『テレーズ・ラカン』は精神分析小説
エミール・ゾラ『テレーズ・ラカン』(訳)小林正
『テレーズ・ラカン』は小説版と戯曲版があり、カルネ監督の映画『嘆きのテレーズ』が面白く原作を読んでみたいと思ったのだが、なんか映画もオリジナルらしくストーリーが違っているような。
映画版はシモーヌ・シニョレの存在感が凄かったのだが、戯曲を読むとラカン夫人(母親)の存在感が際立つ。マザコン息子に育てたのも母親だし、テレーズを侍女代わりに使っていたのも母親で、そうした葛藤がテレーズを夫殺しに向かわせるのだが、罪の意識が拭えないのである。つまり、単にメロドラマの不倫物というよりも母親から逃れたい自立の果てが殺人事件を引き起こすのだ。戯曲ではドミノのシーンが印象的に描かれていた。それは夫を交えてのドミノと夫を殺した後のドミノのシーンだ。そして、その客には警察官もいて、最近の殺人事件を話題にするのだった。そこに伏線があり、分かりやすくなっているのか。そして後半は介護が必要になった母親をテレーズが面倒をみなければならない。この辺も現代的テーマを含んでいる。前半は夫を殺し、さらに母親を殺して自由になりたいという罪の意識がテレーズを襲うのだ。
小説版は店の描写が繊細に描かれている。戯曲だと食堂みたいな感じなのだが、それはドミノのために客を招いたからだった。全体的に小説は沼地であるという土地の描写が多くて暗い感じだ。その暗さは母=息子関係にあるのだが、それに対抗するようにテレーズは浮気をするのだった。だから、その部分がカルネ監督の映画では、シモーヌ・シニョレの魅力として描かれていたのだ。映画はそんな暗い印象が無かったのは、ラカン夫人もガミガミ婆さんだったからかもしれない。
あとの映画『テレーズ 欲情に溺れて』では、母親役をジェシカ・ラングで存在感がある。むしろテレーズより目立つぐらいだ。そこに原作の暗さがあるものだから映画としては暗い映画になってしまった。
木曜日に夫の会社の知り合いと母の古い友達を招いてドミノ・ゲームが行われるのだが、テレーズはそれが苦痛でならなかった。それは夫の知り合いと母の知り合いばかりでテレーズの気の許せる友達がいなかった。そこにローラン(愛人)がやってくることになったのだ。彼は怠惰なロマン主義者で弁護士になるかわりに画家を目指していた。それは友達のアトリエできままに女を抱けるからだった。そんな彼はテレーズは欲求不満だと見抜いた。病人の面倒だけみていた女が逞しい腕に抱かれるのだ。彼は情夫になろうかと考えていた。それでカミーユの肖像画を描くと言ってはテレーズと逢引を繰り返す。昼間は夫は仕事で母は下で店をやっているので好都合だった。テレーズがローランになびくのも時間の問題だ。そして、彼女は欲情に溺れていくのだ。戯曲では夫(カミーユ)が亡くなる前(肖像画の完成)と後の木曜会の集まりを描写しているが、この会の重要性はそこに警察官がいるということだけでなく、仲間たちは家族的な繋がりだったかが強調される。そして、ローランは後の木曜日会ではラカン夫人の息子扱いされるのだ。そして、テレーズとの結婚が仲間内で承認される。テレーズはローランへの気持ちが離れていくのは目に見えるように明らかだった。テレーズが最初から積極的な女ではなく、むしろカミーユの母親に従ってしまうような従順な女だったのだ。それを変えたのがローランとの愛欲で、それはゾラの自然主義のテーマとなったのである。テレーズはどんどん積極的な女になっていく。
ローランは会社の都合でテレーズに会えなくなるとますますテレーズの欲望は膨らんでいくのだ。テレーズはローランと知り合うまでは夫を殺したいとも思っていなかった。しかしそうした言葉が虚言ではなく二人の愛欲の形として計画されていくのである。
小説の方が内面描写を語っていてかなり際どい話になっている。それは性衝動を描いているからだ。確かに戯曲ではそうした内面的な会話の裏に隠されてしまう。結果として夫殺しが際立ってくるのだ。
カミーユ殺しと引き換えにローランが病気じみてカミーユの代わりになろうとしているとか、この辺のサスペンスも面白い。この辺はフロイトの死の欲動のようだ。そして、事件の決行日を迎えるのだ。
セーヌ川のボートに三人で乗り込む。一月の水が冷たい季節だ。カミーユもローランが好きなのでローランの言いなりだった。カミーユはボートに恐怖を感じていたがローランの進言を断ることができなかった。ここの描写は前半の山場だった。ボートを転覆させた後にローランはテレーズだけを助けるのだ。しかしテレーズは興奮状態のヒステリーになってしまう。それがローランを避ける理由になるのだった。そしてこのことをラカン夫人に報告せねばならなかった。
この事件はテレーズにトラウマとしての傷を残すことになる。テレーズは罪人になったのだ。
カミーユの死体は2週間も沈んだままで、ローランは死体置場でもっとも悲惨な水死体を見る。そして、テレーズとラカン夫人の悲嘆がクドいほど描写されている。このシーンは戯曲にはなく、すぐに結婚話になっていくのだ。
そして1年と3ヶ月が過ぎて木曜日会が開かれるのだ。テレーズはローランじゃなく、読書クラブの学生に恋をする。ローランは気弱になりカミーユのようになっていくのだ。テレーズのことはほとんど考えなくなり、アトリエで昔のようにモデルの女を抱く。テレーズはローランを避けていたが、喪が明けると綺麗になっていた。そしてテレーズに欲情するが拒まれてしまう。しかし、テレーズは結婚することを約束するのだった。しかしこの家ではあまりにもカミーユを思い出すことが多いのだ。もはやカミーユの亡霊に悩まされていた。
二人が結婚するのは、もはやラカン夫人のためであって、ローランはカミーユの身代わりになるのだった。(前編終わり)
エミール・ゾラ『テレーズ・ラカン(下)』(訳)小林正
二人の欲望は、殺した夫の亡霊によって、減退する。それは、母によって仕組まれたものなのか。母という共同体は、世間というキリスト教的な背景を持つ共同体であり、殺人者が公開処刑されるようなものをこの小説は含んでいる。
そこで連想するのがフロイトの「エロスとタナトス」なのだが、二人の欲望はエロスだったとして、タナトス=死は別の欲望として現れてくるのだ。それはフロイト解釈の神話性やキリスト教観念の罪の意識。それはドストエフスキーの小説にも似ていると思ったのだが、ドストエフスキーのような霊性をゾラは認めていないという。
そこでバタイユのような共同体思想が立ち現れてくる。それは死によって結びつけられた共同体であり、母は息子の死によって身体が不自由になり、そのことによって二人の欲望は母親に結びつけられた。それこそ、タナトスの欲望であり、二人が宙吊りにされるのはそのような共同体の中にいるからなのだ。それは二人を罰したいという読者の欲望であり、二人の公開処刑は読者が求めたものではないのか。そこにキリスト教的な観念が深層に流れているのである。 それは現在の介護問題に通じているかもしれない。フロイト的概念が現れている小説だろうか。 また宙吊り状態にされる目眩というものはポーの小説を連想させる。映画では黒猫(原作では虎猫)が二人の情事から追い出され、それを母親に知らせに行くのだ。まさにこの黒猫の暗示は、のちの幽霊の目眩としてポーの小説を踏まえているような。ゾラはボードレールの詩も読んでいただろう。そこに新世代の感覚としてポーからボードレールへと流れる渦がある。 そして人間観察として読者は母親の視線を通して犯罪の匂いを嗅ぐのだ。そこにポーのミステリーの影響があるのかもしれない。 母の沈黙は、前半の口うるさい母よりも存在感を増すのは、そこに読者の欲望が重なるからか。テレーズはその間で揺れ続けるのだ。 その役目は猫の行動として、夫の幽霊と共謀するのだ。ローランは猫に夫の亡霊を重ねて殺そうとするのだが、その猫は母の大切なペットであることをテレーズは知っている。その猫の視線も母の視線も夫の視線も重なってくるのだ。それは当然読者の視線でもあるわけだ。
あとがきはゾラの「再版の序」だった。
再版されて良かった。
