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『僕の自意識がシュヴァルツシルト半径を超えて世界を救う』③

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第3話:玄関の特異点と、哲学するガラパゴス




 アパートに帰り着いたのは、世界が下手な水彩画のように、茜色と群青色の境界線で曖昧に滲む夕暮れ時だった。

 僕の住む『コーポ・メランコリア』――大家が、入居者の絶望的な顔ぶれを見て勝手につけた俗称だ――は、築四十年の木造建築である。階段を上るたびに、建物全体が老人の咳払いのような、不機嫌な軋み声を上げた。

 ドアノブに手をかけたとき、僕は指先に微かな拒絶反応を感じた。

「ぬぬぬっ、何かが違う」

 僕は独り言をつぶやいた。

 鍵穴に鍵が吸い込まれる感触が、今朝よりも三〇%ほど重い。まるで、僕の帰還を拒む見えない粘膜が張られているかのようだ。

 ガチャリ、と重金属同士が噛み合う音がして、僕はドアを押し開けた。

 その瞬間、僕は眉間の皺を深くした。
 僕のサンクチュアリに、何者かが侵入している。

 泥棒ではない。家具の配置も、床に散乱した哲学書の山も、今朝僕が構築した「知的な無秩序」そのままだ。だが、空間の質が決定的に変質させられている。

 例えるなら、最高級のエジプト綿で織られた純白のシーツの上に、湯気を立てる犬の糞が、黄金比に基づいた正確さで鎮座しているような違和感だ。それは単なる汚れではない。完璧な美に対する、悪意ある冒涜、すなわち一種の芸術的テロリズムだった。

「……誰だ」

 僕は靴も脱がずに、六畳一間の「我が帝国」へと踏み込んだ。

 部屋の空気は、三日間煮詰めたコンソメスープのように濃厚で、不愉快なほど湿度が高い。

 そして、その「違和感の発生源」は、部屋の中央、僕がもっとも愛する煎餅布団の上に堂々と居座っていた。



 巨大な、黒い岩石のような塊。
 表面には太古の地層を思わせる複雑な溝が刻まれ、部屋の薄暗い照明を鈍く反射している。

 それは甲羅に見えた。というよりも甲羅そのものだった。そこには無数の傷と苔の痕跡があり、彼が生きてきた百五十年分の「退屈」と「哲学」を刻み込んだ碑文のようだった。 

 IKEAの安っぽい家具に囲まれたこの部屋で、その物体だけが「歴史」という名の重力を放ち、周囲の空間を物理的に歪めている。獣臭さとは違う、雨上がりの森の土のような、湿った匂いが鼻をついた。

 僕がその物体に手を伸ばそうとしたとき、岩の側面から、しわくちゃの首がゆっくりと伸びた。

「遅かったではないか、赤城鏡也くん」

 その生物――巨大なリクガメは、僕を見上げて重々しく口を開いた。

 声は、大聖堂のパイプオルガンを思わせる、腹に直接響く重低音だった。
 僕はカバンを床に落とした。通常の人間ならば悲鳴を上げるところだが、僕の脳内回路は「恐怖」よりも先に「納得」を弾き出した。

「さもありなん」僕は小声でつぶやいた。

 なるほど、僕ほどの傑物が住む部屋だ。喋る亀の一匹くらい、向こうから挨拶に来て当然だろう。むしろ、昨日まで来なかったことの方が不自然なのだ。

「不法侵入だぞ」僕は努めて冷静に言った。

「しかも、僕の布団を占領している。家賃の折半に応じるつもりはあるのか?」

 一瞬の沈黙が落ちた。

「家賃か」

 亀は鼻を鳴らした。その振動で、ちゃぶ台の上の空き缶が震えた。

「私が支払うのは金銭ではない。この『世界の安定』だ」

 亀は短い前足を器用に使って、ちゃぶ台の上の急須を持ち上げた。

「自己紹介をしよう。私は君たちの世界でいうところのガラパゴスゾウガメ。かつて重力管理局・極東支部の局長を務めていたものだ」

「重力管理局」と僕は反復した。
「公務員みたいな名前だが、福利厚生は期待できそうにないな。退職金はレタスか?」



 亀――局長は、ズズズと音を立てて冷たいお茶を啜った。

「赤城くん。君は、今日の夕暮れが異常に長いことに気づいているか?」

 局長が窓の外をしゃくった。

 太陽は西の空にへばりついたまま、沈むという義務を放棄しているようだった。赤と橙のグラデーションが、剥がれかけの安っぽい壁紙のように家々を汚く染め上げている。

「気付いていたさ。地球の自転が、僕の思考スピードに合わせて減速しているのかと思ったが」

 局長は、深くて長い、湿った溜息をついた。

「君のその、現実をねじ曲げて自分と接続する思考回路の太さ……呆れると同時に、感心するよ。今の世界に必要なのは、まさにその図太さだ」

 局長は僕を正面から見据えた。爬虫類とは思えない温かみのある瞳は、司法試験の面接官よりも厳格で、同時に深い哀しみを含んでいた。

「単刀直入に言おう。世界は今、あまりにも『軽く』なりすぎている。人々が昨日食べた食事の重みも、犯した過失の苦みも、捨て去ったせいで、地軸の楔が緩んでいるのだ。このままでは、君が好意を寄せているあの娘も、文字通り空の彼方へ霧散する」

 僕は眉をひそめた。

「それは困る。彼女とはまだ、カフカの『変身』について、あれは毒虫ではなく巨大な亀になるべきだったという議論を交わしていない」

 僕は意地の悪い笑みを浮かべ、ポツリとつぶやく。

「もっとも、今まさに僕の前でその変身が起きているようだがな」

 局長は満足げに口の端を少しだけ引き上げた。

「だから、君が必要なのだ。赤城鏡也。君のその、無駄に重厚で、非生産的で、自己完結した特異点のような自我。君の持つその、誰にも理解されず、誰の役にも立たない『自意識の重み』だけが、この浮ついた世界を地面に繋ぎ止める重石になる」



 僕は腕を組み、天井の雨漏りのシミを見上げた。

 世界を救う。選ばれし者。

 陳腐な響きだが、僕が演じるならそれもまた至高の芸術になる。

「理解した」僕は頷いた。

「つまり、僕はここに存在するだけで、世界を救済してしまうわけだ。僕という存在の放つ重力が、物理法則をも凌駕する絶対的な引力になると」

「解釈は任せる。結果が全てだ」

 局長は満足げに頷き、空になった湯呑みを僕の方へ押し出した。

「では、契約成立だ。まずは手始めに、お湯を沸かしたまえ。アールグレイだ。茶葉はマリアージュ・フレール。温度は摂氏九十五度。それ以外は認めん」

「……世界を救う第一歩が、給湯係か?」

「当然だ。一杯の紅茶すら完璧に淹れられない人間に、世界のチューニングができるとは思えん。それに、私は猫舌だ。冷ます時間も計算に入れたまえ。待つという行為の『重さ』を知れ」

 僕はひとつため息をついてから、立ち上がった。
 キッチンへと向かい、やかんを火にかける。絶え間なく立ち上がるガスの青い炎を見つめながら、僕は奇妙な高揚感を覚えていた。

 給湯係?違うな。

 これは、僕という絶対者が、世界に対して「完璧な温度」という秩序を与える、創造的な儀式なのだ。

 背後で、巨大な亀が「畳の目が粗いな、私の甲羅が痒くなる。これだから近年の工業製品は質量が足りんのだ」と独り言を呟いている。

 僕のサンクチュアリは汚されたが、代わりに世界という玩具(おもちゃ)が手に入った。 

 悪くない取引だ。

 問題はこのアパートがペット禁止であることくらいだが、宇宙の秩序のためなら大家の目くらい、僕の知性で欺いてみせよう。

 やかんからは、もうもうと重厚な湯気が立ち昇っていた。
 それは、世界が再起動を始めるための、最初の合図のように見えた。

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