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「量子もつれ」の声に聴く

観察されたときだけ量子は存在する

「存在はコトバである」──これは、井筒俊彦の言語哲学を貫く根本命題である。言い換えれば、「コトバがあって初めて存在がある」、あるいは「コトバがなければ存在もない」と理解することもできよう。しかし、コトバがどこから来たのかを考えてみれば、イスラーム的には、アッラーから来たものにほかならず、アッラーが何者なのかと言えば、「存在そのもの」であると同時に「存在し続けているもの」。こうして見れば、そこに「存在は、コトバであり、コトバが存在である」という地平が拓けてくることがわかる。
コトバが「存在そのもの」から発せられているとすれば、そこに因果関係や時間的な前後関係を問い直すこと自体、すでに意味を失っているのではないか。
もう少し踏み込んでいえば、コトバとともにあってはじめて存在は顕現するということになろうか。
それは観察されたときだけ、量子は実在するという、量子論が突き止め、数式で表すことにも成功した量子の在り方[1]を想起させる。

大きな力

二つの光子の間には、たとえそれらが宇宙の果て同士に位置していたとしても、測定によってつねに強い相関が現れる──これがいわゆる「量子もつれ」である。
観測によって、時空を超えた実在の相関が確定されるというこの現象は、「啓示」に似てはいないか。すなわち、時空を超えて降されたコトバが、読まれることによって顕現するように。
「読み」という名の「観測」が、距離も時間も超えて、強い相関に貫かれた世界を立ち上げるのだ。
つまり、「啓示」が創造主からのメッセージであるということは、読みのみが創造された世界を開示することになる。観測とともに実在があるのと同じく、読みとともに世界はあるのだ。
したがって、コトバとともに世界はあるが、同時にそこには、宇宙をも包み込みつつ、コトバを降すとてつもなく大きな意志であり力であるような何かの存在を想定せざるを得ない。

「もつれ」というメッセージ

「読む」という行為は、その瞬間、創造主の意思なり力なりに触れ、世界との相関的な対話を行なうことに外ならない。コトバが世界であり、世界がコトバなのだ。
科学に限らず自分で自分を観察することは難しい。そうしてみると、世界にも自己にも言及できるコトバの偉大さがわかる。しかしそれがわかるのも「読み」があってこそ。しかもその読みは、知識を得るだけの読みではない。むしろ「もつれ」を手繰り寄せ、「もつれ」が巻き込まれている状態が、局所的な特異性ではなく、世界であり常態であることを読み取るのだ。

観測者という神

観測者と実在は別もの。実在の所在は、時空の中で一意的に決まる。長く科学的パラダイムを支配してきた考えの基礎だ。その象徴的な科学者がアインシュタイン。「神はサイコロを振らない」とは、あたかも神の意思を知っているかのような、神の代弁者を自任する発言ではなかったか。その背後には、「選ばれた民」の特権意識に根ざす、一神教的な傲慢さが滲み出ているようにも思える。
観測によってのみ実在が確定する世界では、観測のできていない瞬間が必ず現れ、その間の世界のありようは、いよいよ知りえないし、あるかどうかさえ定かではないのだ。量子論では一とゼロは抱き合わせであり、両義的であることを想起しても分かる。
アインシュタインの天才に対する神格化が、観察者の目をさらに曇らせてしまったかもしれない。
巻き込まれているのに、自分だけは別だとして神の視点をもった者として切り離す。そのパラダイムは収束に向かっているというのに。
このように、量子もつれが数学的に記述され、科学的にも実証されたこの状況は、量子もつれ的状況の中に世界はあるということを示す。つまり、このもつれ状態から、自分をあるいは自分たちを切り離し、無関係を決め込むことは、量子という宇宙の真理に反していることを意味する。

言論統制の意味

暴力の行使者は、コトバを使わない。コトバを使うと、自分を神格化してほしい者たちにとっては、見たくないもの、見せたくないものが見えてしまうからだ。だから、自分たちにだけ通じる言葉を使う。それは人間の言語ではあるが、コトバではない。このコトバが失われてしまえば、もつれた、いや、宇宙全体が織りなされる実在も無しのままだ。コトバの不在、テクストの不在は、この世界の、宇宙の、全存在の相関性の遮断である。
世界を見渡せば、このもつれを切り離し、巻き込まれることの拒絶こそが正義であるとする人々の暴力(相関している世界にあっては無駄な抵抗なのに)がいまだに横行している。

相関性のコトバ

ガザ地区で、ヨルダン川西岸で、そして今や中東全域に広がりつつあるイスラエル国家による占領・封鎖・隔離政策は、まさに、この相関性を断ち切り、コトバ、つまり存在の連続性を遮断し、読むこと、あるいは観ることによる共感あるいは共苦を局所限定的なものとして押し付ける。まさに量子的世界観とは真逆の暴力的秩序の確立だ。
いや、それらにとどまらない。共鳴する相関性に人為的に境界線を引いて、移民や異教徒を排除する。巻き込まれることの排除を安全保障の名のもとに正当化する。その背後には、人々を分断し、格差を作って、その差分によって成長する資本主義が控えており、人々の相関性の芽を摘み取っていく。

「彼らの苦しみは私の苦しみ」

量子もつれの世界において、相関性は「非局所的(non-local)」であり、存在とは観測者から切り離せない参与的リアリティである。したがって、そこでは実在から独立した観察者などありえない。つまり、ある地点で行われた人間への暴力は、それが言語化されれば「見る者」「知る者」「感じる者」すべてに何らかの実在的な影響を与えずにはおかない。
パレスチナ苦しみも、差別された移民の苦しみも、世の中から切り捨てられた人々の苦しみも、本来、相関の相手方がいて、切り離すことができないはずなのだ。「彼らの苦しみはあなたの苦しみ」というややもすれば、倫理的主張が、単なる感情や政治スローガンではなく、量子もつれの世界では、存在論的・物理学的次元から支持されることになるのだ。

光子がもつれる音を聞く

「量子もつれ」は、量子コンピュータや量子テレポーションの登場によって排他的な一神教のパラダイムの終焉の象徴的存在。「1」でもあり「ゼロ」でもある「一」を基調とし、「もつれ」を常態とし、時空を超えた相関関係をむしろ能動的に作り出していくことが求められている。何をいかに読むのか。実在上の「徴し」も含めた啓示というコトバが降されているとするのなら、あとは読み方だ。
イフサーンとウスール・ル・フィクフの刷新と現代的展開が期待される。そこではコトバを「読むこと」が、同時に「巻き込まれ」という事実を引き受けることでもあるという覚悟を、霊のレベルと身体のレベルで込めることができるからだ。
分断や排除のためでなく、量子論の教えるような相関性を掘り起こす読み。そうすれば、もつれ、巻き込まれているからこそ生まれる「量子もつれ」の相関性の声を聞くような共感の世界が拓けるはずだ。《クルアーン》のコトバと「量子もつれ」の連関への気づきは、クルアーンの最初の啓示がなぜ「読め」だったのかの重さを改めて教えてくれている。バラバラになりかかっている世界をいかにつなぎとめるか。さぁ、「読み」はじめよう。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

脚注

[1] 「量子もつれ アインシュタイン 最後の謎」NHKスペシャル(初回放送日:2024年12月28日) 本稿執筆に際して多くの情報を参考にした。

Special Thanks to: ChatGPT-4o

タイトル画像:

Special Thanks to : 龍青三(リュウセイザン)様

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