「できないのは甘え」と言う人ほど、弱音を許されずに生きてきた。
「できないです」って言ったら、 「できないのは努力不足だよ」「それは甘えてるだけじゃない?」
そう言われた夜のことを、私はいまだに覚えてる。 新人の頃、初めての現場で不安が大きすぎて、素直に言った一言。
言われた瞬間に反論できなかったのは、相手が正しいと思ったからじゃなくて、その言葉を聞いた瞬間に、自分の中の何かが静かに、ぽとんと落ちた音がしたからだった。
息を吸うのを忘れたみたいに、しばらく固まった。
きっと、似たような経験をしたことがある人は、少なくないと思う。
私が中学生だった頃の話を、少しだけ。
その頃、私は学校で集団無視に遭ってた。 誰とも目が合わない教室で、自分の机だけが、教室の真ん中で浮いているように感じる毎日。
ある日、交換日記のようなものが回ってきて、その中に自分の悪口がびっしり書かれているのを見てしまったことがある。
次の音楽の授業は行くことができず、みんなが移動した空っぽの教室の窓の外をぼんやり見ていて、「ここから飛び降りたら、明日は来ないのかな」と本気で考えた。
そのとき、誰かが私にこう言ったら、私はどうしたと思うか。
「気の持ちようだよ」 「みんな乗り越えてることでしょ」 「あなたが弱いから、そう感じるだけ」
たぶん私は、何も言い返さずに、ただうなずいたと思う。 そして、心の中で「ああ、私は弱いんだ」と、自分にもう一度、ナイフを刺しただろうね。
「できない」「つらい」と口にした人に、「努力不足」「甘え」と返す人は、悪意があってそうしている人ばかりじゃないのは分かる。
むしろ、本人は親切のつもりだったり、励ましのつもりだったりすることのほうが、ずっと多い気もする。
ただ、その言葉が落ちていく先には、もう何度も何度も自分を責めてきた人が立っているかもしれない。
何度も「自分が悪いんじゃないか」と問い直して、ボロボロになった心を抱えた人が、最後の力で「もう無理」と口にしているとしたら。
そこに「努力不足」と落とすことが、どれだけ重いことなのか。 言った側は、たぶん、知らないまま。
私自身、20代の頃は、人にそういう言葉を平気でかけていた側だった。
「私のほうが大変だった」 「みんなやってることでしょ」 「気持ちの問題だよ」
そう言うことで、相手を立たせているつもりでいた。 本当は、相手の弱音を聞き続ける器がなかっただけだったのにね。
「努力不足」「甘え」と言いやすい人ほど、自分の中の「弱さ」を見ないようにして生きてきた人なのかもしれない、と最近は思う。
自分が弱音を吐けない人は、人の弱音も受け取れない。 自分が休むことを許せない人は、人が休むことも許せない。
それは、その人が悪いというよりも、その人もまた、誰かにそうやって育てられてきた。
「弱音を吐くな」と教えられた子が、大人になって「弱音を吐く人」を許せなくなる。 連鎖は、そうやって静かに続いていくんだ。
「できない」には、いろんな種類がある。
体が動かない「できない」 心がついていかない「できない」 これ以上自分を消耗させたくない、という「できない」
それを全部ひとくくりに「努力不足」と片づける人の前で、もう自分の説明をやめていい、と私は思ってる。
説明して、わかってもらおうとして、傷を増やすくらいなら、そっと距離を取っていい。わかる人にだけ、わかってもらえばいい。
私はいま、人生のいろんな場面で「できなかった」自分を、ようやく責めずに見られるようになってきた。
「ようやく」と書いたのは、いまだに揺れる夜があるから。
ふと、過去の自分に「あの時もっと頑張れたんじゃないか」と問いかけてしまう瞬間が、いまでもあるよ。 そういう夜は、「あの頃の私は、あれが精一杯だったよ」と、自分に何度も言い直してる。
「できない」を「努力不足」「甘え」と言ってしまう人と、無理に分かり合おうとしなくていい。 その人と私とは、見ている景色が違うだけで、どちらが正しいかではない。
ただ、 もし、誰かのその一言で動けなくなっているなら、これだけ伝えさせてください。
あなたの「できない」は、甘えじゃない。
そこまで、よく持ちこたえたと、私は思う。
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