『僕の自意識がシュヴァルツシルト半径を超えて世界を救う』②
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第2話:純喫茶『斜陽』の沈殿物と、致死量のクッキー
大学の裏路地、室外機の熱風が絶望を煮詰めたように吹き溜まる場所に、純喫茶『斜陽』はある。
その名の通り、いつ潰れてもおかしくない――というか、既に一度潰れたあとで、オーナーの執念だけが亡霊として営業を継続させているかのような雰囲気を漂わせていた。
壁は半世紀分のタバコの煙で熟成された飴色に染まっている。床は昭和を彷彿とさせるブラウンを基調としたモザイクタイル。
客層は、死の順番を待つ近所の老人か、僕たちのような「社会という巨大なパズルから弾き飛ばされたピース」だけである。
カランコロン、と扉を開けると、そこは別世界だった。
外の空気が「無臭の合成樹脂」だとすれば、店内の空気は「煮詰まりすぎて底が焦げ付いたデミグラスソース」のように濃厚だった。
焙煎に失敗したコーヒー豆の酸化臭、古本屋の奥底に眠るカビの胞子。それらが複雑に絡み合い、肺に入れるだけで一・五キロほど体重が増えそうな密度を保っている。
BGMのクラシックは、レコード針が埃を拾う「パチ、パチ」という時の傷痕のせいで、もはや現代音楽の無機質なビートのように聞こえた。
「だから言ったんだよ、面接官に。『御社の企業理念は、僕が昨夜見た悪夢よりもロックじゃねえ』ってな」
一番奥の指定席で、金髪ロン毛の男がテーブルを拳で叩いていた。
林田だ。文学部の四年生だが、就職活動は既に「概念的な放棄」の段階に達している。
パンクロックバンド『実存的不安と朝食のスクランブルエッグ(仮)』のボーカルであり、その歌声は「聞く者の内臓を直接素手で掴んで揺さぶる」と、大学の苦情処理係の間で伝説になっていた。
「林田君、それは明らかに君の過失、あるいは知性の欠如だ」
向かいに座る眼鏡の男、田村が冷静に突っ込む。
彼は六法全書を、まるで聖書か唯一の防弾チョッキであるかのように抱えていた。二浪二留、公務員試験浪人三年目。「ルールを遵守する」という行為そのものに、他者には理解しがたい倒錯した快感を覚えている節がある。
「憲法第二十二条には職業選択の自由があるが、それは企業側にも採用の自由があることを示唆している。君のその態度は、社会通念上、ただの言語的テロリズムだ」
「うるせえ!俺は社会の歯車にはならねえ!俺は社会を破壊するバールのようなものになるんだよ!」
「『バールのようなもの』という表現は、刑法犯のニュースで頻出するが、特定できない凶器を指す曖昧な逃げ口上だ。まさに君の人生そのものだな。凶器にすらなりきれない、ただの不法投棄された鉄の棒だ」
一触即発の二人の横で、一人の少女がちょこんと座っていた。
一ノ瀬小春。僕のサークルの後輩だ。彼女は今日も、重武装の歩兵のように巨大なトートバッグを膝に乗せ、心配そうに二人を見守っている。
「あ、赤城先輩!」
僕が入店すると、小春は冬の終わりにひっそりと咲くマーガレットのような笑顔で手を振った。
「お疲れ様です!どうでしたか、例の告白!」
三人の視線が一気に僕に集中した。
僕は重々しく頷き、彼らのテーブルに近づいた。一歩ごとに、ナポレオンがアルプスを越える時のような断固とした歩調を意識しながら。
「完全勝利だ」
「えっ!」小春が目を見開く。
「つ、付き合うことになったんですか!?」
通常の二オクターブ高い小春の声が、狭い店内を駆け巡った。マスターが驚いて、拭いていたグラスを落としそうになり、カウンターの中で静止画のように固まった。
「いや、そうではない」
そこで僕は一度、溜めを作った。三人の網膜に僕の存在が完全に焼き付いたのを確認してから、僕は淡々と事実を告げた。
「だが、彼女は僕の愛の重力に耐えきれず、物理的に宙に浮いた。あれは実質的なアセンション(次元上昇)だと言える」
店内が一瞬、真空状態になった。
BGMの擦過音(さっかおん)だけが、焚き火の爆ぜる音のように不規則に響く。
林田が煙草の煙を吐き出し、深く溜息をついた。
「鏡也、お前……ついにイッちまったか。振られたショックで脳の回路がショートして、都合のいい幻覚を見ているんだな。悪いことは言わねえ、今すぐ頭を冷やすか、さもなくば頭の中身をすべて入れ替えろ」
「違いますよ林田さん!」小春が身を乗り出す。
「先輩が仰りたいのは、神楽坂先輩の心が、先輩の言葉によって天にも昇る気持ちになった、という比喩表現ですよね!さすが赤城先輩、相変わらず理解を拒絶するほど詩的です!」
小春はそう言うと、胸に手を当ててホッと小さく息を吐いた。彼女の脳内にある高性能な善意フィルターは、今日も正常に――そして致命的に――作動しているらしい。
「いや、比喩ではない。実際に五センチ浮いたんだ。そして彼女は欅の木にしがみついていた。ニュートンのリンゴとは逆の現象が起きたんだよ」
「ほら見ろ」田村が冷ややかな声で言った。
「現実逃避もそこまでいくと立派な精神疾患だ。刑法第三十九条の適用を検討すべきレベルかもしれん。分かりやすく言うと、『心神喪失者等の行為は、罰しない』。つまり、君の告白は無罪だが、人間としての信用は死刑(ギルティ)だということだ」
僕は大仰に肩をすくめて、彼らの隣に座った。
彼らには見えていないのだ。この世界が、少しずつ、しかし確実にその「重み」を失つつあることが。神楽坂美咲の浮遊は、局所的な重力異常(アノマリー)や、ニュートン力学のストライキなどではない。世界の解像度が落ち始めた兆候なのだ。
「まあいい。それより聞いてくれ。今日、僕の部屋に新しい同居人が増えるらしい」
「同居人?」小春が首を傾げる。
「彼女ですか?それとも、新手の詐欺師によるルームシェア?」
「いや、ヘッドハンティングだ」
僕はメニューも見ずに、泥水のように濃いアイスコーヒーを注文した。
「彼あるいは彼女もまた、僕の才能を見込んでやってきたに違いない」
——と思いたいところだが、実はまだ家に帰っていないので、それが何なのかは知らないのだ。
今朝、家を出るとき、玄関に見慣れない巨大な段ボール箱が置かれていたのは確認していた。宛名はなく、ただ『ひっこしにもつ』と平仮名で書かれていた。
僕はそれを「僕へのファンレターの類、もしくは熱狂的な崇拝者が僕に捧げた貢物」だと思って放置してきたのだ。しかし、なんのひねりもなく解釈すれば、あれは何者かが僕の部屋に引っ越してくるという意味に違いない。
「鏡也、お前な」林田が呆れたように言った。
「現実を見ろよ。世界は冷てえんだ。宙に浮いてる暇なんてねえんだよ」
「そうだな」僕は同意した。
「世界は冷たい。だからこそ、僕たちの情熱で温める必要がある。そうだろう?」
僕の言葉に、林田は「チッ」と舌打ちしつつも、どこか満足げに口の端を少しだけ引き上げた。
田村は「熱力学の法則を無視している」とブツブツ呟きながら、眼鏡の位置を直した。
小春だけが、うんうんと深く頷き、バッグの中から何かを取り出した。
「先輩、これ。疲れたときは糖分が必要だと思って」
彼女が差し出したのは、手作りのクッキーだった。
形がいびつで、やたらと分厚く、色が不穏なまでに黒い。
手に取ると、ずしりと手首に響く質量があった。とても薄力粉が原料とは思えない質感だ。中性子星の欠片でも混ぜ込んだのではないか。
「ありがとう、一ノ瀬。これはクッキーというより、中世の投石機で使われる弾丸に近いな。漬物石の代わりにもなりそうだ」
「もう!食べてくださいよ!」
小春が笑う。その笑顔を見て、僕はふと思った。
この喫茶店の中だけ、空気が濃密だ。
外の世界では神楽坂美咲が浮き上がり、通行人たちが軽やかに歩いているというのに、ここには誰かが忘れていった傘の雫や、読み捨てられたスポーツ新聞のインクの匂いのような、生活の澱(おり)が沈殿している。
ここには「重力」がある。
僕たちをこの世界に繋ぎ止める、心地よく、そして呪わしいほどの重さが。
僕はウラン合金に匹敵する密度を持ったクッキーをかじった。
ガリッ。
歯が砕けるかと思うほど硬かったが、口の中に広がったのは、不器用で、甘ったるくて、そして泣きたくなるほど人間臭い味だった。
僕たちは一時間ほど、生産性の欠片もない会話――パンクロックの社会的意義、公務員試験の理不尽さ、そして僕の輝かしい未来について――を交わし、解散した。
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