【連載小説】「私」を再起動(リブート)!〜ママの学び直しコミュニティ〜03:最初の一歩は、マクドナルドで。
ポテトの揚がる「ティロリ、ティロリ」という電子音と、女子高生たちの高い笑い声。
平日の午前十時。駅前のマクドナルドは、さまざまな人が行き交う独特の活気に満ちていた。
私は、店内が見渡せる窓際の席で、紙コップのホットコーヒーを両手で包み込むように持っていた。
緊張で、手のひらが少し汗ばんでいる。
あの夜、勢いで地域掲示板に「学び直しコミュニティ・Project U」の募集を書き込んでから三日。
まさか、本当にメッセージが来るとは思っていなかった。
『はじめまして。佐々木美香(ささき・みか)と申します。一歳半の息子がいます。掲示板の「自分の名前で呼ばれる機会が減った」という言葉に、涙が出ました。英語なんて学生時代からやっていませんが、私でも参加していいでしょうか?』
通知を見た瞬間、私はスマホを握りしめて小さくガッツポーズをした。同時に「どうしよう、本当にやることになっちゃった」というプレッシャーで、胃がキリキリと痛んだ。
とりあえず「まずは気楽にお茶でもしながらお話ししませんか」と返信し、今日、この場所で待ち合わせることになったのだ。
「あの……、桐谷、さんですか?」
不意に声をかけられ、私はビクッと肩を揺らした。
顔を上げると、ベビーカーを押した小柄な女性が立っていた。髪を後ろで一つにひっつめ、すっぴんに近い顔には、明らかに寝不足とわかるクマがうっすらと浮かんでいる。
その疲れ切ったたたずまいは、少し前の自分を鏡で見ているようだった。
「はい! 桐谷凛です。佐々木さんですね、初めまして」
「初めまして。すみません、子供がぐずっちゃって、少し遅れちゃいました」
佐々木さんは何度も頭を下げながら、向かいの席にベビーカーを引き寄せた。ベビーカーの中では、男の子がスヤスヤと眠っている。
コーヒーを買って戻ってきた佐々木さんは、ほっとしたように息を吐き出した。
「ゆっくり座ってコーヒーを飲むのなんて、いつぶりだろう……」
そのつぶやきに、私は深くうなずいた。
「わかります。家だと、座った瞬間に『お茶こぼしたー!』とか呼ばれますもんね」
ふふっ、と佐々木さんが少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私の緊張も少しずつほぐれていった。
自己紹介もそこそこに、私たちは自然とお互いの「モヤモヤ」を語り始めていた。
「私、元々は小児科の看護師だったんです」
紙コップのふちをなぞりながら、佐々木さん――美香さんは静かに話し始めた。
「仕事は好きでした。でも、夜勤もあるし、夫も帰りが遅くて。自分の子供が熱を出した時に、よその子供の看病に行かなきゃいけない現実が、だんだん辛くなっちゃって。結局、私が折れる形で退職しました」
美香さんの声が、少しだけ震えていた。
「子供と一緒にいられるのは、幸せなんです。でも……時々、すごく怖くなるんです。社会の役に立っていた『看護師の佐々木美香』はもうどこにもいなくて、ただ毎日、離乳食を作ってオムツを替えるだけの機械になっちゃったみたいで。テレビのニュースを見ても、頭に入ってこない。私、このままバカになっちゃうのかなって」
「美香さん……」
私は、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
私と同じだ。
公園で出会ったエリカさんのような「今のままで十分幸せ」と笑える人ばかりじゃない。私のように、目に見えないキャリアの喪失感や、社会から切り離された孤独感に、音を上げそうになっているママがここにもいた。
「わかります。すごく、よくわかります」
私は身を乗り出して、美香さんの目を見た。
「私も同じです。毎日、時給0円の働き詰めなのに、誰からも評価されない。自分の名前が消えちゃうんじゃないかって、ずっと怖かったんです」
美香さんは、大きく目を見開いた後、ポロポロと涙をこぼし始めた。
「……よかった。私だけじゃなかったんですね。こんな風に思っちゃうの、母親失格なんじゃないかって、ずっと自分を責めてました」
マクドナルドの騒がしい店内の中で、私たちだけのテーブルが、まるで小さな救命ボートのように感じられた。
「母親失格なんかじゃありません。私たちは、ちょっと立ち止まっているだけです」
私はバッグの中から、クリアファイルを取り出した。
「だから、今日から少しずつ、リハビリしませんか?」
ファイルの中から出したのは、私がネットで見つけて印刷しておいた、短い英語のニュース記事だった。
「ニューヨークの新しい図書館のオープン」についての、中学生レベルの簡単な英文だ。
「えっ、いきなり英語ですか?」と、美香さんが目を丸くする。
「はい。難しい単語は私が教えます。完璧に訳さなくていいんです。ただ、今日は『ママ』をお休みして、自分のためだけに頭を使う時間にしましょう」
美香さんは戸惑いながらも、印刷されたプリントを受け取った。
「……The new library has... うーん、なんて読むんだろう、これ」
「ファシリティ(facilities)ですね。設備、っていう意味です」
「設備! ああ、そっか。新しい図書館には、子供向けの設備がある……であってますか?」
「バッチリです!」
たどたどしい発音で、一行ずつ英文を読んでいく。
時々、ベビーカーの息子くんが寝返りを打つたびにヒヤヒヤしながら、それでも私たちは、三十回くらいつまずきながら、なんとか一つの短い記事を読み終えた。
「ふうーっ!」
美香さんが、やり切ったという顔で大きく背伸びをした。
その顔は、三十分前に待ち合わせた時とは見違えるほど、スッキリと晴れやかだった。
「どうでしたか?」と私が聞くと、美香さんは少し頬を赤くして笑った。
「なんだか、すごく……気持ちよかったです。脳みその、ずっと使ってなかった部分のサビが落ちたみたい。私、まだちゃんと、文字を読んで考えられるんですね」
その言葉を聞いて、私は心の底から嬉しくなった。
英語のスキルが上がったわけじゃない。TOEICの点数が取れるわけでもない。
でも、彼女は今、自分の中にある「知性」を取り戻したのだ。
マクドナルドのプラスチックのテーブルの上。
コーヒーのシミがついたプリントと、私たち二人だけ。
はたから見れば、なんの変哲もない主婦のヒマつぶしに見えるだろう。
でも私は、あの「津田梅子ノート」の一節を思い出していた。
一九〇〇年。津田梅子が「女子英学塾」を立ち上げたのは、立派な大学のキャンパスなどではなかった。東京の麹町(こうじまち)にあった、小さな貸家の一室。集まった生徒は、たったの十名だったという。
机も椅子も足りず、決して恵まれた環境ではなかったけれど、そこには「自立したい」と願う女性たちの、とてつもない熱気が渦巻いていた。
『真の教育は、小さな部屋の、少数の熱意から始まるのです』
梅子が残したその言葉が、今の私と美香さんの姿に、ピタリと重なった。
豪華な教室なんていらない。立派な肩書きもいらない。
ポテトの匂いがするこのファストフード店の一角こそが、私たちにとっての「女子英学塾」の始まりの場所なんだ。
「あの、凛さん」
帰り際、お店のドアを出たところで、美香さんがまっすぐ私を見て言った。
「私、来週も参加していいですか? もっと、いろんな記事を読んでみたいです」
「もちろん!」
私は満面の笑みでうなずいた。
「来週は、もう少し長い記事に挑戦しましょうか。あと、もしよかったら、私たち、お互いを『〇〇ちゃんママ』じゃなくて、下の名前で呼び合いませんか?」
私が提案すると、美香さんは少し照れくさそうに、でもとても嬉しそうに微笑んだ。
「はい、凛さん。よろしくお願いします」
春の生ぬるい風が、私たち二人の間を吹き抜けていく。
「Project U」――まだ名もなきこの小さなコミュニティが、たしかに産声を上げた瞬間だった。
私は、この小さな一歩を、絶対に無駄にはしないと心に誓った。
(第4話:完璧なママの「仮面」。につづく)
