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【歴史探訪16】島津荘開拓者 平季基の供養塔(曽於市)

この墓は、日本最大級の荘園だった島津荘しまづのしょうの成立に関わった平安時代の人物、平季基たいらのすえもとの供養塔(墓)です。彼は宮崎県の都城盆地を荘園として開拓しましたが、墓は鹿児島県曽於市にあります。

平季基の墓
標柱
平季基の墓と云われる供養塔

この供養塔は非常に不完全な形です。周りに散乱している石塔残欠せきとうざんけつ群または土の中に供養塔本来の部位が放置されているものと思われます。石塔残欠とは、五輪塔、宝篋印塔ほうきょういんとう、層塔など、過去に建てられた石塔の崩落や破損により、笠・基礎・軸部などの一部が欠損したもの、または、その破片のことを指します。

石塔残欠群
自然石に仏像を刻んだ碑

後述の看板に書かれた「季基の墓所といわれ墓前の仏像を刻んだ。碑は関係はないようである」の「碑」とは、この石碑のことでしょう。『末吉町郷土史』によれば、「平季基の墓の前方に自然石に仏像を刻んだ碑があるが、これは季基との関係はわからない」とあります。後世の信仰対象ともいわれ文字が彫られていますが判読できません。


宮崎県と鹿児島県の県境
(出典:国土情報ウェブマッピングシステム)

都城市(宮崎県)と曽於市(鹿児島県)は、県境を挟んで「お隣さん」の関係にあります。地図で見ると、都城市の南側から西側にかけて曽於市がぐるっと囲んでいるような配置です。地続きの平地で繋がっており古くから往来があった事が想像できます。


墓へ行くには、階段を登る必要があります。階段横の看板には島津荘のルーツと、その開発者である平季基の功績をまとめてあります。

墓への階段と太宰大監 平季基之墓所の碑 
太宰大監 平季基之墓所の碑と案内看板

平 季 基
万寿三年(一〇二六)当時太宰府の大監であった。平季基が弟判官良宗と共に日向諸県郡島津(今の都城市)に来て、この地方が肥沃で広大なのに目をつけ荒野を開墾した。そしてこの土地を宇治関白、藤原頼通に献上した。これがいわゆる「島津荘園」である。
季基は、この地に住みつき 神柱かんばしら神社を建て、自ら司官となり、その後婿の肝付兼貞に譲って箸野(今の末吉町橋野)に退隠した。季基はここで 若一にゃくいち神社を建て最初の司官となった。
季基の住んだ所は本明屋敷というがこの墓所の南方の近い所といわれている。この地は、季基の墓所といわれ墓前の仏像を刻んだ。碑は関係はないようである。
平季基は、女婿伴兼貞に島津庄の庄官を譲り兼貞の長子兼俊は肝付家、次男兼任は萩原家、三男俊貞は安楽家、四男行俊は和泉家、五男兼高は、梅北氏の祖となって後年活躍した。
曽於市教育委員会

平季基の墓 案内看板

これをもとに解説すると…

1. 日本最大級の荘園「島津荘」の誕生

平季基は、もともと大宰府(今の福岡県にあった行政機関)の役人でした。1026年、彼は現在の宮崎県都城市周辺の荒野を開墾し、広大な農地を作りました。平季基が「島津荘」を成立させた11世紀(平安時代中期)は、日本の土地制度が根本から変わる大きな転換期でした。もともと日本は「すべての土地は国のもの(公地公民)」という建前でした。しかし、人口が増えて土地が足りなくなると、国は「新しく自分で耕した土地は、ずっと自分のものにしてよい(墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう)」というルールを作ります。これが「荘園」の始まりです。

2.寄進地系荘園きしんちけいしょうえんという名のタックス・ヘイヴン

しかし、当時はせっかく開墾しても国に税金として取られてしまう時代でした。そこで季基は、時の最高権力者である藤原頼通(平等院鳳凰堂を建てた宇治関白)にその土地を「寄進(プレゼント)」しました。そして名義を貸してもらう代わりに、季基は頼通に手数料(年貢の一部)を払うという契約を結んだのです。寄進(寄進地系荘園)したことで、島津荘には強力な2つのバリア「不輸ふゆ不入ふにゅう」が張られました。

平季基がやったことは、現代で例えるなら「地方の実業家が、うるさい税務署や役人を追い払うために、自分の資産(土地)の名義を「時の最高権力者」という「タックス・ヘイヴン(租税回避地)」に移し、税金免除「不輸」と役人の立入禁止「不入」という特権をゲットして、自分達だけで利益を独占する仕組みを作った」ようなものです。

彼は平姓たいらせいを名乗っていますが、のちの平清盛などの平家一門とは系統が少し異なります。しかし、中央の貴族文化や人脈を持っていたからこそ、藤原頼通という最高権力者とつながることができたのです。

3. 「島津家」以前の支配者と家系の広がり

看板の後半にある家系の話は、南九州大隅の有力な武士団の成り立ちを示しています。季基は娘婿である伴兼貞とものかねさだに土地の管理権(庄官)を譲りました。この兼貞の子供たちが、各地の地名を名乗り、肝付きもつき家・萩原家・安楽家・和泉・梅北家、それぞれが地域のリーダーとして成長しました。

4. 神社の創建と信仰

季基は単に土地を耕しただけでなく、地域の精神的な柱として 神柱かんばしら神社、季基が隠居した曽於市末吉町には 若一にゃくいち神社を建てています。

5. 歴史的な位置づけ

この看板が立っている場所は、平季基の終焉の地(墓所)とされています。彼が始めた島津荘は、最終的に宮崎・鹿児島にまたがる日本最大級の荘園へと発展しました。島津荘はその後、近隣の土地をどんどん飲み込み、最終的には九州の南半分近くを占めるほど巨大化していきます。

墓への階段から若一王子神社方向を望む

この島津荘を管理するために、後に鎌倉幕府から派遣されてきたのが惟宗忠久これむねただひさ(島津忠久)であり、荘園の名前をとって「島津」と名乗ります。これがやがて薩摩島津氏へと繋がっていきます。



【参考文献】
三国名勝図会 : 60巻 12(巻之36)(1905)五代秀尭, 橋口兼柄 共編
三国名勝図会 : 60巻 20(巻之58)(1905)五代秀尭, 橋口兼柄 共編
末吉郷土史(1957)末吉町教育委員会
都城市史 通史編 自然・原始・古代(1997)都城市史編さん委員会