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【連載小説】「私」を再起動(リブート)!〜ママの学び直しコミュニティ〜02:時給0円の専門家。

「あ、今日、夕飯いらないから。適当に済ませといてよ」

朝の慌ただしい玄関。靴紐を結びながら、夫の真吾(しんご)がスマホから目を離さずに言った。

「わかった。飲み会?」

「うん、プロジェクトの打ち上げ。凛も、たまには息抜きしなよ。一日家にいるんだし、昼寝でもすれば?」

バタン、とドアが閉まる。
『一日家にいるんだし』。
その言葉が、私の頭の中で何度もエコーのように響いた。

「……息抜き、ね」

私は、ため息をつきながらリビングを振り返った。
そこには、三歳の陽菜(ひな)がひっくり返したおもちゃの山。食べこぼしでベタベタになったダイニングテーブル。ソファには、真吾が脱ぎ捨てたパジャマが丸まっている。

これを片付けて、洗濯機を回して、お昼ご飯を作って、公園に連れて行って、お風呂に入れて……。

「ママ! アンパン、みる!」

「はいはい、今テレビつけるからちょっと待ってね」

陽菜の要求に応えながら、私はふと、自分の「時給」について考えていた。

朝六時に起きてから、夜の十時に陽菜が寝付くまで、私の労働時間はざっと十六時間。休み時間は、陽菜がお昼寝をしてくれる「運のいい」一時間だけ。
掃除、洗濯、料理、保育、スケジュール管理。
これだけ色々な業務をこなしているのに、私のお給料は「0円」だ。

真吾は悪気なんてないのだろう。彼の中では、外でお金を稼いでくる自分は「働いている人」で、家にいる私は「休んでいる人」なのだ。

『俺の稼ぎで食わせている』なんてモラハラめいたことは絶対に言わないけれど、彼の態度の端々から「家事や育児は、無償でやって当たり前のこと」という無意識のサインが透けて見える。

誰からも褒められない。お給料も出ない。評価シートもない。
ただ「ママなんだから当たり前」という言葉で、私の二十四時間は消費されていく。

私はまるで、この家という名のブラック企業で働く「時給0円の専門家」みたいだ。

ベタベタのテーブルを拭きながら、昨夜の記憶がよみがえった。
深夜のキッチンで、学生時代の「津田梅子ノート」を開き、「自分を再起動する」と決意したあの瞬間の熱。

でも、朝の光を浴びて現実に戻ると、急に怖くなってきた。
私なんかに、何ができる?

そもそも、周りのママたちが「学び直したい」なんて思っているのだろうか。エリカさんのように「今のままで十分幸せ」と思っている人の方が多いんじゃないか。

「……やっぱり、やめようかな」

弱音が口からこぼれた。
その時、テーブルの隅に置きっぱなしになっていた古い革表紙のノートが目に入った。
昨夜、私がすがるように開いた、津田梅子の研究ノートだ。

吸い寄せられるようにページをめくると、あちこちに引かれたマーカーの線が、私に語りかけてくるようだった。
その中に、こんな言葉があった。 

自ら生み出した価値には、堂々と誇りを持ちなさい

津田梅子がアメリカから帰国した明治時代。
日本の女性たちには、そもそも「自立する」という選択肢すらなかった。女性は結婚して、家を守り、夫に尽くすのが美徳とされた時代。彼女たちの労働に、価値や名前なんて与えられていなかった。
梅子は、そんな社会に対して真っ向から立ち向かった。

女性にも教育を。自分の頭で考え、自分の足で立てる力を。
「誰かの付属物」ではなく、「私」として生きるための価値を。

「……価値、か」

私は、もう一度リビングを見渡した。
散らかった部屋も、きれいに畳まれた洗濯物も、陽菜の笑顔も。私が「時給0円」で生み出しているものは、決して無価値なんかじゃない。
ただ、社会が、そして私自身が、その価値に値段をつけていないだけだ。
なら、自分の価値は自分で決めるしかない。

午後一時。
陽菜がぐっすりと昼寝に落ちたのを確認して、私は食卓にノートパソコンを開いた。
画面に映し出したのは、東京都杉ノ森市の住人がよく使っている地域交流用のネット掲示板。

「不用品譲ります」や「おすすめの小児科教えて」といった書き込みが並ぶ中、私は「新規投稿」のボタンをクリックした。
キーボードの上に置いた指が、かすかに震えている。
心臓がドキドキと音を立てていた。
もし、誰からも返事が来なかったら?
「意識高い系のママがなんか言ってるよ」って、笑われたらどうしよう。
ためらう私の背中を、ノートの中の梅子がポンと叩いてくれた気がした。
『誇りを持ちなさい』と。
私は、息を大きく吸い込み、キーボードを叩き始めた。

【タイトル】「〇〇ちゃんのママ」を、一度お休みしませんか?大人の学び直しコミュニティ、メンバー募集。

【本文】
はじめまして。三歳の娘を育てている、桐谷と申します。
毎日、家事や育児にお疲れ様です。
突然ですが、みなさんは「自分の名前」で呼ばれる機会が減ったと感じていませんか?
子供は可愛いです。母親になったことに後悔はありません。
でも、ふとした瞬間に「私って、何のために生きているんだろう」「社会から取り残されているんじゃないか」と、不安になることはありませんか?
私は、あります。
毎日、時給0円で当たり前のように働いて、誰からも褒められない毎日に、息が詰まりそうになることがあります。
だから、小さな場所を作りたいと思いました。
「ママ」という役割を少しだけ横に置いて、一人の人間として、自分のために「学び直す」場所です。
難しい資格を取るのが目的じゃありません。
英語のニュースを読んでみたり、歴史について語り合ったり、ただ「自分のためだけに頭を使う時間」を共有しませんか。
名前は、『Project U』。
Uは、Umeko(津田梅子)のUであり、You(あなた)のUです。
まずは週に一回、近所の公民館やカフェで、一時間だけ。
もし、私と同じように感じている方がいたら、ぜひメッセージをください。
一緒に、自分の人生の主語を取り戻しましょう。
――桐谷 凛

文字を打ち終えた時、私の手は汗ばんでいた。
何度も読み返す。
やっぱり重すぎるかな。引かれるかな。
でも、これが私の、嘘偽りのない本音だった。

「ええいっ……!」

目をつぶって、えいやっと「送信」ボタンを押す。
画面が切り替わり、『投稿が完了しました』という文字が表示された。
その瞬間、体の中を、今まで感じたことのないような熱いものが駆け巡った。
まるで、ずっと開かなかった重い扉を、自分の力でこじ開けたような高揚感。

「……やっちゃった」

思わず口元がほころぶ。
まだ誰一人集まっていない。場所も決まっていない。
それでも、私は動いたのだ。
「時給0円の専門家」だった私が、自分のために、自分の名前で、世界に向けて旗を立てた。
眠っている陽菜の寝息を聞きながら、私は久しぶりに、ワクワクするという感情を思い出していた。
どうか、届いてほしい。
どこかで私と同じように、見えない息苦しさを抱えている、名もなき「あなた」に。

(第3話:最初の一歩は、マクドナルドで。へ続く)


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