鴨川デルタの暗号|第十一章 残された録音
父の声は、思っていたより若かった。
澪の記憶にある父は、いつも少し疲れていた。研究室の匂いをまとい、シャツの袖をまくり、机に地図を広げていた。
だが、カセットの中の父は違った。
声に熱がある。
怒りもある。
そして、恐怖があった。
《消されたのは、名前だ》
その一文が、部屋の空気を変えた。
悠真は黙っていた。
いつもの軽口を言わない。
言えなかったのだろう。
澪は巻き戻しボタンを押した。
古い機械が、かすかな音を立てる。
もう一度、再生する。
《蔵の記録に、存在しない人物の署名がある。いや、正確には、死んだはずの人物の署名だ》
「死んだはずの人物……」
悠真が呟いた。
「戦時中の関係者?」
「たぶん」
澪は父のノートを開いた。
水位。
疏水。
閉鎖水路。
蔵。
その中に、何度も出てくる名前があった。
——白河宗一郎。
寺院の文化財保護に関わった人物。
記録上は、昭和二十年八月に病死。
だが、父のメモには別の一文がある。
《白河、戦後返還記録に署名》
悠真が眉を寄せた。
「死んだあとに署名してるってことか」
「うん」
「じゃあ誰かが名前を使った」
「それだけじゃない」
澪は別のページを開いた。
そこには、細い字でこう書かれていた。
《白河の名で、未返還品を返還済みに処理》
悠真の顔が険しくなる。
「つまり、存在しない返還を作った」
「文化財は戻っていない。でも書類上は戻したことにした」
「そのために、死んだ人間の名前を使った」
澪は頷いた。
人は死者に反論されない。
だから、都合の悪い真実を背負わせるには便利だった。
それが、澪にはたまらなく嫌だった。
翌朝、澪と悠真は大学へ向かった。
京都は晴れていた。
昨日の雨が町を洗ったように、石畳が光っている。
だが澪には、その光が薄く見えた。
きれいな町ほど、汚れを隠すのがうまい。
キャンパスに着くと、教授の研究室へ直行した。
ドアは開いていた。
だが教授はいない。
机の上には資料が広げられている。
昨日まであった古い写真も、木箱も消えていた。
「逃げた?」
悠真が言った。
「違う」
澪は机の上を見た。
コーヒーが半分残っている。
湯気はないが、完全には冷めていない。
椅子も引かれたまま。
急いで出たのだ。
あるいは、呼び出された。
書棚の一角に隙間があった。
澪はそこへ近づく。
昨日まであったはずのファイルがない。
《戦時文化財疎開記録》
背表紙だけ記憶している。
「持っていかれた」
「教授が?」
「か、誰かが」
その時、廊下から足音がした。
ルイだった。
額には白いガーゼ。
顔色は悪いが、目ははっきりしていた。
「教授はいませんか」
「いない」
ルイは部屋を見回し、唇を噛んだ。
「やはり」
「何か知ってるの?」
澪が聞くと、ルイは小さく頷いた。
「昨日、病院に匿名の封筒が届きました」
彼は鞄から紙を取り出した。
古い名簿のコピー。
戦時中の文化財疎開に関わった人物の一覧だった。
その中に、白河宗一郎の名がある。
そして、もう一つ。
澪は息を止めた。
白河宗一郎の隣に、手書きのメモがある。
《死亡確認に疑義》
「死んでいなかった?」
悠真が言った。
「可能性があります」
ルイは言った。
「祖父の記録にも、同じ名前が出てきます。戦後、フランスへ渡った日本人研究者として」
「白河が?」
「名前は違います。でも筆跡が似ている」
澪は名簿を見つめた。
死んだはずの人物。
戦後に署名。
海外へ渡った別名の研究者。
点が並んでいく。
人はそこに線を引く。
だが、急いで引けば間違える。
澪は深く息を吸った。
「白河は死んだことにされた」
悠真が顔を上げる。
「誰に?」
「分からない。でも理由はある」
ルイが続けた。
「文化財を海外に逃がすため?」
澪は首を振った。
「逆かもしれない」
「逆?」
「守るために、名前を消した」
部屋が静かになった。
澪自身も、その考えに驚いていた。
だが父の録音が耳に残っている。
《教授を責めるな。彼は最後まで迷っていた》
この事件には、単純な悪人がいない。
いるのは、守ろうとして間違えた人たちだ。
その時、澪のスマホが震えた。
差出人不明。
本文は短い。
《教授は鴨川へ向かった》
添付写真。
鴨川デルタ。
飛び石。
そして教授の後ろ姿。
悠真が画面を覗く。
「今度は鴨川かよ」
「始まりの場所に戻った」
澪はスマホを握った。
「行こう」
鴨川デルタは、昼の光の中で明るかった。
子供が飛び石を渡っている。
カップルが川辺に座っている。
観光客が写真を撮っている。
数日前、ここで始まった騒ぎは、もう別の話題に押し流されつつあった。
SNSの熱は速い。
そして冷めるのも速い。
けれど、水の下にはまだ真実が残っている。
教授は飛び石の近くに立っていた。
一人だった。
澪たちに気づいても逃げない。
「先生」
教授は川を見たまま言った。
「君のお父さんも、ここに立った」
「十五年前ですか」
「ああ」
「何を見つけたんです」
教授は少しだけ笑った。
悲しい笑いだった。
「見つけたのではない。気づいたんだ」
「何に?」
「暗号は、文化財の場所を示すものではなかった」
澪は黙った。
教授は続ける。
「本当は、人を探すための暗号だった」
悠真が眉をひそめる。
「人?」
「白河宗一郎だ」
川風が吹いた。
水面に小さな波が立つ。
教授はポケットから古い写真を取り出した。
そこには三人の男が写っていた。
若い父。
教授。
そして、見知らぬ老人。
老人の手首には、赤い紐。
中国結び。
澪の心臓が跳ねた。
「この人は……」
「白河宗一郎。いや、本名は別にある」
「生きていたんですね」
教授は頷いた。
「少なくとも、十五年前までは」
澪は写真を見つめた。
赤い紐。
帽子の女性。
中国語由来の暗号。
すべてが、白河へつながる。
「白河は、文化財を盗んだのですか」
教授は首を振った。
「違う。彼は守った。戦後の混乱で盗まれそうになった品を、記録から消して隠した」
「でも、その結果、未返還になった」
「そうだ」
「正義のために、別の不正をした」
教授は何も言わなかった。
水の音だけが返事のように響いた。
「父はそれを公表しようとした?」
「違う」
教授は即答した。
「秋人は、公表ではなく整理しようとした。白河の名誉を守り、文化財も正しく戻す方法を探していた」
「それで、なぜ消えたんですか」
教授の顔が苦しく歪む。
「止められなかった」
「何を」
「白河の孫だ」
澪は息を止めた。
帽子の女性。
赤い紐。
彼女は白河の孫。
教授は続ける。
「彼女の父親が、未返還品を売ろうとした。白河が守ったものを金に変えようとした」
「それが、十五年前?」
「そうだ。秋人は止めようとした。私も一緒にいた。だが……」
教授は言葉を切った。
それ以上は言えない。
いや、言いたくないのだ。
「父は死んだんですか」
澪の声は、自分でも驚くほど静かだった。
教授は澪を見た。
その目に、はじめて逃げ場のない痛みが浮かんだ。
「分からない」
「分からない?」
「秋人は、白河の孫娘を守るために姿を消した」
「なぜ」
「彼女はまだ子供だった。罪を背負わされるところだった」
澪は言葉を失った。
父は、誰かを守った。
そのために、自分の娘の前から消えた。
それは美談なのか。
裏切りなのか。
澪には分からなかった。
胸の奥が冷えていく。
教授は一枚の紙を差し出した。
「秋人が残した最後のメモだ」
澪は受け取る。
そこには父の字で書かれていた。
《澪へ。水は、失ったものを隠すのではなく、いつか返す》
視界が揺れた。
泣きたくはなかった。
でも、体は正直だった。
悠真が隣に立つ。
何も言わない。
その沈黙がありがたかった。
その時だった。
川下の方で歓声が起きた。
誰かが叫ぶ。
「また記号や!」
澪たちは振り返った。
飛び石の一つに、白い線が浮かび上がっている。
水位が下がり、隠れていた印が現れたのだ。
だが今度の記号は、これまでと違った。
三角でも半円でもない。
ひらがなのような形。
澪は近づいた。
水面に映す。
反転させる。
すると、二文字が読めた。
——あき。
悠真が呟く。
「秋人の、あき?」
澪のスマホが震えた。
差出人不明。
本文は一行。
《録音の続きを聞け》
澪はバッグからカセットを取り出した。
昨夜は途中で切れたと思っていた。
だが、裏面があった。
再生する。
ノイズ。
水音。
そして父の声。
《澪。もしここまで来たなら、私は君を信じている》
澪は息を止めた。
《私は死んでいない。ただ、雨宮秋人としては戻れない》
世界が静かになった。
鴨川の音も、人の声も遠ざかる。
父の声だけが、耳に残った。
《真実を知りたければ、天橋立へ来なさい。水が海に変わる場所で、最後の記録を渡す》
テープはそこで終わった。
澪は動けなかった。
父は生きている。
その可能性が、突然目の前に現れた。
喜びより先に、怒りが来た。
なぜ。
なぜ今まで。
なぜ私を置いて。
悠真がそっと言った。
「澪」
澪は顔を上げた。
川面に、空が映っている。
その空は揺れていた。
「行く」
澪は言った。
声は震えていなかった。
「天橋立へ」
教授は何か言いかけた。
だが、言わなかった。
止めても無駄だと分かっていたのだろう。
水は流れる。
止めようとしても、いつか別の道を見つける。
澪も、もう止まれなかった。
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