はじめてのうみ ご
「とっと!」
千冬は玄関で靴を履きうしろを振り返ると、リレーのバトンをもらうように右手を彼方に差し出した。
それまで「ばかたれ」を連呼されむくれていた彼方もその手を見て鼻の下を伸ばし、ひょいひょいとついて行った。
あれはただの馬鹿たれモンだ。
華江さんが鼻で笑った。
声にはしていないけど、きっとそう思ってるにちがいない。
私はお弁当のバスケットをヨッコラショと持ち上げて玄関で待つ華江さんまで歩いていった。
「まあ、
取られるモンなんざないんだけどさ。
一応、締めて行かないとね。」
ホコリだらけのトレーから、これまたしばらく使っていないらしい小さな鍵を取り出して鍵穴に入れた。二人で道路に出たときにはすでに彼方も千冬も居なくなっていた。
早っ!
「どれ、
重いだろさっきみたいに取っ手を片方持つよ。まったくうちの馬鹿たれは
気が利かないったらありゃしない。」
その気の使わなさが
彼方のいいとこなんです。華江さん。
あ、私ノロケた。(笑)
華江さんとバスケットを半分ずつ持ちながら海に続く坂道を下っていった。
結婚前に訪れた時は海に行く余裕もなく、なんとなく他人行儀な華江さんが物足りなくて聞いていたのと違うと少し寂しく思った。でも結婚式の時彼方が
「来るなよ、ばばあ!」
と、前日の夜に電話を切り
私はさみしいような、よかったような複雑な思いで布団に入ったが当日日曜日の礼拝が終わり信者さんたちも幾人か残ってくださり、結婚式仕様に教会の中を飾り立てていた時華江さんは現れた。
「咲子!彼方!来たよ!」
「おかあさん!」
「ばばあ!」
同時に振り返る彼方とおかあさんの咲子さんを見てなんだかおかしくなって吹き出した。
「何ハトマメな顔してんだいっ
馬鹿っ面下げて!早く用意しないと夜になっちまうだろ!
あんた!まだそんなカッコで。
早くこれに着替えておいで!
それから彼方!おまえはこっち!」
ふたつの風呂敷を私たちに渡した。
「あと、やることは?」
と咲子さんに声を掛けたときには肩にたすきを掛けているという早業で、三時からの予定だった式が二時半に繰り上がった。
風呂敷の中身は真っ白のワンピースだった。当日ドレスなどを用意するお金の余裕などなく幼なじみの永美が用意してくれたベールを被り、自分の持っている白のブラウスと白のスカートでバージンロードを歩くつもりだったが、華江さんの家にあいさつに行って一週間後、まさかこんな素敵なワンピースをプレゼントされるなんて思っても見なかった。
着替えが終わって、永美がプレゼントしてくれたベールを被った。
「夏実っ!おめでとう!!」
サイズはどこも図ったようにちょうどよかった。長さも結婚式だけでなく、どこにでも着ていける無駄のない作りだった。
「いいかい?」
ドアの外で華江さんの声がしたとき私は走って行ってドアを開け華江さんに抱きついた。
「なんだい。この子は。
よく見せておくれよ、どれだけ似合ってるか。」
私は言われた通り華江さんから少し離れ自分の姿を見せると華江さんは手を叩き喜んだ。
「あの馬鹿たれにはもったいないね。
でもね、結婚式に上下分かれた服なんて縁起でもない。
お金がなくても、
ワンピースでなくちゃね。
それからね、それ、綿だから後で普段着れるように藍で染めてあげるから今日持って帰るよ。
さ、みんな待ってる。
はやく御披露目しないとね。
米原夏実さん。」
それからずっと私は華江さんに憧れて暮らしてきた。
あんなおばあちゃんになれるように。
あんなカッコいい、おばあちゃんになれるように。
「何にやにやしてるんだい。」
「別に (笑)」
「やだねえ、この子は。」
潮の香りが強くなり高架下から海が覗く。ビーチバレーをしている若者が上半身裸で笑いながら通りすぎる。ボールを叩く音が聞こえ、はっきりと海が見えた。
「わあっ」
「今日は波が荒いよ。
沖はもっと荒れてるはずだ。」
白い波がまるで水の上を跳ねるうさぎのように見えている。空は晴れ水はどこまでも深い青だ。
砂浜を左手に見ながら道を進んだ。
「いい、トコですね。」
「昔っからだよ。
昔っから、この辺りは何にも変わっちゃいないんだ。」
私は華江さんを見た。
「咲子がぜんそくがひどくって
お父さんが、あ、あたしの連れ合いさ。
ここを探してきた。転地療養出来るようにね。」
私は彼方が昔言ってた「ペンチヨウヨウ」を思いだし
「あ、」
と言った。
「あんた今、
彼方の変なカタカナ思い出したろ?」
私は照れながら「ハイ」と笑った。
華江さんはなんでもお見通しなのだ。
「もう少し先に行くとさ、
港があって、防波堤の向こうに石ころの浜があるんだよ。
あの子はあすこが好きだから、
あっちに行ってると思うよ。」
「小学生の時描いた、あの海の絵のトコ?」
「そうさ。もうすぐだよ。」
港の中を通り抜け、公園を過ぎ、防波堤の階段をあがる。目の前に石ころの浜とどこにも何にも区切られることのない広い太平洋が広がった。
潮の香は風に乗り私の髪を、私の顔を撫でていく。
やさしく、強く。
とても遠くに小さく船が見えた。
空は晴れ雲はなく、下の石ころを踏みながらカラコロと歩く音が聞こえる。
子どもと犬がもつれ合い遊んでいる。
別の子どもが母親と高く高く石を積んでいる。
散歩をしている老夫婦。
パラソルを出して昼寝をする男性。
海だ。
海に来た。
私は今、大きな海の前に立っている。
はじめてのうみ ご
つづく
つぎのはなしにすすむ
まえにもどる
