【歴史探訪15】創建1,000年を迎える古社・若一王子神社と島津荘(曽於市)
創建1,000年の古社・若一王子神社
鹿児島県曽於市末吉町南之郷橋野。1,000年前の万寿3年(1026)12月、この地に若一王子神社(若一神社)を創建した一人の男がいました。その名は平季基で、日本最大の荘園「島津荘」の開拓者です。
季基は晩年、箸野(現・橋野)にあった本明屋敷に居を構え、若一神社の初代祠官となりその生涯を閉じました。神社から南西に220mほどいった所に「平季基の墓」と伝わる供養塔があります。
江戸時代の古記録『三国名勝図絵(巻之36)』には、「箸野は庄内南郷の内にて、梅北よりは午方一里、郡本(現・郡元)よりは午方三里ある所なり」と記されています。『一里』は約4㎞ですから、梅北から南へ4㎞、郡本(都城盆地の中心)から南に12㎞行った所です。
平季基がこの場所を選んだ最大の理由は、箸野が大隅国(鹿児島県)と日向国(宮崎県)の境目に位置する高台であり、交通の要衝だったことにあります。当初、季基が切り拓いたのは現在の都城市周辺(宮崎県)でしたが、彼の子孫たちが南の大隅半島(鹿児島県)へと勢力を広げていく中で、この地の重要性は増していきました。
箸野は都城盆地から大隅へと抜けるルートの入り口にあたり、志布志湾を介した大陸(宋)や南島(琉球・南西諸島・硫黄島など)との交易利権を確保する上でも外せない拠点でした。一族が新たな領土を開拓・支配していく過程において、物流と軍事の鍵を握るこのルートを掌握するため、季基はこの地に居を構えたと考えられます。
創建から1,000年という節目に合わせたのか、令和6年(2024)に社殿が再建されたようです。参道の杉並木は伐採されましたが、遮るもが無くなった境内には、1,000年前、季基がいた時と同じ澄んだ風が吹き抜けています。



神社名:若一王子神社(若一神社)
神社名:ニャクイチオウジジンジャ
鎮座地:曽於市末吉町南之郷
例祭日:12月15日
通 称:若一王子権現(ニャクイチオウジゴンゲン)
御祭神:天照大御神(アマテラスオオミカミ)

若一王子神社(祭神天照大神)
若一王子神社とは、紀州の熊野三山(三山は昔修験道の一大行道場であった所)でその地に鎮座されている。旧官幣大社熊野速玉神社祭神(伊弉諾尊)、旧官幣中社熊野那智神社祭神(伊邪冊尊)の御子である天照大神をこの地から勧請されたものと言われている。全国には若宮王子、若王子、若宮若女一王子、若宮一王子、若一王子などととなえ、奉祀されている神社が多く散在している。若宮とは、本宮の御子神の意「王子」とは仏語の童子にあたるが、ここでは「御子神」の意味に用いてあり、熊野五所王子の内第一との意味である。よって、若一王子は熊野三所大神に次ぐ座に位置する神であるとある。(神社事典)
若一王子神社の創建
薩隅地に班田収授が行われたのは、延暦十九年(西暦800年)十二月であったが、せっかくの班田制も結実せず、また旧に還って墾田状態が久しく続いた。後一条天皇の万寿三年丙寅正月廿日(西暦1026年)大宰府の大監平朝臣季基命により弟判官良宗と共に現在の都城市の本庄、三股院に至り、同地を領し近郷一円に荘円(荘園)(後の島津荘)の拡大を図った。
同年九月九日、梅北(現・宮崎県都城市梅北町)の地に守護神として神柱神社を創建し、自ら司官となったが、その後荘円(荘園)を藤原頼通に献上し、その管理を婿の肝付兼貞に譲って箸野(現・鹿児島県末吉町南之郷橋野)に隠居し、同年一二月廿九日若一王子神社を建て、晩年を司官として本明屋敷にて余生を送った。その後に祠があり、木造が祭ってあり近くには墓がある。
昭和五十八年七月廿三日
宮司 春田秀夫 記
島津荘の「開発領主」 平季基
平安時代中期、太宰大監として九州の政務を担った平季基。彼は日向国諸県郡島津(現・都城市周辺)の荒野に着目し大規模な開拓を行いました。しかし、自ら切り拓いた土地を国司の収奪から守るため、季基は時の権力者・関白 藤原頼通に土地を寄進し、中央権威を「盾」とする道を選びます。この寄進によって租税を免除され・国司の立ち入りを拒む「不輸・不入の権」を獲得。独立性の高い「島津荘」を成立させたのです。
※太宰大監:平安時代の大宰府(九州の地方行政機関)の官職。
日向から大隅、そして薩摩へ
季基の地盤は、娘婿・伴兼貞へと引き継がれました。島津荘が拡大していく過程で、兼貞の息子たちは各地に根を張ります。長子・兼俊は大隅国肝属郡で肝付家を興し、他の息子たちも安楽家、萩原家、和泉家をそれぞれ確立します。五男・兼高は季基ゆかりの梅北に残り、梅北家の祖となりました。 こうして季基を源流とする開拓の流れは隣国大隅、そして薩摩へと伝播していきます。
もう一人の「開発領主」 平良道
季基から約80年後の天永3年(1112)、薩摩の地に、もう一人の平氏が現れます。伊作郡司に補任された平良道(伊作良道)です。良道は、現在の日置市吹上町にあたる伊作地方を拠点とし、この地の開発を推し進めました。彼は後に阿多氏や河邊氏、谷山氏として名を馳せる「薩摩平氏」の祖となります。 良道の一族は大宰府に関係する一門、あるいは季基に縁故を持つもので、季基の開拓と同時期か、それより少し遅れて薩摩の伊作郡に赴任したと考えられています。
大宰府ゆかりの平氏である二人が、同時期に日向・大隅・薩摩を治めたことが島津荘の拡大へと繋がりました。その規模は最盛期に8,000町を超え、東京ドーム約1,690個分という広大さでした。
島津氏の「薩摩入り」
鎌倉時代、惟宗忠久(島津忠久)が地頭となりますが、3代・久経までは鎌倉を拠点としていました。島津氏が実質的な「薩摩入り」を果たすのは、蒙古襲来を契機とした建治元年(1275)の下向です。ここから名実ともに島津氏による三州支配が始まりました。
都城市郡元町(旧・郡本)にある祝吉御所跡は、島津荘の中心地で、初代・忠久の館跡と伝わる場所です。現在、ここには「島津家発祥記念碑」が建てられています。

祝吉御所跡に近いJR吉都線の「日向庄内駅(都城市乙房町)」という駅名には、かつてこの一帯が「島津荘の庄内」と呼ばれていた時代の名残が伺えます。



境内の盃状穴



『末吉郷土史』によると、「若一神社の近くに石の鳥居が現存しているが、昔は(※約50年位前)この石の鳥居の下は神様の通路といわれ人間はくぐることを許されないで、人間は南の方の鳥居を通行していた。この石の鳥居は、最近神社前に移された」とあります。「盃状穴の石積み」のことは書かれていませんが、この石の鳥居が移設された時、石積みも一緒に持ってきたのでしょうか。
※約50年前:郷土史の出版が1957年なので約50年前は1907年頃。
石や岩に刻まれた「盃状穴」は、古来より祈りの象徴として世界各地で見られる遺構です。当神社の石碑は、拝殿まで足を運べない参拝者のため、または、鳥居をくぐらない様にこの場所に安置され、香炉や灯明台として「遥拝所」の役割を果たしてきたのでしょうか。あるいは、神社が創建される以前の遥か以前からの信仰の名残かもしれません。
【参考文献】
三国名勝図会 : 60巻 12(巻之36)(1905)五代秀尭, 橋口兼柄 共編
三国名勝図会 : 60巻 20(巻之58)(1905)五代秀尭, 橋口兼柄 共編
末吉郷土史(1957)末吉町教育委員会
都城市史 通史編 自然・原始・古代(1997)都城市史編さん委員会
鹿児島県神社庁ホームページ
車でのアクセス:
・都城志布志道路「末吉IC」から車で約6分。
・都城市内(旧日向国・島津荘発祥地)からも車で約20分圏内と近く、季基が駆け抜けた距離感を実感できます。
