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鴨川デルタの暗号|第三章 古地図のズレ

翌日の京都は、朝から雨だった。

細かい雨粒が、鴨川の水面を灰色に染めている。

飛び石は半分ほど沈んでいた。

昨日まで騒いでいた大学生たちも少ない。

その代わり、SNSはさらに熱を帯びていた。

『第三の記号を発見』

『地下都市説が濃厚』

『京都の封印された財宝』

動画は次々に投稿される。

真実より、“面白そうな話”の方が速く広がる。

澪はスマホを閉じた。


「絶対、話盛ってるやろ」

大学近くの喫茶店で、悠真が呆れた顔をしていた。

古い店だった。

木の床。

少し暗い照明。

壁には色褪せたジャズポスター。

観光客向けではない、本物の京都の店だ。

「この“地下神殿説”とか意味わからん」

「でも、人は地下好きだから」

澪はコーヒーへ口をつけた。

「見えないものって、想像できるでしょ」

「おまえ、たまに怖いこと言うな」

「普通だよ」

窓の外を、雨の観光客が歩いていく。

外国語が混ざる。

京都では、それが日常だった。


テーブルには数枚のコピーが広がっている。

明治期の鴨川改修図。

旧河道図。

琵琶湖疏水関連資料。

そして、昨日ルイが持ってきたフランスの運河図面。

悠真が一枚を指差した。

「これ、ほんまに似てるな」

白線記号。

半円。

斜線。

配置。

確かによく似ている。

「でも完全には一致してない」

澪は言った。

「少しだけ違う」

「どこが?」

澪はペンで印をつけた。

「角度」

悠真が身を乗り出す。

「これ、本来なら水流方向を示す記号なの。でも鴨川の記号は、少し傾いてる」

「つまり?」

「“別の意味”を重ねてる」

悠真は黙った。

澪がこういう顔をしている時は、本気で考えている時だ。


その時だった。

店のドアベルが鳴る。

ルイだった。

濡れた髪を軽く払いながら近づいてくる。

「すみません、遅れました」

「別に」

ルイは席へ座った。

店員にフランス語混じりの日本語で注文する。

妙に自然だった。

「京都、慣れてるね」

澪が言うと、ルイは笑った。

「祖父が日本好きだったんです。子供の頃から京都の写真を見てました」

「へえ」

「特に水路」

その言葉に、澪の視線が止まる。


ルイはバッグから古い写真を取り出した。

白黒だった。

煉瓦造りのトンネル。

その前に立つ、外国人技師らしき男たち。

「これ、昨日の資料の続きです」

写真の端に、小さな文字が写っていた。

《Canal Experimental》

「実験運河……?」

ルイが頷く。

「十九世紀ヨーロッパでは、水流を利用した地下輸送の研究が多かったんです」

悠真が顔をしかめる。

「地下輸送?」

「小型の舟や物資です」

澪は写真を見つめた。

煉瓦。

地下。

水路。

父のノートにあった単語が頭をよぎる。

——地下水路。


「これ、日本にも影響あったと思います?」

澪が聞く。

ルイは少し考えた。

「明治時代、日本はヨーロッパ技術を大量に取り入れています。特に京都は、かなり早い」

琵琶湖疏水。

日本初の事業が多い。

水力発電。

トンネル工法。

近代土木。

京都は“古い町”に見える。

だが実際は、日本でも最先端だった。


「つまり」

悠真が言う。

「鴨川の記号、近代水路技術と関係あるかもしれんってこと?」

「可能性はある」

澪は答えた。

だが、まだ何か足りない。

決定的な一本の線が繋がらない。


店を出る頃には、雨が少し弱くなっていた。

三人は河原町通を歩く。

観光客。

修学旅行生。

着物レンタル店。

スマホ片手の配信者。

京都は昔の町並みを残している。

だが歩いている人間は、全員スマホを見ている。

その奇妙な組み合わせが、澪は嫌いではなかった。


「そういえば」

悠真が言った。

「例の最初の投稿、調べたで」

「何かわかった?」

「アカウント、海外サーバー経由やった」

澪が足を止める。

「海外?」

「たぶん身元隠してる」

ルイが反応した。

「VPNですね」

「詳しいな」

「留学生、よく使います」

ルイは笑った。

だが澪は、その笑顔を少しだけ観察した。

目が笑っていない。

一瞬だけ。

ほんの一瞬。

違和感。

だが次の瞬間には消えていた。


大学へ戻ると、図書館の地下資料室へ向かった。

一般学生は滅多に来ない場所だった。

古い紙の匂いがする。

空気が乾いている。


「うわ、秘密基地みたいやな」

悠真が小声で言う。

澪は棚を見回した。

京都河川改修資料。

疏水計画。

旧地籍図。

その中に、一冊だけ不自然なファイルがあった。

背表紙に番号がない。

澪は取り出した。

中を開く。

古地図だった。

だが妙だった。

一部だけ、切り取られている。

「なんやこれ」

悠真が覗き込む。

澪は黙ったまま地図を広げた。

鴨川デルタ周辺。

現在は存在しない細い支流。

そして。

その水路の先が、空白になっている。

まるで、そこだけ隠したように。


「……誰かが抜いた」

澪が言った。

「わざと?」

「たぶん」

その時だった。

背後で、微かな物音。

三人が振り返る。

誰もいない。

だが資料室の奥の扉が、わずかに揺れていた。

悠真が眉をひそめる。

「誰かおる?」

返事はない。

静寂。

古い換気音だけが聞こえる。


澪はゆっくり歩いた。

扉を開ける。

細い通路。

誰もいない。

だが床に、水滴が落ちていた。

点々と。

まるで濡れた靴で歩いたように。

悠真がしゃがみ込む。

「新しいな」

「うん」

澪は通路の奥を見る。

暗い。

その先だけ照明が切れていた。


突然。

スマホが震えた。

通知。

#鴨川デルタの暗号

新しい投稿だった。

投稿者不明。

動画は十秒。

夜の鴨川。

そして最後に、一瞬だけ映る白線。

今までと違う記号だった。

三角形の中央に、一本線。

ルイが小さく呟く。

「……ありえない」

「何が?」

ルイは動画を見つめていた。

顔色が変わっている。

「その記号、閉鎖水路を示す印です」

空気が止まった。

「閉鎖……?」

澪が聞き返す。

ルイは頷いた。

「普通は、地図に残しません」

「なんで?」

ルイは少し迷ったあと、静かに言った。

「危険だからです」

その瞬間だった。

資料室の奥で。

ゴン、と低い音が響いた。

何か重いものが動いた音だった。

三人は同時に振り返る。

暗い通路の奥。

そこに、一瞬だけ人影が見えた。

帽子を深く被った男。

だが次の瞬間には消えている。

悠真が走り出した。

「待て!」

足音が響く。

澪も追う。

古い資料室。

狭い通路。

湿った空気。

奥へ進むほど、水の匂いが強くなっていく。

そして。

突き当たり。

そこには古い鉄扉があった。

錆びついている。

だが。

鍵の周囲だけが、不自然に新しかった。


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