鴨川デルタの暗号|第十章 地下水路
南禅寺の夜は、何も語らなかった。
水路閣の上を、水だけが流れている。
人が騒ぎ、嘘をつき、秘密を隠しても、水は同じ速度で流れる。まるで、そんなことは千年前から知っていると言わんばかりに。
澪は石段に立ったまま、スマホの写真を見つめていた。
《返還済》
木箱に貼られた紙。
だが、棚は空だった。
返還されたのなら、なぜ空なのか。
そもそも、何が入っていたのか。
悠真が横から画面を覗く。
「これ、誰が撮ったんや」
「分からない」
「さっきの女?」
「たぶん。でも、断定はできない」
帽子の女性。
赤い紐。
左利き。
鴨川に暗号を描いた人物。
彼女は逃げた。
教授はその場に座り込んだまま、顔を上げようとしない。
澪は教授へ歩み寄った。
「先生」
教授は反応しなかった。
「この箱には、何が入っていたんですか」
長い沈黙。
木々の奥で、鳥が一度だけ鳴いた。
「鏡だ」
教授が言った。
「鏡?」
「古い銅鏡だ。平安期のものとされていた」
「返還済と書かれているのに、棚は空です」
「返還されたことになっている」
悠真が眉を寄せた。
「ことになっている?」
教授はゆっくり顔を上げた。
老いた顔だった。
さっきまで研究者だった人間が、急に罪人のように見えた。
「記録上は、戦後に寺へ戻された。だが実物を見た者はいない」
「盗まれたんですか」
澪が聞く。
教授は答えなかった。
それが答えだった。
その時、悠真のスマホが鳴った。
ルイからだった。
「今どこですか」
声は弱いが、はっきりしていた。
「南禅寺や」
悠真が答える。
「保管庫へ入ったんですか」
「入口だけや。崩れそうで奥には行けへんかった」
「入ってはいけません」
ルイの声が強くなる。
「そこは二重構造です」
「二重?」
澪がスマホを受け取る。
「どういう意味?」
「水路の奥に、もう一つ通路があります。祖父の資料にありました。表の保管庫は、見せるための蔵です」
澪の背筋が冷えた。
「本当の保管庫は別にある?」
「はい。たぶん、水の下です」
水の下。
最初から、その言葉は何度も出てきた。
真実は、水の下で眠る。
それは比喩ではなかった。
「入口は?」
澪が聞く。
ルイは少し黙った。
「水門の右側。煉瓦の一部に、フランス語の頭文字が刻まれているはずです。C.E.」
「Canal Experimental」
「そうです」
澪は教授を見た。
教授の顔色が変わっていた。
知っている顔だった。
「先生は、知っていたんですね」
教授は唇を噛んだ。
「開けるべきではない」
「なぜです」
「そこにあるのは、文化財だけではない」
まただ。
教授は真実を小出しにする。
全部を言えば、自分も崩れるからだ。
人は建物より脆い。
支えている嘘が一本抜けただけで、立っていられなくなる。
澪は悠真を見た。
悠真は小さく頷いた。
「行くんやな」
「うん」
「今度は止めへん。でも、無理やったら戻る」
「分かってる」
「ほんまに?」
「たぶん」
「そこは嘘でも“ほんま”って言え」
澪は少し笑った。
その笑いで、足が動いた。
三人は再び鉄扉の中へ入った。
教授もついてきた。
水路の空気はさっきより冷たく感じた。
ライトの光が、湿った壁に吸い込まれる。
足元の水が細く流れている。
石畳は滑りやすい。
悠真が先に歩き、澪が続く。
教授は最後尾だった。
水門の前に着く。
さっき開いた隙間から、暗い保管庫が見えた。
中には木箱がいくつか残っている。
古い布。
割れた陶片。
そして空の棚。
澪は水門の右側を照らした。
煉瓦。
苔。
白い石灰。
その一部に、薄い刻印があった。
C.E.
「本当にあった」
悠真が呟く。
澪は刻印の下を探る。
煉瓦一つだけが、わずかに浮いていた。
押す。
動かない。
引く。
違う。
澪は目を閉じた。
父ならどうするか。
水路の仕掛けなら、力ではない。
水位。
圧力。
重さ。
「悠真、水門を少し閉じて」
「え?」
「水を止める」
悠真は教授を見る。
教授は無言だった。
悠真が水門の金具を動かす。
ぎし、と音がする。
流れが弱くなる。
水路の音が変わった。
澪はもう一度、煉瓦を押した。
今度は沈んだ。
かちり。
壁の奥で、小さな金属音がした。
床の一部がわずかに開く。
暗い穴。
階段だった。
「入口は下じゃない。上です」
ルイの言葉が蘇る。
入口は水路閣の上という意味ではない。
上から流れる水を止めて、下の入口を開く。
そういう意味だった。
伏線が、また一つはまった。
階段は狭かった。
湿っている。
手すりはない。
悠真が先に降りた。
「ゆっくり」
澪も続く。
教授はしばらく迷ったが、降りてきた。
下へ行くほど、水の匂いは薄くなった。
代わりに、乾いた木と古い紙の匂いがする。
そこは地下なのに、空気が安定していた。
まるで時間だけが止まっているようだった。
階段の先に、小さな部屋があった。
赤煉瓦の壁。
石の床。
中央に木製の棚。
そこには、いくつもの箱が並んでいた。
箱の一つに紙が貼られている。
《未返還》
悠真が息を呑む。
「こっちが本物の保管庫か」
澪は棚へ近づいた。
箱の番号。
記録。
日付。
戦時中に運び込まれたもの。
戦後に戻されたもの。
戻されなかったもの。
その区分が、几帳面に書かれている。
父の字ではない。
もっと古い。
だが、その横に新しいメモがあった。
《二〇〇九年 確認済 A.A.》
父の筆跡だった。
澪の指が震える。
父はここまで来ていた。
ここで真実を見た。
そして消えた。
「澪」
悠真が低い声で呼んだ。
部屋の奥に、机があった。
古い録音機。
カセットテープ。
ラベルには、父の字。
《秋人調査記録》
澪は息を止めた。
手を伸ばす。
だが教授が叫んだ。
「触るな!」
声が地下室に響いた。
澪は振り返る。
教授は青ざめていた。
「それは……」
「父のものですね」
「違う」
「嘘です」
澪は静かに言った。
教授の口が閉じる。
澪はカセットを手に取った。
その時だった。
奥の通路から、足音がした。
一人ではない。
複数。
悠真がライトを向ける。
暗闇の中に、男が立っていた。
黒い帽子。
低い声。
非通知の電話の男だと、澪は直感した。
男はライトを避けるように顔を伏せた。
「それを渡せ」
声は、電話と同じだった。
「あなたが、止まれと言った人ですね」
澪が言う。
男は答えない。
「父を知っていますか」
男の肩がわずかに動いた。
「渡せ」
「嫌です」
悠真が澪の前に出る。
「大学関係者か?」
男は懐から何かを出した。
ナイフではない。
古い鍵束だった。
「ここは封じるべき場所だ」
「盗まれたものを隠すために?」
澪が言った。
男の目が初めて見えた。
怒り。
いや、恐怖。
「何も知らないくせに」
「知らないから調べています」
「知れば、お前の父と同じになる」
教授が叫んだ。
「やめろ!」
男は教授を見た。
「あなたが止めなかったからだ」
その一言で、地下室の空気が変わった。
澪は教授を見た。
教授は目を伏せていた。
この二人は知り合いだ。
そして、十五年前の父の失踪を知っている。
突然、天井から水音がした。
流れが戻っている。
水門が動いたのだ。
誰かが外から開けた。
地下室の壁の隙間から、水が滲み出す。
悠真が顔色を変える。
「まずい。水圧が戻ってる」
男が舌打ちした。
澪はカセットをバッグへ入れた。
「出るよ」
悠真が言う。
「でも」
「今はそれ持って出る。それが勝ちや」
澪は頷いた。
三人は階段へ向かった。
男が前に立ちふさがる。
だが教授が男の腕を掴んだ。
「もういい」
「よくない!」
「十五年だ。もう終わらせる」
教授の声は震えていた。
その隙に、悠真が澪を押し出す。
階段を上がる。
水音が大きくなる。
水は足元まで来ていた。
冷たい。
重い。
人が作った秘密は、最後には水に戻るのかもしれない。
外へ出た時、夜風が顔に当たった。
澪は息を吸い込んだ。
悠真も肩で息をしている。
教授は少し遅れて出てきた。
男の姿はなかった。
「逃げた?」
悠真が言う。
教授は首を振った。
「別の出口を知っている」
「誰なんですか、あの人」
教授は答えない。
澪はバッグを押さえた。
中には父のカセットがある。
今はそれで十分だった。
水路閣の上を、水が流れている。
さっきまでと同じ音。
けれど澪には、違って聞こえた。
父の声が、その奥に混じっている気がした。
帰宅後、澪は震える手で古いカセットを再生した。
ノイズ。
水音。
そして、父の声。
《記録を残す。もし澪がこれを聞いているなら、私はもう戻れない場所にいる》
澪は息を止めた。
テープは続く。
《文化財は盗まれたのではない。返還されたことにされた。だが、本当に消えたのは、物ではない》
悠真が隣で黙って聞いている。
《消されたのは、名前だ》
ノイズが強くなる。
その奥で、父ははっきり言った。
《蔵の記録に、存在しない人物の署名がある。いや、正確には、死んだはずの人物の署名だ》
澪の手が止まる。
録音の最後に、父はこう告げた。
《教授を責めるな。彼は最後まで迷っていた》
そこでテープは切れた。
部屋に沈黙が落ちた。
澪は何も言えなかった。
父は生きているのか。
死んだのか。
まだ分からない。
だが一つだけ分かった。
事件は文化財の盗難ではない。
人の名前を消し、過去を書き換えた事件だった。
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