がり込んで、民と世界を混乱へと導く今日の政治的リーダーたちの現実的な姿ではなかろうか。

こうした似非権力者たちとジブリールとの決定的な違いが、「アミーン」であるかにある。似非権力者たちは自分が神であるかに思い上がっている。そのため、天からのメッセージを言葉にして、省略も、欠落も、捏造も一切なしに民たちに伝えることから生まれる信頼性など、期待することはできない。「アミーン」と言えば、権力者にとっては自国のみの「安全保障」、あるいは保身のための「安全」だ。取り巻きたちにおいては権力者への絶対服従。忠誠・忠実。近時もなお民族浄化と見まがう膨大な犠牲を出しながら、平然と免責を求める者さえいる。「罪のない人を一人殺すことは、全人類を殺すことに等しい」[4]といった一神教世界では広く共有されているはずの倫理観はどこへ行ってしまったのであろうか。

アミーンが変質する中で、そもそも伝えられるべきことが何なのかが見失われているのではないか。そうなれば、情報は意図的に操作され、マスコミも操作され、都合の悪い情報は、フェイクだと切り捨てて、詭弁を弄しての保身に走る。そうなると、SNSは非難と怒号の大炎上で収まるところを知らない。

「ط」という子音

ここで、ポイントになるのが、「服従」という行為である。本章では、「ムターイン( مطاع )」(服従される)という言葉で出てきた。そこで注目しておきたいのが、「ط」という子音だ。無声・歯茎破裂音で、 強調音(ḥurūf al-iṭbāq / emphatic consonant)である。つまり、舌を平たく、奥に沈め、口腔を狭めた状態で、一気に破裂させる音である。籠らせた「ター」と説明することもある。つまり「」は、圧を内側で溜め、方向づけてから解放する音であり、制御され籠った力が適切な経路を通って外へ出る音とも言えそうだ。

したがって、この子音「ط」は、「服従させる( أطاع )」にも「~ができる( استطاع )」――能力や可能性もまた内圧を制御して外へ出すこと――にも含まれている。そして、このふたつを結んでいるのが、「行為者の意思の介在」である。

他にも、たとえば、求める「タラバ( طلب )」、叩く「タラカ( طرق )」、層が重なる「タバカ( طبق )」など…。たとえば、「ターリブ(  طالب ( 男子学生 ))」「ターリバ ( طالبة ( 女子学生 ) )」に主体的な意思がなければ続かないし、主体的取り組みあっての「タッバカ(طبّق )」(適用、実践する)であろう。 

アミーンなほほえみ

その反面で、この子音が多くなればなるほど、強制、支配、服従といった音の印象が前面に押し出されてしまう。

日本語でも「能力」が求められ、それを発揮できて当り前というような緊張状態は、出来ない自分を認められず、心を病みかねないし、行き過ぎた能力主義で出来ない人の切り捨てにもつながってしまいそうだ。イスラームに即して言えば、宗教に強制なし[5]の大原則からも離れてしまう。

だからこそ乱発は危険なのだ。一人ひとりの主体性を重んじたいのであれば話は別かもしれないが、そうでなければ支配者の強制が前面に出てしまう。使用は最小限にとどめるべきなのだ。

現に、タクウィール章の中で「ط」が出てくるのは、孕みラクダの放棄の「放棄する」に当たる言葉「ウッティラ( عُطِّلَ )」と、この「服従される」の「ムターイン( مطاع )」だ。どちらも主体性というより服従の意味合いの強い「ط」であろう。[ط]という音の押し付けによる聴神経への影響にも配慮したかのコトバ選びに、アッラーのコトバの偉大さを改めて感ぜずにはおかない。

ジブリールは、ほほえまないかもしれない。しかし、自分の気持ちをまっすぐに誠実に伝えようとするほほえみは、言葉にこそ出さないけれど、そこに嘘がないという一点でもって、アミーンで、十分に天使のほほえみと言いうるのではないか。天使的行為にほほえみを。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
 


脚注

[1] 『正伝ムスリム』「信仰の書」。イスラームの教えのこれら3つの基礎については拙訳著『フサイニー師「イスラーム信仰五〇の教理』慶應義塾出版会、2000年、183頁以下など参照のこと。
[2] アッラーズィーのタフシール、タクウィール章、19節。議論の全体が、内容も含めてジブリール(が創った)言葉としているところに問題があるのだが、本稿で行なったような、「カウル」に対する考究はない。
[3] 『リサーヌルアラブ』「 قول 」の項
[4] アッラーは、イスラエルの子孫に対する教えとして、この聖句を降している(《聖典クルアーン》食卓章32節(5:32)。
[5] {لَا إِكْرَاهَ فِي الدِّينِ ۖ}  (《聖典クルアーン》雌牛章256節(2:256)。

Special Thanks to: ChatGPT-5.2

タイトル画像:

ムハンマドに天啓を授けるジブリール。ラシードゥッディーン編『集史』(14世紀)より via WikiMediaCommons
Special Thanks to: WikiMediaCommons

 


いいなと思ったら応援しよう!