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【歴史探訪18】開拓か、略奪か。島津荘を築いた男・平季基の正体(宮崎県都城市)


はじめに

南九州に日本最大級の荘園「島津荘」を築き上げた平季基たいらのすえもとの評価は、見る立場によって激しく揺れ動きます。 ある時は、まるで受領ずりょうのように強欲な顔を見せ、またある時は、土地の安寧を祈り自ら神主となった敬虔な守護者の顔を見せる。 欲望と知略が渦巻いた平安中期、島津の地に刻まれた平季基の素顔に迫ります。


受領ずりょう府官ふかん 同じ穴のムジナたち

平安時代中期、政治の仕組みが変わり、地方統治は国司(国衙こくが)に一任されるようになります。これ以降、現地に赴任して行政の全責任を負う国司の筆頭を「受領ずりょう」と呼ぶようになりました。受領は規定の税さえ納めれば、残りは自分の利益にできたため、彼らは私財を蓄える徴税のプロとなりました。同時に、中央の貴族から見れば、彼らは地方の富を吸い上げる極めて優秀な「集金マシン」であり、この仕組みが華やかな宮廷文化を支える資金源ともなっていました。

とりわけ九州(西海道)の諸国は、中央政府と、九州諸国を統括し国司への強力な監査・監督権を持つ「大宰府」の二重の統制下にありました。しかし、10世紀後半になると、徴税権や貿易利権をめぐり、実力行使も辞さない大宰府の府官と、同じく利権を狙う受領との間で激しい武力衝突が起きるようになります。この対立のなか、大宰府の府官(大宰大監だざいのだいげん以下の実務官)の中には、赴任先で在地豪族化する者も多く現れました。彼ら府官や受領の子弟たちは、現地に居着いて大規模な土地開発と武力行使を繰り返し、有力な在地武士団の祖となっていきました。

こうした時代を象徴する受領の一人が、藤原保昌ふじわらやすまさです。彼は992年から約5年間、日向守を務めた後、肥後守や大宰府の実質的な責任者である大宰少弐だざいのしょうにを歴任しました。保昌は現地で手に入れた貴重な輸入品(唐物)を権力者・藤原道長に献上することで、出世の足掛かりとしました。まさに、中央へ富を還元する「集金マシン」としての役割を完璧に遂行することで、自らの地位を固めたといえます。

保昌が晩年に妻として迎えたのは、平安屈指の歌人で、紫式部と肩を並べ恋多き才女と謳われた和泉式部いずみしきぶでした。また、彼の叔父には藤原陳忠ふじわらのぶただがいました。陳忠のぶただは、『今昔物語集』の有名な逸話「受領は倒るる所に土をも掴め」で知られる人物です。谷底に転落してもなお、ただでは起きずキノコ(平茸)を掴んで戻ってきたという逸話は、当時の受領たちの飽くなきしたたかさと、凄まじい生命力を象徴しています。

今昔物語集 巻28 「信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八」

信濃守の任期を終え京へ帰還する陳忠のぶただは、信濃・美濃国境の神坂峠を過ぎるとき、乗っている馬が橋を踏み外し、馬ごと深い谷へ転落した。随行者たちが谷を見下ろすと、とても生存しているようには思われなかった。しかし、谷底から陳忠のぶただの「かごに縄をつけて降ろせ」との声が聞こえ、かごを降ろし、引き上げてみるとかごには陳忠のぶただではなくキノコ(平茸)が満載されていた。再度かごを降ろし、引き上げると今度こそ陳忠のぶただがかごに乗っていたが、片手に一杯のヒラタケを掴んでいる。随行者たちが安心し、かつ呆れていると、陳忠のぶただは「転落途中に木に引っかかってみれば、すぐそばにヒラタケがたくさん生えているではないか。宝の山に入って手ぶらで出てくるのは悔やみきれない。『受領は倒るるところに土をもつかめ』と言うではないか。」と言い放った。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富を中央へ送る受領と土地に根を張り在地豪族化する府官。立場は違えど、地方の利権を貪欲に喰らった彼らは、まさに「同じ穴のムジナ」でした。


南海の至宝をめぐる「縄張り争い」

西海道諸国の税は大宰府が管理していましたが、特に南九州三国(日向・大隅・薩摩)の貢納物は大宰府の運営費用に充てられていました。

都では、南九州三国を通じて南海(宋、東南アジア、琉球など)からもたらされる赤木(硬く美しい高木)、蘇芳すおう(赤い染料)、夜久貝やくがい螺鈿らでん細工の材料)、色革いろかわ(染革)などの貢納物が非常に珍重されていました。これらの利権を狙う大宰府の役人(府官)と、本来の統治者である国司(受領)との間では、殺生を伴う激しい縄張り争いが繰り返されました。

11世紀前半ごろ、その渦中にいたのが元府官の平季基たいらのすえもとです。従五位下じゅごいげ大宰大監だざいのだいげん(警察や軍事・裁判など実務を司る大宰府役人)だった平季基は、万寿年間(1024~1028)に日向国諸県郡もろがたぐん島津(現・都城市周辺)の地に下向し「島津荘」を開発すると、島津荘を時の最高権力者・藤原頼通ふじわらよりみちに寄進しました。季基すえもとは荘官(荘園の現地管理者)として実権を握りつつ、名義を権力者に差し出すことで、国司からの徴税や干渉を合法的に逃れる戦略をとったのです。また、ここは南海交易の重要な港・志布志津しぶしつ(日向国諸県郡)へと続く交通の要衝でもありました。


大隅国衙襲撃事件と賄賂工作

長元2年(1029)、土地を巡る対立はついに限界に達します。平季基は子息の兼光かねみつ兼助かねすけらとともに武装集団を率い、対立していた大隅守おおすみおのかみ守重もりしげの拠点である大隅国衙こくがを襲撃しました。季基らは国庁や守館(国守の居館)だけでなく官舎や民家のほか国衙の役人である藤原良孝ふじわらよしたかの住宅まで焼き払い、財物を強奪し雑人を殺害した罪で大隅国から大宰府へと訴えられました。

家を焼かれた藤原良孝ふじわらよしたかは特定の官職に就いていない役人(散位さんい)で、もともと大宰府の府官でした。季基より少し前に大隅国に進出していた軍事貴族とみられ、大隅守おおすみおのかみ守重もりしげとともに季基と対立していたようです。

一国の行政拠点である国衙が、公的な立場にある役人によって襲撃されたこの事件は、朝廷を深く震撼させました。

大隅国衙襲撃事件


事件の首謀者として追及された季基は、まず大宰府の長官代理(大宰大弐だざいのだいに)である藤原惟憲ふじわらこれのりへ、現代の価値にして数億円に相当する「絹3,000ひき※」という莫大な賄賂を贈り、公的記録から自らの名を消し去る工作を図ります。

平季基が島津荘を藤原頼通に寄進できたのは、この藤原惟憲ふじわらこれのりが仲介役となったからだろうと云われています。藤原惟憲ふじわらこれのりは、大宰府から任を終えて帰京した際、九州一円から略奪、あるいは外国の交易船から接収した、数え切れないほどの財宝を随身が携えて帰京したと伝わっています。

家を焼かれるという災難に見舞われた藤原良孝ふじわらよしたかは、この事件が中央政界で取り沙汰されていた長元2年(1029)8月、時の右大臣・藤原実資ふじわらさねすけのもとを訪れ、膨大な進上品を贈っています。その内訳は、色革60枚・小手革こてがわ6枚といった武具の材料から、赤木2切・檳榔びんろう300把、夜久貝50口にまでおよび、良孝がいかに必死の思いで実資の関心を引こうとしていたかが伺えます。この工作が功を奏したのか、季基は一旦都へ召喚され、留置所に収容されました。しかし、結局はすぐに釈放され公的処分を受けることはありませんでした。

献上を受けた藤原実資ふじわらさねすけは、絶大な権勢を誇った藤原道長にさえ屈せず、筋を通し続けた平安中期きっての「筋金入りの正論派」です。その圧倒的な博識ぶりは、次代の関白・頼通も一目を置くほどでした。彼の日記『小右記しょうゆうき』は、大河ドラマ『光る君へ』でも脚光を浴びました。

その裏には季基による更なる工作がありました。長元4年(1031)1月、季基は、この事件をあるまじき悪行と強硬に批判していた藤原実資ふじわらさねすけに対しても、唐絹(宋の高級シルク) 1疋、唐綾 2疋、絹 200疋、総練色革そうねりいろがわ(最高級なめし革) 100枚、紫草むらさき(超高級染料)50枚など、南海の至宝を贈っていたのです。さしもの実資も、この圧倒的な物量の前についに追及の手を緩め、事件は不問に付されることとなりました。この一件を経て、季基は大隅国への勢力拡大こそ断念したものの、賄賂によって罪を免れたのでした。

※1疋(ひき):主に着物などの織物の長さを表す単位で、1反(約11〜12m)の2倍、つまり約22〜25mの長さを指します。3,000疋 = 6,000反 の絹織物となります。絹3,000疋(ひき)は、時代や換算基準(米価、金価格など)によって大きく異なりますが、古代・中世(特に平安時代〜鎌倉時代)の基準で換算すると、現代価値で数億円〜数十億円相当になる可能性があります。

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「無主の荒野」の嘘

力で地盤を築くだけに留まらず、それを法的な正当性へと結びつけていく手腕に、季基の類まれな資質が表れていました。彼は自らが切り拓いた島津の地を、朝廷に対して「無主の荒野」であると届け出ます。しかし、都城盆地のような豊かな土地がそれまで手つかずであったとは考えがたく、実際には古くからこの地を支配していた在地豪族のとも氏がいました。

彼らにとって季基は、強欲な略奪者だったのでしょうか。実態はもう少し複雑です。国司による無慈悲な搾取から逃れるため、在地の人々はあえて季基の「荘園」という傘に入り、彼を「後ろ盾(保証人)」として選んだという側面もあったと考えられます。彼らは、季基の権威や実力を頼って新しい時代の仕組みに乗り換える道を選んだのでしょう。


平季基は悪人だったのか

平季基は悪人だったのでしょうか。 確かにライバルを焼き討ちし、賄賂で人心を懐柔、大規模な開発を強引に推し進めた側面は否定できません。しかし、彼は島津荘の鎮守として神柱宮かんばしらぐう若一にゃくいち神社を建立し、土地の平穏を祈る敬虔な姿も残しています。それは単なる支配の道具ではなく、神仏を介して地域を一つに纏めようとした彼なりの誠実な経営手腕だったといえます。

晩年の季基は権力闘争の最前線を退き、都城盆地の南端・橋野の地(現・鹿児島県曽於市)に隠居しました。そこで自ら神主となり、静かに土地の神を守る日々を送ったと伝えられています。

かつて武力とあらゆる知略で時代を切り拓き、したたかな裏工作の限りを尽くした男が、最後に行き着いたのは、自ら拓いた土地を慈しみ、神に祈りを捧げる平穏な暮らしでした。現在もこの地に季基の墓(供養塔)が残されています。この穏やかな祈りの風景こそが、一人の開拓者としての平季基の「正体」だったのかもしれません。

よろしければ、平季基については過去ノートもご覧ください。


【参考文献】
都城市史 通史編 自然・原始・古代(1997)都城市史編さん委員会
日本歴史地名大系四六巻 宮崎の地名(1997)平凡社
日本歴史地名大系四七巻 鹿児島の地名(1998)平凡社
都城市史 通史編 史料編 古代・中世(2001)都城市史編さん委員会
平安時代の大隅・薩摩 人の交流と交易・情報伝達を媒介にして考える(2004)加藤 友康