はじめてのうみ よん
「ねえ、この先のあの信号を左でいいのよね?」
私は後ろを振り返り、子どもには急な下り坂が駅からずっとつながっているのを振り返り、彼方の前を千冬がのけぞりながら歩いていてなんだかおかしくて笑いながら言った。
「そうだよ。この大きい信号の次を左。」
大きい信号は今、私たちの進行方向が赤になった所。
「ちいちゃん、
この道、かかじじとととじじがお正月に見ていた箱根駅伝で選手が曲がった信号だよ。」
「え?ほんと?」
「ほんと。」
「どっちにまがったのどっち?」
「右。あっちに行ったの。
あっちに箱根があるんだよ。」
千冬は急に箱根駅伝を身近に感じたのか、ぴょんぴょんと跳ねながら見えない選手を探していた。
信号は青に変わり
「ほら。跳ねてないで行くよ。」
手をつないで横断歩道を渡る。
海から上がって来る風が潮の香りを運んで来た。後ろを歩く千冬と彼方を気にしながら先頭を行くと目指す信号まではあっという間だ。行きたい方角は青なのに二人が遊び遊び歩いているのでなかなか追い付いて来ない
「ねえ!青なんだけどっ」
「かっかおこってる!」
「怖い怖い。」
「こあいこあい!」
「恐い、恐い!」
「こあいこあい!」
「急げ!ちい!」
「あいあいさー!」
何やってんだか。信号は赤になった。
三人で並んで次の信号を待つ。
陸に住む人間には馴染みのない潮の香りが風に乗って吹いてくる。
「潮ね。潮の匂い。」
それは住宅街に入ってもつづき、信号を曲がりいくつかカドを曲がり華江さんの家の赤い屋根が見えて来ると「あれだ、あの家だ」とわずかな記憶がよみがえり彼方を振り返った。
彼方がうなづき、その様子を見た千冬は
「どこ、どこどこどこどこ?」
あなたは太鼓でも叩いているの?
「かっかどこどこどこのいえ?」
やっぱり、叩いてる。
私は知らんぷりして歩いていると、彼方が千冬に
「あの赤い屋根のお家だよ。」
と教えた。
道は平らかになっていて小さな千冬にも歩きやすくなっている。私を一気に追い抜いて華江さんの家の前まで走り指を差した。
彼方がうなづく。
「はーなーえーちゃん!
ちいちゃんですっあけてもいいですかっ」
あんなに大きな声で(笑)
硝子の引戸が開いた音がして華江さんが顔を出したのが見えた。
あと少しで私たちも華江さんと対面だ。
「遠いとこ、
あんたたちそんなに荷物を持って。
まあまあ。お疲れ様なこと。」
「ばばあ!
だったら出てきて手伝えよ。」
突っ掛けを履く音がして華江さんがダッシュでやってくると、そのまま彼方の脛を正面から蹴飛ばし、痛さに荷物を落として屈み込む彼方の頭を右手で叩いた。
「生意気に!一体誰のお陰で美術教師になれたんだいっ!?
まったく誰に物を言ってんだかっ」
彼方の落とした荷物は私と華江さんで取っ手を半分ずつ持って彼方を置いて千冬がけたけたと笑っている玄関先まで歩いて行って先に家に入って鍵を閉めた。
硝子の引戸の内側で千冬がひとり大爆笑している。
彼方が玄関前でしゃがみこみ蹴られた脛をやさしく撫でながらぼやいていた。
「やってらんねえ。」
「そりゃ、こっちのセリフだよっ」
華江さんは今年88歳になるという。
年齢だけ聞くとおばあさんだが、あの駅までの上り坂を杖もつかず歩くとなれば足腰はまだまだ若い。
ひとり暮らしで彼方の両親は心配しているが見た感じ頭もしっかりと、彼方の減らず口を戒めるほどの回転もありそうで、なんの心配も無さそうだ。
「お久しぶりです。」
「そうだねえ。
まだこの子、お腹にもいなかったもんねえ。」
「はい。」
「ま、お上がんなさいよ。」
オモテで彼方が「鍵開けろ、ばばあ!」と騒いでいる。
彼方は華江さんの前だといつもあんな口を利くのだ。
「バカものが。」
華江さんがお勝手に行った。
千冬は何もかもがコンパクトに作られた部屋の中を見て、中庭に出てぶらぶらしていた。
「おうちのなかにおにわがあるよ。
ねえ、にわとりさんはいないの?」
「居ないよ。」
「へえ。」
華江さんがお勝手からヤカンに入った麦茶を持って来て千冬を呼んだ。
湯飲みは四つ。
淹れてあげるんだ(笑)
小さなお盆に並んでいるのを渡された。
「ほら。
いつまでもそんなとこに座ってんじゃないよ!入っといで!」
鍵を開けた。
ちぇ、ばばあ。
「なんだって!?」
聞こえてんのかよ。ちぇ。
私は彼方のふくらはぎをペシッとやると湯飲みの麦茶を渡した。
「ちぃっ!ばばあの麦茶うまいぞ。」
千冬と並んで麦茶を飲む様子はやっぱり親子にしか見えない。
千冬は最初遠巻きに華江さんの周りを行ったり来たり、家の中をくるくると回っていたがだんだん華江さんの近くを回るようになり一周するごとになついていくのがわかる。
「この馬鹿と、あんた。
よく長く続いてて感心するよ。
あたしは無理だ。こんな馬鹿たれ。」
千冬が面白がって彼方の周りまでくるくると落ち着きなく回っている。
「ばかたれ。」
「こらっ」
「馬鹿たれ。」
私もついでに言った。
「馬鹿たれ。」
「ばーかーたーれーぇ」
「くっそ。」
彼方のふくれっ面を見ながら女三人笑い転げた。
「さ、楽しみにしてたんだろ。
麦茶飲んだらかっかの弁当持って海に行こうじゃないか。
この馬鹿たれ連れて。」
「おべんともってうみにいくっ
はなえちゃんとかっかとばかたれと。」
「親に似ないでこの子は
物覚えがいいよ。夏実ちゃん。」
私は、
私も一応この子の親ですよ。華江さん。
と苦笑いした。
「いいよ、いいよ。
湯飲みなんか適当にその辺に置いときなよ。行こうよ。海に!」
「うみー!」
「海!」
彼方を見た。
やっぱり、私のだんなさんは。
まあまあ。あとはご想像にお任せします。
はじめてのうみ よん
つづく
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