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『獣人』は欲望する機械なのか

エミール・ゾラ『獣人 愛と殺人の鉄道物語』

19世紀、時代の先頭を驀進する鉄道を駆使した“鉄道小説”の先駆!官能の果てに愛する女を刺し殺した機関士が秘める人間の血腥い獣性を抉る。

映画を観て興味をもった。

 鉄道ミステリーとか松本清張かよと思うが、鉄道は近代化の象徴で人の欲望を表す。それが獣人性という野獣性で映画では、ジャン・ギャバンが渋い役だった。
セヴリーヌは溌剌とした魅力的な女性。映画の中ではシモーヌ・シモンが演じている。彼女は美人タイプではなく個性派というようなジャンヌ・モローのような癖のある女優だった。そして彼女も獣人性を持つ女なのだ。映画との違いは機関車のダイナミックな映像が観られない点である。当時の蒸気の力は産業革命的に人の欲望を体現していたのである。機関車のピストンとか大きな車輪は欲望する機械なのだった(解説ではドゥルーズの欲望の機械論が紹介されていた)。またこの小説はフロイトの「エロスとタナトス」を先駆けているとか。そう言えば『テレーズ・ラカン』ではそのようなことを書いていた。

夫ルボーはセヴリーヌが年取った裁判長と寝ていたことを知り、暴力的に彼女を懲らしめた。彼もまた獣人性だったのだ。それはセヴリーヌの髪がツルニチニチソウの青をしていたことからルソーの自然人ということかもしれない。

セヴリーヌは純粋無垢のように振る舞うがその欲望を知るとそのまま欲望に任せるまま行動する。それはルソーがツルニチニチソウの名前を知ることによって勉学の意欲が湧いてくるのだがセヴリーヌの場合それは性欲や金銭欲に向かう。それらは自然の欲望なのだ。そして、夫人は夫ルボーに愛想をつかすとジャックを愛人として誘う。映画ではジャックがルボーを殺すが原作ではルボーは最初の殺人犯(セヴリーヌの義理の父で裁判長)であり、その欲望は階級意識によって示される。殺人の連鎖は欲望の連鎖でもあるのだ。殺人の中に絶えず欲望が流れている。

二章になってジャックが登場するが気弱な青年で殺人はセヴリーヌにそそのかされた感じであり(映画版)、監督のジャン・ルノワールはそれをクローズアップしてみせたのだ。ジャン・ギャバンというフランスのスターは女に優しい男で女に左右されやすい性格に描いている。

『獣人』はドストエフスキー『罪と罰』にインスパイアされて書いたフランス版『罪と罰』ということだった。しかしジャックの獣人性は機械的なものでラスコーリニコフのような精神性はないという。

ラスコーリニコフの精神性は最初、無神論の英雄主義(ナポレオン主義)として現れる。しかしそれはアルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフとは違って、彼は信仰を得るようになる。それはソーニャとの出会いなのだが、当時のロシア人青年にはそうしたリベラルな思想を持つものが少なくなかった。しかし、ラスコーリニコフの深層には信仰心が流れているのだ。それは数字に関する験担ぎとか迷信的なことを信じている姿から伺える。そして彼の計画はことごとく裏切られて偶然が支配する。そこに運命的なものを感じてしまい、ソーニャとの出会いも運命だと信じてしまう。

一方ジャックはセヴリーヌに引き込まれるように彼女の欲望に巻き込まれていく、またその獣人性(蒸気機関車にたとえている)によってセヴリーヌも殺してしまう。それは遺伝によって継承されたもので親がアル中の殺人者という遺伝子を受け継いでいるという。偶然性を神の仕業とは見ないのだ。映画ではジャックは人間性を取り戻してセヴリーヌと自死するのだが、原作ではセヴリーヌを殺して、さらにその続きがあるのだ。

ラスコーリニコフはソーニャと出会い罪を意識してそれを乗り越えていく。そこにラザロの復活の話があり、彼は生まれ変わるのだ。しかし、ジャックは生まれ変わることなく欲望のまま生きていく。その欲望をフロイトは「エロスとタナトス」として、ドゥルーズは「欲望する機械」として描く。そして機関車から滑り落ちていくのだ(他者の欲望によって突き落とされる)。それは果たしてジャックの自業自得なのか?ジャックに手をさし延べたものはいなかったのか?だから、機関車から転落するのだが。


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