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鴨川デルタの暗号|第十二章 デルタの夜明け

京都駅発の特急はしだては、静かに北へ向かっていた。

窓の外を、町が流れていく。

ビル。

住宅街。

やがて田園。

さらに山。

京都という町は、不思議だ。

千年の歴史を抱えながら、少し電車に乗れば、急に海へ近づく。

澪は窓際に座っていた。

膝の上には、父のカセット。

何度も聞き返したせいで、テープの音は少し歪み始めている。

《天橋立へ来なさい》

その言葉だけが、頭の中に残っていた。

悠真は向かいの席で缶コーヒーを開けた。

「眠れた?」

「全然」

「やろうな」

悠真はそれ以上聞かなかった。

聞けば、澪が壊れる気がしたのだろう。

人は優しい時ほど、余計なことを言わない。

 

ルイは病院から直接来た。

まだ顔色は悪い。

だが目だけは強かった。

「祖父の資料、全部持ってきました」

鞄から古いファイルを取り出す。

フランス語。

古地図。

水位記録。

その中に、一枚だけ異質な写真があった。

天橋立。

海面に伸びる砂州。

その中央に、小さな建物。

「これ、何」

澪が聞く。

「旧観測所です」

ルイが答える。

「戦前、潮位と水位を測っていた施設。でも戦後すぐ閉鎖された」

悠真が写真を覗き込む。

「なんでそんな場所が関係あるんや」

ルイは少し迷った。

「地下水路は、最後に海へ繋がるからです」

澪は窓の外を見た。

山の向こうに、薄く海が見え始めていた。

水は流れる。

川から海へ。

そして、秘密もまた流れていく。

 

天橋立駅に着く頃には、空は夕方に近づいていた。

観光客は多い。

土産物屋。

遊覧船。

ソフトクリームを持つ子供。

ここにも、普通の時間が流れている。

だが澪たちは、その裏側を探しに来た。

 

旧観測所は、観光エリアから少し外れた場所にあった。

小さなコンクリート建築。

錆びた扉。

海風に削られた壁。

もう使われていない。

だが、完全には捨てられていない空気があった。

悠真が扉を押す。

開いた。

「鍵かかってへん」

中は暗かった。

潮の匂い。

湿った空気。

床には古い水位計が残っている。

澪は壁を見た。

そこに、見覚えのある記号が刻まれていた。

三角形の中央に一本線。

閉鎖水路の印。

「ここも……」

「繋がってる」

悠真が言った。

 

奥の部屋へ進む。

机が一つ。

その上に、カセットデッキが置かれていた。

電源ランプがついている。

誰かが最近使った。

澪の心臓が強く打つ。

机の上に、一枚の紙。

《澪へ》

父の字だった。

澪は紙を掴む。

《最後まで来たね》

視界が揺れる。

怒りなのか。

安堵なのか。

自分でも分からない。

《君に会う資格が、私にあるのか分からない》

澪は唇を噛んだ。

悠真とルイは黙って後ろに下がる。

今だけは、澪一人の時間だった。

 

カセットデッキに、新しいテープが入っていた。

再生ボタンを押す。

ノイズ。

海の音。

そして、父の声。

《澪。まず謝る》

澪は目を閉じた。

《私は、生きている》

その一言で、十五年の時間が崩れた。

《だが、帰れなかった》

「帰れなかった……?」

澪は小さく呟く。

《白河の孫を守るためだ》

帽子の女性。

赤い紐。

暗号を描いた彼女。

《あの子の父親は、未返還文化財を海外へ流そうとした。私は止めた。だが、その過程で一人が死んだ》

部屋が静まり返る。

悠真もルイも動かない。

《事故だった。だが、公になれば、白河の名も、文化財も、全部終わる》

澪は拳を握った。

「だから消えたの……?」

《私は、“雨宮秋人”として死ぬことを選んだ》

テープの向こうで、父は少し笑った。

疲れた笑いだった。

《格好つけすぎだと、自分でも思う》

澪の目から涙が落ちた。

怒っていた。

ずっと。

なのに、その声を聞いた瞬間、怒りだけではいられなくなった。

 

《教授は最後まで迷っていた。彼は悪人じゃない》

「知ってるよ……」

澪は小さく答えた。

《そして、暗号を広めたのは、白河の孫娘だ》

帽子の女性。

やはり彼女だった。

《彼女は、隠され続けることに耐えられなかった。だからSNSを使った》

悠真が小さく呟く。

「バズを利用した告発か」

澪は頷いた。

隠された歴史は、誰にも知られなければ消える。

だが一度“話題”になれば、簡単には消せない。

それが令和のやり方だった。

 

テープは続く。

《文化財は、一部が本当に失われた》

澪は息を止めた。

《だが、大半は守られた。白河は盗人ではない。守るために罪を犯した》

人は、正しいだけでは生きられない。

何かを守ろうとして、別の何かを壊す。

この事件の全員が、そうだった。

教授も。

父も。

帽子の女性も。

 

《最後に》

父の声が少しだけ柔らかくなった。

《澪。君はもう、私より上手に真実へ辿り着ける》

澪は泣きながら笑った。

勝手な父だ。

消えておいて。

最後だけ、父親みたいなことを言う。

《だから、戻りなさい》

「……え?」

《真実を抱えたまま、普通に生きるんだ》

テープはそこで終わった。

海の音だけが残る。

 

部屋の中に、長い沈黙が落ちた。

最初に口を開いたのは悠真だった。

「つまり、事件の本質は……」

「文化財の盗難じゃない」

澪が言った。

「記録の改ざん。名前の抹消。そして、秘密を守るために消えた人たち」

ルイが静かに続ける。

「白河は死んだことにされた。雨宮さんも、自分を消した」

「全部、“守る”ためやったんやな」

悠真が言う。

その声には、怒りとやるせなさが混ざっていた。

守る。

その言葉は綺麗だ。

でも、人を傷つける時もある。

 

その時だった。

外で足音がした。

三人が振り返る。

入口に、帽子の女性が立っていた。

風で髪が揺れている。

赤い紐が手首で揺れた。

「聞いたんですね」

澪は頷いた。

女性は少しだけ笑った。

泣きそうな笑顔だった。

「祖父は、最後まで文化財を戻そうとしていました。でも、途中で全部壊れた」

「あなたのお父さんは?」

女性の表情が硬くなる。

「逃げました。売れるものだけ持って」

澪は何も言わなかった。

責める資格は、自分にはない気がした。

 

女性は一枚の封筒を差し出した。

「これは、本当に返還されていない品の記録です」

澪は受け取った。

中には写真と台帳のコピー。

失われた文化財。

現在の所在不明品。

そして、返還済と偽装された記録。

全部が残っていた。

「公表するの?」

女性が聞く。

澪は少し考えた。

窓の外では、天橋立の海が夕日に染まっている。

水面が赤く光っていた。

「全部はしない」

「え?」

「守らなきゃいけないものもあるから」

悠真が澪を見た。

その目に、少しだけ安心した色が浮かぶ。

澪は続けた。

「でも、消された名前は戻す」

それが答えだった。

白河も。

父も。

消された人たちを、ちゃんと歴史へ返す。

 

観測所を出る頃には、空は夜になっていた。

海風が冷たい。

天橋立の砂州には、静かな波音が続いている。

京都の川は、最後に海へ出る。

そして海は、全部を飲み込む。

けれど、本当に大事なものは、完全には消えないのかもしれない。

 

帰りの電車を待つホームで、悠真が缶コーヒーを投げてよこした。

澪は受け取る。

「あったか」

「そらホットやし」

「ありがとう」

悠真は少し照れたように視線を逸らした。

「なあ」

「何?」

「これから、どうする」

澪は少し考えた。

そして笑った。

「まず、大学戻ってレポート出す」

悠真が吹き出した。

「急に現実やな」

「大事だよ」

「確かに」

二人は少し笑った。

その笑いが、やっと“日常”へ戻る音に聞こえた。

 

その時、澪のスマホが震えた。

新着メール。

差出人不明。

件名はない。

本文は一行。

《次は、東京で会おう》

添付された写真。

夜の東京駅。

そのホームの端に、一人の男が立っている。

帽子を深く被っていた。

だが澪には分かった。

父だった。

物語は終わった。

けれど、水の流れは、まだ続いていた。


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